第79話 二人分の手
二枚の赤い停止札が、別々の台へ伏せられていた。
夜明け前、侯爵邸の丘の下にある古水門の作業前室は青白い灯りに満ち、本門側にエリナとサーラ、向かいの乾燥鍵側にミレーユと技師班が並んでいた。カイルと三人の水路顧問は、岩壁へ引かれた白線の外にいる。
革手袋は岩壁の雫を吸い、指を曲げるたび小さく軋んだ。昨日、ミレーユは「晴れの聖女」の称号を返し、予備鍵盤の第一層だけを乾かして、自分の判断で止めた。今日は本門を一段開き、地下河を旧河道へ戻さなければならない。失敗すれば、急な圧力波が坑道と下流の河床を崩し、高道へ避難した人々は帰る道を失う。
岩壁の白線は、水門の開閉を誤った時に圧力波が届く水撃退避線で、作業中は誰も越えてはならない。
「雨読み側の停止条件を読みます」
エリナは自分の札を返した。
「水位輪が青帯を外れる。地上の打音が途切れる。天冠管の吸引が二段上がる。どれか一つで停止します」
サーラが計器の留め金を確かめ、短くうなずく。
向かいで、ミレーユがもう一枚を返した。
「光が第二層へ入る。手首の熱が記録票の上限へ届く。乾いた線へ湿りが戻る。どれか一つで停止します」
声は広場にいた時より小さい。それでも、聞き返す必要はなかった。
二重作動錠は、雨読みが水位輪を安全な位置へ合わせ、晴れの祝福が濡れた鍵層だけを乾かした時に動く古い錠だ。片方だけを強くすれば、錠が開くより先に石か人が壊れる。
「安全域が短すぎた場合は、公爵閣下の判断で続行を?」
若い技師が訊いた。
カイルは手袋を外し、白線の外に並ぶ人数をもう一度見た。
「私が決めるのは退避だけだ。どちらかの札が上がれば、ここにいる全員を出す。続けるかは二人の仕事だ」
「退避完了の合図は?」
「私の声を待つな。最後の者が白線を越えたら、入口の鎖を落とせ。それを合図にする」
命令は短く、逃げる順だけが明確だった。
マルタたち水路顧問は、退避線の外から古い清掃路を指した。水門が唸った時には右の石段を使わない。床下の圧力が抜けるまで、壁へ寄らない。名のなかった手順が、今日は三人の名で読み上げられている。
エリナは自分の札へ掌を置いた。
「私の水位へ、手を出さないでください」
「はい。お姉様も、私の光へ手を出さないで」
返事は柔らかくない。今は、その硬さの方が信用できた。
◇
本門の前では、岩壁の雫が一つずつ肩へ落ちてきた。
エリナは水位輪へ両手をかける。濡れた真鍮は見た目より重く、向かい側ではミレーユが乾燥鍵の前に立って、祝福使用記録票を石台へ留めた。
地下水位は青帯の下をゆっくり上がっている。地上の見張りから、二打。下流河床に新しい亀裂なし。退避線、無人。
「安全域まで、あと六拍です」
「第一層の縁から始めます」
ミレーユの掌に、爪先ほどの金色が灯った。
光は日輪の刻印を細くなぞり、濡れた灰色を一筋だけ白くする。水位輪が手袋の中で押し返してきた。天冠管は、遠くの何かが息を吸うように地下水を引いている。
「あと四拍」
乾いた線が半周する。
その時、床の下から硬い震えが突き上げた。
水位輪の針が青帯を飛び越えて戻る間に、天冠管の吸引は一段、さらに半段まで上がり、安全域が急に狭くなった。
「止めます」
ミレーユが赤い札を上げた。
光はまだ第一層の内側にある。手首も記録の上限には届いていない。続けられるように見えた。
あと少しなら。
エリナの口へ、「私が代わる」が上がりかける。乾燥の幅を自分で決め、妹の手から危険だけを取り上げればいい。昔から何度も選んだ、よく知る近道だった。
赤い札の下で、ミレーユの指は光を閉じていた。
「停止を採用します。全員、手を離してください」
サーラが第一逃がし弁を開く。技師班は輪へ差した棒を抜き、白線の外へ下がった。最後の靴が境界を越えると、入口の鎖が床へ落ちる。
石扉の向こうで重い水が一度ぶつかったが、次の衝撃は来ず、逃がし溝から流れた細い泥水と一緒に、足の裏へ伝わっていた震えも薄くなった。
「止めた理由は、湿りの戻りです」
ミレーユが記録票の第一層を指した。乾いた線の端へ、小さな黒い点がにじんでいる。
