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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
誰の空でもある雨

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第84話 侯爵の椅子

 侯爵邸の避難鐘は、ローランの命令を待たずに一度鳴った。


 朝の余韻が地下廊下まで沈んでくる。継承庫の青銅扉を背に、ローランは監察官、三国の立会人、領民代表と向き合っていた。右手には家令、正面にはエリナとアルヴェーン公がいる。昨日トリスタンが残した無条件証言書の写しは、扉脇の台へ開かれていた。


 山上の第三冠座には、百年かけて奪われた水が蓄えられている。三国の門を同じ刻に動かす基準水時計が、この扉の向こうにある。次の夕鐘までに原器を試験台へ届けられなければ、一つの流域へ放流水が偏る。


 当主印をはめた右手だけが、扉を開けられた。


「時計はここでお渡しする」


 なるべく交渉に聞こえる声を選んだ。


「庫内へ入る必要はない。原器の引渡しが目的なら、それで足りるはずだ」


 監察官は返事の代わりに、証言書の末尾を指した。基準水時計と保管記録の同時確認。トリスタンが加えた要望だった。


「水時計だけを持ち出せば、保管の経緯が検証できません」


 エリナの声は静かだった。家族へ意見を言う時、以前は結論の前に幾つも断りを置いた。今は置かない。


「隠匿台帳と優先契約も、立会簿へ載せます」


「家の記録を、すべて晒すつもりか」


「必要な範囲を、立会人が確かめます。私が決めることではありません」


 後継当主のように振る舞うつもりがないからこそ、言葉は動かなかった。


 扉の浮彫には、初代から続く葡萄蔓が一周している。子どもの頃、ローランは父から、ここを開ける手だけが領地を守れると教わった。エリナにも同じ話をした。扉の中身を見せずに、守らせるための教えだった。


 廊下の上で、二度目の鐘が鳴りかけて止まる。


 続いて、階段を駆け下りる靴音がした。


◇


 避難指揮室へ届いた命令書には、侯爵家の古い救護印が押されていた。


「邸を避難拠点とし、領民を正門前へ集めよ。家財搬出を優先し、街道を確保せよ」


 家令が読み終えると、古参の使用人たちが一斉にローランを見た。壁には高地へ向かう三本の避難路が描かれ、赤い駒が少しずつ上へ移っている。正規の住民観測班から届いた票には、泥の付いた魚印と、現在の水位があった。


「正門前なら、点呼も配給も家の者が仕切れます」


 家令は声を落とした。


「絵画と家譜を運ぶ馬車も、同じ列へ入れられます。侯爵家が民を守った形は残せましょう」


 形。


 命令書を机へ戻した。封蝋の赤は見慣れた色だった。これへ当主印を重ねれば、邸の前に人が戻る。命令を待たずに動き始めた領民も、もう一度この家を中心に数え直せる。


 窓の外を、空の荷馬車が二台通った。家譜箱を積むため、昨夜から厩に残していた車だった。


「西低地の老人は」


「高道へ十七名。あと六名です」


「河岸市場は」


「子どもの列が出ました。正門へ戻せば、半刻は余計にかかります」


 偽命令が求めているのは避難ではない。人の流れを折り返し、開庫までの時間を食うことだった。それでも家令は間違っていると思っていない。屋根と倉を持つ家が先頭に立つ。それが彼の知る救護だった。


