第76話 乾いた地下河
乾いていた。
翌朝、上流堤防の封鎖坑道へ下りたサーラは、濡れた天井より先に足元を見た。灯りの煤で黒ずんだ上壁からは、雫が肩へ落ちてくる。ところが長靴の下の河床は白く粉を吹き、踏むたび、雨のない倉庫みたいな音を立てた。
昨夜、下流三地区の避難は終わった。亀裂の奥で見つけた新しい工具痕を追い、次の雨までに堤防をどう直すか決める。そのためにエリナと技師六人、会計技師まで連れて入った。
読み違えて空洞へ石を積めば、次に崩れるのは土だけで済まず、高道へ逃げた住民の家と帰り道まで内側からまとめて落ちる。
「腰縄、見せな」
サーラが言うと、先頭の若い技師は露骨に嫌な顔をした。それでも結び目を引き、後ろへ見せる。
「地上見張りは、水位上昇で二打。退路に変化があれば三打。聞こえなくなったら、調査の途中でも戻る」
「昨夜も聞きました」
「坑道は書類を読まない。あんたの返事も覚えちゃくれないよ」
六つの結び目が締まったのを見てから、封鎖縄を越えた。
入口の外には、補強石の荷車が四台待っている。御者たちは冷えた豆粥を椀のまますすり、いつ呼ばれるかと坑口を見ていた。昨日から働き詰めなのだろう。石を戻せば、その手間も賃金も余計にかかるが、使うために危ない石を積めば、今度は荷車ごと人を埋める。会計技師はそれを振り返った。
「昼までに工法を決めないと、運搬費がもう一日分かかります。表の亀裂だけでも固めるべきでは」
「固めていい地面か、これから見る」
返事を切り、しゃがみ込む。
工具痕は腰の高さから奥へ続いていた。新しい刃傷の下に、爪ほどの赤い石粉が挟まっている。ヴェルクが使った天冠管の外殻と同じ色だと、エリナが灯りを寄せた。
「この上は、地表の亀裂と重なります」
「下は?」
「記録上は地下河です。ですが、水音がありません」
記録上。
丁寧な言い方ほど、泥の前では頼りない。
サーラは手袋を外し、床の粉を指の腹で押した。冷たくない。湿りもない。昨日から川が増えているのに、地下河の底だけが乾くなど、まともな漏れ方ではなかった。
道具袋から、黄色、赤、青の粘土を丸めた逆流染め土を出す。流れへ少しずつ溶かし、どちらへ運ばれるか見るための現場道具だ。
「石を運ぶ前に、水の逃げ先を捕まえる」
◇
分岐坑には、細い水筋が一本だけ残っていた。
上壁を伝った雫が溝へ集まり、指二本ほどの幅で河床を走る。サーラは入口側、分岐の中央、天冠管に近い壁際へ水位杭を打たせた。濡れた高さに炭で線を引く。
「地上、現在水位」
伝声管へ呼ぶと、一打。変化なしの返事が落ちてきた。
黄色の染め土を、川側へ向いた溝へ落とす。
粘土はふっとふくらみ、流れへ薄くほどけた。左へ行くはずだった色が、その場で消える。
「沈んだだけでしょう」
会計技師が膝をついた。
「なら、底に残る」
匙でさらっても、黄色はなかった。石の継ぎ目だけが、舌で舐めたように細く濡れている。
若い技師が天冠管側へ灯りを差し込んだ。
「こちらには流路がありません。図面では壁です」
「図面を水に読ませてみな」
今度は赤を落とす。サーラは膝を濡らし、色がほどけるより低い位置へ顔を寄せた。
赤い筋は川へ下らず、石の隙間を横へ走って天冠管の継ぎ目へ吸われ、糸より細い跡だけを残して見えなくなった。
頭上から、二打。
地表の水位が上がった。
「杭!」
エリナが中央の杭へ定規を当てた。
「先ほどの線から、半目盛り下がっています」
雨で堤防の外は増水している。地下では、水が減っている。
会計技師が眉を寄せた。
「測り方が違うのでは。地上と地下を同じ時刻で――」
「同じだから困ってるんだよ」
三本目の青を入口側へ落とす。青は短く川側へ流れたが、分岐へ届くと折れ、赤と同じ継ぎ目へ消えた。
エリナは地上の時刻札と三本の杭を順に見た。雨帳の角へ指を置き、固い声になる。
「地表が半目盛り上がる間に、中央と壁際は下がりました。天冠管が地下水圧を横へ引いています」
「下の水が抜けりゃ、土が水を受ける場所も空くんじゃないのか」
