第77話 名前のない番人
同じ地下道を、三人は違う名で呼んだ。
侯爵邸の旧使用人食堂には、朝の光が細長く差していた。窓際にエリナと書記、向かいに元使用人の老女が三人。その間の卓へ、灰色の布片と三本の麻紐が置かれている。昨日の坑道の冷えが、まだ袖口に残っていた。
サーラが古水門の石栓から見つけた布には、侯爵邸の備品に使う輪縫いがあった。だから清掃当番を遡り、三人へ来てもらったのだ。旧河道を戻せなければ、高道へ避難した下流三地区の住民は家へ帰れない。
急ぐ必要はある。けれど、道を知る人へ「昔のことを少し」と頼めば、父がエリナへしたことを、今度は自分が繰り返す。
「白い段を下りた先です。石灰がいつも靴につきましたから」
元洗濯係のマルタが、赤い麻紐を右へ曲げた。
「鼠の穴なら、物置の北ですよ。階段なんてございません」
元台所雑役のイネスは、青い紐を反対へ引く。
「私らは午後の風と呼んでいました。昼食の片づけが済む頃だけ、壁から冷たい息が出たので」
寝具係だったリュシーの黄色い紐は、どちらとも交わらなかった。
若い技師が椅子の背で身を乗り出した。
「名前は後で合わせられます。まず、どなたか一人に案内を――」
「その前に、こちらを読んでください」
エリナは契約書を彼女たちへ向けて裏返した。
水路顧問契約。証言と案内を専門の仕事として扱い、賃金、休息、途中で断る権利、記録へ氏名を残すことを保証する書面だ。
老女たちは、紙より先にエリナを見た。
「そんな。掃除をしただけです」
マルタの手は、茶器を包むように膝で重なっている。
「石段を数え、詰まりの音を聞き、水が変わった時に知らせたのですね」
「知らせても、旦那様方は水門番を呼びましたよ」
「その水門番が来る前に、どこを見るか決めたのは?」
マルタは答えず、薄い薬草茶を一口飲んだ。苦かったらしい。眉間の皺が深くなる。
「まず条件を決めてください。話さないと決めても、今日の拘束分は支払います」
イネスが書面を指で押さえた。
「地下へは行きませんよ。膝が、もう階段を嫌ってます」
「承知しました。案内を断る欄へ、そのまま記録します」
「断っても、知っていることは使うんですか」
「使う範囲も、今ここで選んでください」
書記が別紙を寄せる。イネスは唇をすぼめ、やがて自分の名を一文字ずつ書いた。
その横で、リュシーが黄色い紐をほどいた。
「一緒に話すと、私、マルタの言い方へ引っ張られます。先に別々に聞いてくださいな」
その一言で、三本の紐を無理に交わらせる必要がなくなった。
書記が隣の小部屋へ移り、エリナは一人ずつ話を聞いた。マルタは石段を数える時、濡れた洗濯籠を右腰へ当てていた。イネスは鼠を避けるため、壁の傷より床の穴を覚えた。リュシーは数を忘れたが、地下から戻ると左の頬だけ冷たかったという。
「違っていたら、賃金を返すんですか」
リュシーが訊いた。
「返しません。違いも必要な記録です」
「では、十三段と十四段、両方書いてください。喧嘩になったら、休憩にします」
昼前、老女たちはまた同じ卓へ戻った。話の中身は見せ合わず、契約書の休息欄だけを並べる。マルタは一刻ごとの休憩、イネスは階段を下りない、リュシーは息苦しくなった時点で終了。薬草茶へ蜂蜜を足す回数まで、それぞれ違った。
◇
午後、旧物置の北壁には三枚の図が並んだ。
水路記憶図。道順、音、冷気、手触りを一人ずつ聞き、互いの答えを写させず重ねた地下図である。マルタは白い石段を十四、イネスは鼠の穴まで十三。リュシーは数を覚えていない代わりに、「左の頬だけ冷える場所」と印を付けていた。
「十三段です」
先へ下りた技師が灯りを上げる。
食堂に残ったイネスの証言札を見て、別の技師が肩をすくめた。
「やはり、古い記憶です。十四段目は――」
「あったよ。あんたの足の下に」
マルタが杖で床を突いた。