 当主印を押す場所が、紙の下で待っている。


「邸を拠点から外せ」


 家令の唇が開いたままになった。


「正門の誘導札も撤去する。二台の馬車は西低地へ回し、歩けない者と寝具を高道へ運べ。絵画は残す」


「水が来れば、失われます」


「人を戻せば、そちらを失う」


 説明はそれだけでよかった。


 家令は、命令書を開いたまま壁の配置表へ向き直った。侯爵邸の札を外し、二台の馬車へ西低地の白札を掛ける。横顔は、まだ納得から遠い。


 車輪が石畳を噛む音は、地下廊下とは反対の坂へ遠ざかっていった。


◇


 午前の終わり、継承庫の前へ全員が戻った。


 避難報告では、正門へ折り返した者はいない。最後の六名も高道の診療所へ着いた。監察官が時刻を読み上げ、三国代表と住民代表が開庫立会簿の最初の行へ名を置く。


 右手の当主印を、扉中央の窪みへ差し入れた。内側で金具が四度、重い順に外れる。幼いエリナが数えたがった音だ。あの頃は、四つ目の前で必ず彼女を廊下へ返した。


 扉が開くと、乾いた杉と古い蝋の匂いが流れ出した。


「冬期水利記録、第六棚の内側です」


 証言どおり、棚札が上下逆に打たれている。家令が灯りを上げ、監察官が外棚を退けた。


 透明な筒を三本の脚が囲み、底の冠形だけが青く錆びている。基準水時計は、布包みの中で傾きもせず残っていた。


 その隣に、革表紙の台帳が三冊ある。


 一冊目には水売買の優先契約。二冊目にはヴェルク系商会からの入金。三冊目の頁を開くと、幼い字で記された風向と井戸水位の横に、侯爵家治水事業と朱書きされていた。申請者はローラン・ヴァルクール。観測者の欄はない。


「水時計だけを立会台へ」


 言いかけた声が、庫内の木壁へ戻った。


 時計だけを渡せば、三国の門は動く。台帳を残せば、侯爵家が何をしてきたかも、しばらくは扉の内側に置ける。


 だが、監察官の手はまだ何にも触れていない。命じるのを待っているのではなく、当主自身が選んだ物を記すために待っている。


「三冊とも出せ」


 家令が動かない。


「水時計、隠匿台帳、水売買契約。開庫立会簿へ一つずつ書け」


「ローラン様」


「庫は閉じ直さない。監察封を掛け、以後は監察官の管理へ移す」


 エリナは礼を言わなかった。台帳へ手も伸ばさず、時計の筒にひびがないかを立会人と同じ位置から見ている。


 それでよいはずなのに、その距離が少し堪えた。


 水時計は緩衝布へ包まれ、三国の印を付けた運搬箱へ納まった。台帳と契約は別の箱へ移る。最後に当主印を扉から抜くと、窪みには葡萄蔓の輪だけが残った。


◇


 午後の公開評議場では、侯爵の椅子だけが壇上にあった。


 四つの席は、これまで下段へ並べられていた。そこから見上げられることには慣れている。座れば発言の順も、予算の配分も、避難鐘を鳴らす刻も決められた。


 書記が当主辞任書を読み上げる。


 水務、避難、予算の決定権を暫定領地評議会へ移す。暫定領地評議会とは、当主の退任後、四つの席が公開記録を残して領地の判断を担う移行機関である。


「後継当主に、エリナ様を」


 下段から声が上がった。ほかにも頷く者がいる。


 娘を見た。家を残せる最後の道が、他人の口から差し出される。


「継ぎません」


 エリナは短く答えた。


「私は水時計の検証に立ち会います。領地の判断は、ここに残る方々がしてください」


 拒絶を聞いても、もう説得する言葉はなかった。


 辞任書へ名を書き、当主印を押した。赤い蝋がまだ柔らかいうちに、指から印を外す。


 壇上の椅子は、背が高すぎて一人では運びにくい。家令が片側を持とうとしたが、ローランは首を振った。脚を床へ擦りながら壁際まで引く。磨かれた板に、淡い筋が長く残った。


 代わりに、下段の四脚が同じ卓へ上げられた。


 住民席。技師席。耕作者席。行政官席。


 誰もローランへ座る順を尋ねなかった。点呼が始まり、最初の議題として三国作戦への参加が読まれる。四人は一人ずつ賛成を告げ、故国の名を新しい覚書へ加えた。


 基準水時計を載せた馬車は、もう中立会館へ向かっている。


「参加後の配分について、確認があります」


 耕作者席の女が、届いたばかりの協定案を持ち上げた。


「門を止めたあと、足りない水を誰が引き受けるのですか」


 書記の筆が止まり、四つの席が同じ空欄を見た。


 壁際の侯爵の椅子には、もう誰も座っていなかった。

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