若い技師が訊いた。
サーラは杭の根元を小槌で叩いた。乾いた粉が、穴の中へさらさら落ちる。
「水を受けるはずの土が、下から削られて薄皮になってる。上から来た水は、もう堤の中へ染み込めない。行き場をなくして、表を走る」
兆しは三つで足りた。下がる杭。横へ消える色。地上からの二打。
会計技師はなおも入口を見た。
「ですが、補強石は発注済みです。何も入れずに決壊したら、止めた側の責任になります」
「入れて崩しても、石の責任にはできない」
サーラは搬入用に置かれていた見本石を一つ持ち上げた。腰へずしりと来る。空洞音の強い場所まで運び、若い技師へ下がるよう手を振った。
落とす。
鈍い音が落ちた。
皆が顔を上げたあと、ずっと下で、遅れて二つ目が鳴った。
床の粉に細い割れ目が走る。伝声管の向こうでは、荷車の馬が鼻を鳴らした。高道で朝を迎えた住民たちは、今も毛布の数と飲み水を分けて待っている。急いだという言い訳を持ち帰っても、寝床は一つも戻らない。
「この上へ四台分、積みたい奴はいるか」
返事はなかった。
地上へ向け、伝声管を取る。
「補強石は止める。荷車を丘の外へ戻せ。帳面には、あたしの名で中止と書きな」
会計技師は苦い顔のまま筆記板を開いた。
「代案は」
「昔の川を戻す」
現行図の端に、途中で途切れた分岐溝がある。天冠管が敷かれる前、地下河を地表側へ逃がした跡だ。
エリナが図面を折り直し、消えた線を灯りへ透かした。
「旧河道切替水門。古い地下河を地表河道へ戻す分岐門です。位置も管理者も、現行図から落ちています」
「なら、落ちた場所を泥に聞くよ」
河床に残った赤い筋は、天冠管へ吸われきらず、反対側の石壁にも爪ほど付いていた。
細い戻り道が、まだ残っている。
◇
午後には、腹ばいでしか通れない横穴の先へ出た。
サーラの肘は泥だらけで、朝から文句を言っていた若い技師は、もう服を気にしなくなっている。休憩に配られた固焼きパンは湿気を吸い、噛むたび歯へ意地悪をした。
「公爵領の坑道飯の方が、まだ親切だね」
「戻ったら厨房へ正式に抗議しますか」
後ろからエリナが訊く。
「水務監の公文書をそんなことに使うんじゃないよ。口で言えば足りる」
話しながら、壁を小槌でなぞった。
現行図では、ここは厚い岩盤になっている。だが図面の墨だけが不自然に濃く、元の線を塗り潰していた。実物の壁には、土砂で埋まった浅い弧がある。
赤い染め土が、その弧の下で止まっていた。
「掘る。上半分だけ。荷重を抜くな」
土を手で渡し、石の輪郭を少しずつ出す。丸い石栓の縁には、刃物の傷とは違う、幅のそろった擦り跡が重なっていた。
会計技師が泥を拭う。
「閉鎖時の工事痕でしょう」
「工事の傷なら一回きりだ。掃除は何度もやる」
古い傷の上には色の浅い傷が重なり、溝に固まった泥も縁だけ薄い。誰かが細い道具を差し込み、詰まりを掻き出していた。
石栓の継ぎ目から、灰色の布片がのぞいている。周囲の泥には、古い石鹸に似た油の匂いがわずかに残っていた。水路油ならもっと鉄臭い。サーラは鼻を寄せ、若い技師にも嗅がせた。答えを教えると、次も図面だけを見る。
引かずに、周囲の泥ごと木皿へ取らせた。布は指二本分。端に、侯爵邸の古い備品布へ付ける小さな輪縫いが残っていると、会計技師が言った。
「管理簿を」
エリナが現行図の裏を開く。
水門名の欄はある。点検日もある。管理者名だけが、最初から線を引く場所すら作られていなかった。
サーラは石栓へ耳を当てた。
遠くで水が擦れる。死んだ水門の音ではない。
「水門は死んでない。誰かが黙って世話してた」
「侯爵家の技師名簿を調べます」
「技師だけじゃ足りない。古い使用人名簿と清掃当番もだ。掃除の名でやらせた仕事は、工事の帳面にゃ残らない」
エリナは、空の管理者欄へ目を戻した。
「証言を求める前に、報酬と拒否権を用意します」
「そうしな」
石栓の下で、赤い土が細く揺れる。
道は見つかった。
その道を守ってきた人の名だけが、どこにもなかった。




