第82話 三国の水時計
三国分の椅子は、同じ高さにそろえてあった。
それでも、誰も座ろうとしなかった。
午前の光が差す国境中立会館で、カイルは公開卓を挟んだ三人の代表と向き合っていた。背後には各国の技師と住民代表、左右には一つずつ、正面奥にも一つ出口がある。夜通し馬に揺られた脚へ、石床の冷たさが長靴越しに上がってきた。
故国の井戸へ水が戻ってから、まだ一日も経っていない。山上の第三冠座には百年分の水が蓄えられ、壊せば三つの流域へ一度に落ちる。次の夕鐘までに三国同時の放流が決まらなければ、登山隊は退路を一段下げるしかない。遅れた一国の代わりに、先に門を開けた土地が水をかぶる。
中央の百年重ね図だけが、三人の中間に置かれていた。
故国側の水差しだけは布で覆われ、沿岸国側の胴には海塩の白い輪が残り、アルヴェーン側のものは満ちている――どの国が何を恐れてこの卓へ来たか、口を開く前から水差しが告げていた。
「冠座停止の必要は認めます」
沿岸国の代表が手袋を外さないまま言った。
「ただし、最初に貯水を放つ国にはなれません。沿岸門は塩害の修復中です」
「故国の古水門は昨夜戻したばかりだ」
反対側から声が重なる。
「アルヴェーンの旧堤防は、王都の放流路まで使えるのでしょう。まずそちらが余裕を示すべきでは」
数字の議論に見えて、数えているのは自国で失う桶の数だ。相手の井戸が先に乾けば、その分だけ交渉材料が増える。父の時代から何度も見てきた水利会議と同じだった。
今回は、最後まで水を抱えた国も無事では済まない。
カイルは三地域の受容量を示した。
「一国が抜ければ、残る二国の安全幅を超える。順番では解決しない」
「その計算を、アルヴェーンの水務監が作った」
故国側の代表が百年重ね図を指で叩いた。
「そしてアルヴェーンは、旧水売買契約で先に水を得てきた。今度は平等を信じろと?」
エリナから預かった資料箱の留め金へ手をかけた。
開いた箱から、青い革紐で綴じた契約原本を取り出す。塩気を吸った紐は白く硬くなり、紙を開くたび結び目から白い粉が机へ落ちた。
「信じろとは言わない」
アルヴェーン公爵家の印がある頁を、相手側へ向けた。
「同じ資料で損失を計算してほしい。ここには、我が国が得た分も載っている」
三人の代表は、ようやく椅子へ腰を下ろした。
◇
午後の公開検証室には、国ごとに形の違う算盤石が並んだ。
丸い石、穴の開いた陶片、角を削った木札。単位も基準時刻も違うため、技師たちは換算票の同じ行を何度も行き来した。住民代表は別卓で井戸の最低線と避難路を確かめ、国の集計を見ずに自分たちの損失欄を埋めていく。
予定していた半刻を過ぎても、一枚目の表さえ終わらなかった。
「沿岸門の一段は、こちらの二段に当たる」
「満水時だけです。今朝の塩分なら、一段半で止めます」
「それでは故国側の受容量が増える」
「増えません。古水門は第二段から迂回溝が要ると、現地主任の記録にあります」
言葉を挟む代わりに、カイルは人数を数えた。技師が七人。住民代表が六人。最も疲れているのは、計算のたび眼鏡を外す沿岸の井戸番だった。
薄い茶を回すよう頼むと、故国側の代表が苦く笑った。
「親切で水量が増えればよいのですが」
「増えないな。計算を続けてもらうためだ」
乾いた返事に、井戸番だけが湯気の向こうで口元を緩めた。
やがて三つの卓から、別々の再計算表が出た。
どの表でも、一国を抜いた瞬間に先行流域の損失線が赤へ入る。開く幅を変えても、順番を変えても同じだった。
沿岸国の代表は数字を見ても腕を組んだままだった。
「安全になることと、停止後の水を誰が取るかは別です。覚書へ署名した翌日、アルヴェーンが旧契約を持ち出さない保証は?」
