第78話 晴れの聖女を降りる
一刻後には返す名を、ミレーユは笑って呼ばれていた。
午前の光が、侯爵領の公開広場に並ぶ黄色い幟を透かしている。壇上にはミレーユ、その一段下にエリナとサーラ、作業卓の前には技師と三人の水路顧問。石段の外まで、避難中の住民が立っていた。
昨日、元使用人たちの記憶から古水門が見つかった。鍵穴は晴れの祝福にだけ光を返した。今日ここで力の使い方を決められなければ、旧河道を戻す試験は始められない。全力で乾かせば、濡れた刻印ごと古い石が割れる。地下河を失えば、高道にいる人々は家へ帰れなくなる。
「聖女様なら開けられる!」
前列から声が上がった。
「晴れの聖女様!」
続いた声はすぐに重なり、広場の端まで波のように広がる。ミレーユは誰が最初に笑ったかまで見つけられた。赤い頭巾の女。肩車された子ども。父ローランは壇上の脇で、ようやく領民に安心が戻ったという顔をしている。
頬が勝手に持ち上がった。
拍手を受ける時は、少し顎を引く。光は掌の上で、花びらほどに広げる。もっと見たいと言われたら、もう一度だけ明るくする。
何年も、それで皆が笑った。
作業卓の上には、過去の使用記録が積まれている。祝祭の日に四度晴らしたあと、風下の井戸は下がった。押し出された雲は下流の倉庫を濡らし、続けて使った夜には、熱が三日引かなかったと診療票に残る。
どれも、拍手のあとに残った紙だった。
ミレーユは両手を下ろしたまま、声が静まるのを待った。
「私の祝福は、雨を作れません。雲を散らして、別の場所へ押しやります」
まだ笑っていた男が、隣の者と顔を見合わせる。
「古水門は、濡れた刻印を一層ずつ乾かす必要があります。全部乾かせば、石が割れるそうです」
「だが、少しずつなら使えるのだろう」
父の声だった。責めてはいない。困った人々へ、今すぐ明るい答えを渡そうとする声だ。
「領民は不安なのだ。称号まで退ける必要はない」
以前なら、ここでうなずいた。父が望む笑顔も、広場が待つ光も、同じものに見えていたから。
書記へ合図して掲げてもらった被害地図には、晴らした場所から押し出された雲が、細い青線で下流へ続いていた。
「晴れにした日、その水がどこへ行ったかを、私は見ませんでした」
自分の声が広場へ落ちた。
「止められても、皆が喜ぶならもう一度使いました。知らなかっただけではありません。知ろうとしなかったのです」
拍手が止まると、幟の布が風に鳴る音まで聞こえた。
称賛が消えれば、何が残るのだろう。
問いは消えなかった。今も怖い。けれど、怖さを埋めるために光を足せば、また誰かの井戸から水が消える。
「『晴れの聖女』の称号を返します。公の記録から外してください」
父が何か言いかけた。
「許してほしいから申し上げるのではありません。古水門の作業に参加するなら、使う量も、休む時も、止める時も、記録に残る一人の術者として参加します」
書記のペン先が紙に触れた。
晴れの聖女。
その文字へ一本の線が引かれる音は、拍手よりずっと小さかった。
◇
広場の端へ移した作業卓には、五つの欄があった。
祝福使用記録票。使った場所、時間、出力、交代する者、誰が停止を決めたかを一枚に残し、祝福者本人にも中止する権利があると示す作業票だ。
ミレーユは最後の欄を何度も見た。
「読むだけで日が暮れるよ、お嬢ちゃん」
サーラが木炭筆で卓を叩く。
「第一層だけを乾かす。光が第二層へ移る前に停止。そこまでは?」
「できます」
「湿りが途中で戻ったら?」
「出力を上げて――」
答えが口から出かかった。
サーラは急かさず、水路顧問のマルタは石へ触れた時の布を畳み、イネスは小さな字を目から遠ざけ、エリナも助け舟を出さない。
分からないことを見られるたび、喉の奥に、昔から嫌いな空白ができた。そこへ「できます」を置けば、皆は安心する。ミレーユも、少しの間だけ安心できる。
「……分かりません。戻る湿りを見たことがありません」
「なら、戻った時点で止める。測ってから次を決める」
サーラはそれだけ言って、停止条件へ書き足した。
叱られなかったことより、空白を空白のまま残せたことが落ち着かなかった。変な気分だ。拍手の代わりになる音は、どこからも聞こえない。
「交代する者、は誰を書くのですか」
リュシーが訊いた。
「祝福を代わる者はいません。私が一層使ったら、技師班が温度と割れを測る間、私は手を離します。次の開始は、その記録を読んでから決めます」
「では、交代欄には測定班ですな」
マルタが言い、書記が欄の横へ小さく「測定班」と添えた。
ミレーユは一つずつ読み上げた。第一層まで。再開は測定後。本人が停止と言えば、理由を聞く前に全員が手を離す。
署名欄には、称号を書く場所がなかった。
ミレーユ・ヴァルクール。
職務名の欄へ技術班員と書き、停止判断者の空欄には自分の名を重ねて入れた。
同じ名なのに、二つ目の方が重く見えた。
◇
午後の古水門は、広場よりひんやりしていた。
予備鍵盤は本門の脇に置かれた試験用の石板で、日輪に似た刻印が薄い層を重ねている。足元の板道には技師班、退避線の外には水路顧問。エリナは本門の水位輪の前で、地下から返る三つの水音を聞いていた。
ミレーユは祝福使用記録票を石台へ留めた。紙の端が地下の風に持ち上がる。
「開始します。第一層まで」
掌に灯した光を、爪の先ほどまで細くする。
昔なら、遠くから見えて誰もが声を上げるよう、光は大きいほどよかった。今は濡れた線の内側へ収まらなければならない。
金色が刻印の縁をゆっくり進むにつれ、石の艶が指一本分ずつ消え、湿った灰色へ白い輪が浮かんだ。
まだ動かない。
「もう少し出せるでしょう」
退避線の外で、父が言った。
掌を開きたくなる。
その時、鍵盤の奥で、小さく歯が鳴った。
歓声が上がった。
光の先が、次の層へ細くにじむ。第一層の端は乾いている。決めたところまで来た。
「停止します」
「あと一息です」
若い技師が身を乗り出す。
「停止」
ミレーユは掌を閉じた。
金色が消え、地下の冷気が指の間へ戻る。サーラが技師の肩をつかんで退避線の外へ戻した。書記は理由を尋ねるより先に、停止時刻を記す。
誰も再開を命じなかった。
予備鍵盤の最初の歯だけが半寸動き、刻印には割れがなく、第二層には湿りが残っていた。
エリナが本門の水位輪へ指を置いた。
「予備鍵盤の歯は動いたわ。でも、本門の輪はまだ噛み合っていない」
「失敗ですか」
聞いてから、また姉の顔に答えを探した自分に気づく。
「地下水位が安全域へ入る間だけ、こちらの輪が上がる。その時に同じ一層を動かす必要があるの。私が水位を読み、あなたが乾かす。片方を急がせれば水門が壊れるわ」
褒められたかったのかもしれない。
許されたかったのかもしれない。
どちらも、いま聞けば明日の手順を曇らせる。
ミレーユは記録票へ、自分で停止と書いた。過去の被害を並べた紙の下に、自分の手で光を消した時刻が残った。
「明日は、私が停止と言ったら止めてください」
「止めるわ」
「お姉様の水位が外れた時も?」
「その時は、私が止める。あなたも光を消して」
「はい」
姉妹は別々の欄を持ち、翌日の手順を最初から読み上げた。