土間に見えた場所の端だけ、白い石が半寸のぞいている。サーラが泥を削ると、塗り込められた段の角が現れた。
「階段をなくしたんじゃない。上から埋めて、十三段にしたのさ」
若い技師は言い返さず、十四段目へ炭で印を付けた。
リュシーは、その先へ下りなかった。半段を見ただけで呼吸が浅くなり、自分から黄色い証言札をエリナへ渡す。
「契約に、途中で断れるとありましたね」
「はい。ここからは私たちが照合します」
技師が背負おうとしたが、リュシーは首を振った。運ばれて案内することも断る。黄色い札だけが一行と地下へ下りた。
そこから先は、リュシーの言ったとおりだった。行き止まりの壁で、左側の蜘蛛の糸だけが揺れている。頬を寄せると、土の隙間から冷気が細く漏れた。
耳を澄ます。
太い流れが遠くで唸り、その下を細い水が石に擦れている。少し遅れて、雫が一つ。
「三つの水音」
マルタが囁いた。
壁を広く崩す案はサーラが退けた。三枚の図で冷気と音が重なる箇所だけ、石を一つずつ外す。
土の匂いに、古い石鹸油の匂いが混じった。
奥から、柄の短い清掃具が出た。先端の鉄は丸く減り、持ち手には爪で付けたらしい線が何本も重なっている。
「ああ、それ。長い柄だと奥の留め具へ当たるから、切ったんです」
イネスの証言札を、書記が読み上げた。
さらに土砂を手渡しで除くと、弧を描く石扉が現れた。中央には錆びた鍵盤。下端の溝は、何度も泥を掻き出された形で浅く光っている。
「水門です」
マルタが短い柄の持ち方を示した。押すのではなく、溝の泥を手前へ三度掻く。技師がそのとおりにすると、細い擦れ音が少し高くなる。扉は開かなかったが、扉の向こうで水がまだ動いていることだけは分かった。
若い技師の声が、さっきより小さかった。
「水路顧問の方々が、位置を当てました」
書記はそう読み上げ、発見記録の証言者欄へ三つの名を書いた。
◇
夕刻までに、古水門前の床には板が渡され、顧問たちも安全な場所から石扉を見られるようになった。
真鍮の管理札は、まだ壁へ打ち付けていない。マルタ、イネス、リュシー。氏名の下には、賃金、交代、休息、拒否権。職名の欄には、水路顧問と刻まれていた。
「字が大きすぎませんか」
リュシーが困ったように笑う。
「泥が付いても読める大きさです」
エリナが答えると、サーラは鼻を鳴らした。
「小さくしたら、また誰かが見えなかったことにするよ」
マルタは管理札の自分の名を親指でなぞり、何も言わなかった。
「夜は来ません。二人ずつ。変な音がしたら、こちらが止めます」
イネスが条件を読み上げる。若い技師は管理帳へそのまま書き、停止時の連絡先を顧問たちへ聞いた。さきほどまで「案内だけ」と言っていた声が、今は一つずつ確認を取っている。
食堂から運ばれた籠には、蜂蜜を塗った黒パンが入っていた。リュシーは自分の分を半分に割り、まだ泥まみれの技師へ渡す。
「字を小さくしないなら、食べる時間も削らないでくださいな」
「承知しました、水路顧問」
今度は、呼び直す声を誰も笑わなかった。
技師が鉄鍵を鍵盤へ差し込む。一度、二度。錆が粉になっただけで、歯は動かない。てこを足そうとした手をサーラが払った。
「壊して開くなら、埋めてた連中と変わらない。手順を聞きな」
「鍵は、こんな形ではありませんでした」
イネスが椅子から言う。
「晴れの日に触るな、と教わりました。石が割れるから」
不思議な言い方だった。
エリナは鍵穴の周囲へ灯りを寄せた。泥の下に、細い刻印がある。雨読みの水位輪とは違う。日輪に似た線が、濡れた石の層を一枚ずつ囲んでいた。
後ろで、ミレーユが息を止めた。
「お姉様。これ、儀式印と似ています」
確かめようと伸ばした掌に、ごく小さな晴れの祝福が灯る。
「待って」
エリナが止めた時には、金色の光が石へ届いていた。
鉄鍵には何も起きない。
ただ、日輪に似た鍵穴の紋だけが、ミレーユの掌と同じ淡い金色を返した。