ここで署名を急がせれば、長く水を奪われた国へ、またアルヴェーンの都合を飲ませる。待てば、登山隊の退路が一段ずつ狭まり、先に門を開ける土地が危険を負う。
「保証を先に置く」
カイルは手袋を外した。
旧契約の優先取水欄は、アルヴェーンが他国の渇水時にも一定量を先に受け取れる条項だった。書記から借りたペンで、その一行へ線を引く。覚書の余白へ、同じ権利を今回の交渉から放棄すると書き、名を記した。
その一行の下には、乾季の畑へ回してきた水量と足りない分を買い戻す費用がぶら下がり、帰国すれば財務官にも議会にも自分の名で説明しなければならない。紙の上の線ほど軽い損失ではなかった。
ペン先が紙を抜ける音が、計算の止んだ室内に残る。
「公爵家の利益を、独断で捨てるのですか」
「私が交渉へ持ち込んだ権利だ。捨てた責任も私が負う」
「あなたの責任で、民の喉は潤いません」
「だから、署名だけで信じなくていい」
三枚の再計算表を示した。
「原資料は各国へ置く。受容量が下限を割れば、国家代表、技師、住民観測班のどこからでも停止を申し出られる。一国が止めたら、全員が止める」
三国同時放流覚書。分散解除の時刻、門を開く幅、中止条件、記録公開を三国が同じ文面で確かめる緊急合意である。
故国側の代表は、自国の署名欄をすぐには引き寄せなかった。
「アルヴェーンを許したわけではありません」
「その必要はない」
「停止後の配分は、別に争います」
「それも記録へ入れよう。今日は山を崩さないための合意だ」
代表は書記へ一文を加えさせた。恒久的な水利配分を、この覚書だけでは決めないこと。
沿岸国も、自国技師の計算印を確かめてから署名した。最後の国は、住民代表が赤い停止欄を読み上げるまでペンを持たなかった。
三本の署名線が埋まる。
拍手は起きない。各国の書記が写しを取り、技師が門の開度を読み直し、住民代表は自分たちの停止札の色を確かめている。
それでよかった。祝うより先に、動かせる合意になっていた。
◇
夕刻、水時計試験台へ三つの受け皿が置かれた。
夕鐘の余韻が試験室の高窓を震わせ、署名済みの覚書三通は乾燥棚に並んでいた。三国の技師長と通信係は、門ごとの開度表を手に試験台を囲んでいる。
運び込まれた水時計は二台だけだった。透明な筒から一定量の水を落とし、門を動かす刻をそろえる道具だ。技師長が同時に栓を抜くと、最初の滴はほとんど重なって金属皿を鳴らした。
二滴目も近い。
三滴目で、音が二つに分かれた。
十目盛りを過ぎる頃には、片方の皿が鳴ったあと、技師が顔を上げるだけの間が空く。門の操作時刻へ直せば、ずれは数分になるという。
「補正票を作れないか」
「どちらを基準にするか決められません」
技師長は二台の底を見せた。修理印も筒の太さも異なっている。
「数分なら、伝令で合わせられるのでは」
「山上から最初の圧力が来た時、先に開いた流域が受けます。伝令が着く頃には門幅が変わります」
カイルは乾いたままの三つ目の受け皿を見た。
基準水時計。冠座の建設時、三地域の操作時刻を同じ落下間隔へ合わせるために作られた原器である。各国の時計は、本来それへ重ねて直すものだった。
「記録にないのか」
通信係が移管簿の写しをめくった。余白の折り跡を伸ばし、古い行へ指を止める。
「一台だけ、故国宮廷へ移されています。返却欄は空白です」
「保管場所は」
「移管先が伏せられています。ただ、監察記録に照会できる者が一人」
声が途切れる。
カイルは手袋を卓へ置いた。自国の不利を開く時より、その名を待つ方が長く感じられる。
「所在を知る者は、トリスタン卿です」