「吸引が変わる前に、ここだけ戻りました。出力を足せば消せたかもしれません。でも、測っていません」
「測ります」
それだけ答え、エリナは水位輪の目盛りへ目を戻す。
技師が石の温度と割れを調べる。損傷はなく、乾燥幅は上限内、水位輪も元の溝へ戻った。
誰も、失敗した者を探さない。
待つ間、マルタが籠から干し杏を一つ取り出した。歯を当てて、すぐに眉をしかめる。
「水門より先に、こちらを湿らせてほしいものですな」
サーラが鼻を鳴らし、湯の入った杯へ杏を沈めた。
「そいつは全部濡らしていい。記録票もいらないよ」
ミレーユの口元が、ほんの少し緩んだ。
地上から新しい打音が届く。二打、間を置いて一打。下流は安全。天冠管の吸引は弱まり、次の安全域が近い。
「今度の窓は?」
「三拍もありません」
若い技師の答えに、誰も急げと言わなかった。
エリナは水位輪へ戻る。ミレーユは記録票の停止欄へ自分の名を書き、乾燥鍵の前へ立った。
「湿りが戻ったら、もう一度止めます」
「はい」
「お姉様の針が外れた時も」
「私が止めます」
互いの仕事を増やす言葉は、そこまででよかった。
水位が青帯へ触れる。
「入ります」
金色が第一層の端へ沿った。
天冠管が低く鳴り、水位輪が急に重くなる。右へ半目盛りが安全帯だ。その先まで回せば、開きかけた門へ圧力が集中する。
「一つ」
エリナは輪を半目盛り上げた。
ミレーユの光が、濡れた刻印を指一本分だけ白くする。
「二つ」
もう半目盛り。
妹の手を見ない。見るのは水位だけだ。乾燥鍵の側からも、指示は飛んでこない。
「今です」
二人の手が、別々の輪を回した。
乾燥鍵の奥で歯が一つ落ちる。水位輪の溝が噛み合い、石扉の下端が指二本ぶん浮いた。
冷たい空気が足元を抜け、そのあとに土と古い石の匂いが濃くなると、扉の向こうで待っていた水は細い筋になって旧河道へ入り、やがて途切れない水音へ変わった。
「部分開放、保持!」
サーラの声で、技師班が固定棒を差し込む。
ミレーユはすぐに光を消し、記録票へ停止時刻を書いた。エリナも輪から手を離す。手袋の内側に残った真鍮の重さが、ゆっくりほどけていった。
向かいにいる妹は、褒めてほしいとも、許してほしいとも言わなかった。
「私の層は、上限内です」
「こちらも安全帯です」
二枚の赤い札は、どちらも上がらなかった。
◇
観測盤の部屋へ、昼に近い光が細い窓から差し始めていた。床を走る旧河道の溝には最初の水が広がり、乾いた灰色が端から濃くなって、エリナの靴底へ湿りを返す。地上の水位札は危険線から一つ下がり、下流の見張りからも河床に割れなしの報告が届く。
「城下の井戸は?」
「まだです。今回の開度では、旧河道の途中まで」
期待した顔を作りかけた技師へ、サーラが固定棒を示す。
「一段は一段だ。全部戻した顔をするのは、次の安全域まで待ちな」
三人の水路顧問が操作記録を囲んだ。マルタは清掃路の異音なし、イネスは退避経路の通行可、リュシーは水の戻った時刻を、それぞれ自分の名で記す。
その下へ、エリナとミレーユの停止条件と実際の開度が並ぶ。書記は二枚の赤い札を、それぞれの署名欄の横へ留めた。
「次の安全域で全開を試します」
エリナは地表水位と下流の受容量を見比べた。
「城下、下流村、避難所の井戸を別々に確認してください。先に満ちた場所があれば、その時点で止めます」
「追跡は?」
カイルが観測盤の細い針を見ていた。
戻った水に合わせ、古水門の流量計が一定の間隔で脈打っている。同じ間隔が、盤の第三冠座線にも現れていた。
水圧が天冠管を逆にたどり、移動冠の位置を返している。
「第三冠座です」
針は固定座の印を外れ、山の方角へゆっくりずれていた。
全開門の準備を止めることはできない。けれど、ヴェルクが待ってくれる理由もない。
「本門班は次の安全域まで保持。追跡班は山道の地図と退避地点を準備してください」
ミレーユが観測盤の縁へ指を置いた。
「この脈、さっきより速いわ」
返事を待つ間にも、第三冠座線はもう一段、山上へ移った。




