第75話 謝罪より先の堤防
拍手は、配分表の一行目より先に起きた。
朝鐘を二つ聞いたばかりの公開配分会議場で、ミレーユは壇の中央に立っていた。右手に父、左手にエリナ。向かいには城下と下流村の代表、その後ろには技師や水運びの者まで詰めかけている。晴天祭より地味な集まりのはずなのに、視線だけは祭壇へ上がった時と同じくらい明るかった。
昨日、父は過去の給金と被害補償へ署名した。残った再建費では、上流堤防の補強と下流配水の修理を一度に始められない。今日は危険の迫る方、代わりの利く方、待てない方を比べて決めるための会議だ。ここで気分のよい答えを先に選べば、川か井戸のどちらかが間に合わなくなる。
それでも、前列の婦人が立ち上がった。
「その前に、姉妹のお話を聞かせてくださいな。お二人が仲直りなされば、領地の者も安心できます」
「そうだ。まずは皆の前で」
拍手が重なる。ミレーユへ向けた音だった。
肩に入っていた力が、ふっと抜けかけた。何を言えば皆が笑うかは分かるし、お姉様を傷つけたことを認めて、これからは力を合わせます、と誓えばいい。きれいな言葉を選ぶのは、水量表を読むよりずっと得意だった。
エリナは配分表から顔を上げず、上流側の巡回欄のうち、昨日再点検へ回した夜明け前の空欄を見ている。
「和解の有無と、今日の配分は別です」
静かな声に、拍手が途切れた。
父が卓上で指を組む。
「民が姉妹の不和を案じている。協力できると示すことも、領地を落ち着かせる仕事だ」
仕事。お父様は、謝ることまで役目に数えるらしい。
けれど、待っている顔は本物だった。洪水の夜に姉を追い出した家の娘が二人並んでいる。次は見捨てられないと信じる印を、皆が欲しがるのも分かる。
ミレーユは息を整え、エリナの横顔へ向き直った。
「お姉様。私は――」
会議場の扉が壁へぶつかった。
泥まみれの巡回員が、片膝をつくより先に叫ぶ。
「上流堤防、東の腹に亀裂! 濁り水が内側から噴いています!」
誰かが椅子を倒し、さきほどまで自分を見ていた目が一斉に巡回員へ移った。
怖い。けれど、少しだけ助かったと思った自分が、もっと怖かった。
エリナはもう立っていた。
「亀裂の長さ。巡回した時刻。水は川側から入っていますか」
「腕二本ほど。夜明け前の欄は空白です。水は堤の内から外へ。打音の軽い場所が広がっています」
技師が上流の木札を引き寄せる。
「補強石を先に運べば――」
「近づける人数を確かめるまで、荷重を足さないでください」
エリナは下流図へ指を置いた。
「第一地区はすぐ高道へ。河岸市場は荷車を置いて徒歩。西の低地は次の水位報告まで準備待機。段階避難鐘を使います」
三種類の鳴らし方で危険の近い地区から順に人を上げる合図なら、鐘楼へ最も近いのは壇上にいる自分だった。
「私が鳴らします」
言ってから、順序を復唱した。第一地区、河岸市場、西低地。お姉様の言葉を飾らない。勝手に増やさない。
婦人が壇へ手を伸ばした。
「でも、せめて先ほどのお言葉を最後まで――」
ミレーユは謝罪のためにそろえていた両手をほどいた。
「今は私を見ないで。お姉様の合図と、鐘を聞いてください!」
◇
鐘楼の石段は、上から三段目だけ黒く濡れていた。
ミレーユは裾をつかみ、鐘守と避難伝令の先頭を走った。背後の会議場では、エリナが地区ごとの到着時間を読み上げている。外へ出た住民代表が、それを自分の区画へ叫び返した。
濡れた段へ靴を置いた瞬間、踵が滑る。
掌の奥に、晴れの祝福が灯った。階段全部を乾かすことはできる。鐘楼の屋根も、下の広場も、誰の裾も濡れないほど白く晴らせば、皆はまた安心して拍手するだろう。
手首の内側が、古い魔力熱を思い出すように熱くなった。
「必要なのは、どこまでです」
鐘守が息を切らしながら振り返る。
「この段と、上の踊り場だけです。ほかは滑りません」
「では、そこだけ」
薄い光を二度滑らせると、石の表面から水膜が消え、白い湯気が膝より低くほどけても、広場の水たまりはそのまま残った。
鐘楼の最上段には、太い綱が三本下がっていた。手前の綱に一つ、中央に二つ、奥に三つの結び目。指で数えれば、煙の中でも鳴らす順を間違えない。
最初の綱を引く。
低い鐘が一度、城下を押すと、広場のざわめきが割れ、第一地区の伝令が走り出した。続けて二本目を二度。河岸市場の荷車から人が降り始めても、三本目はまだ引かない。西低地は準備待機だ。早く鳴らせば、狭い高道へ三地区が重なる。
「全部鳴らした方が安心では?」
若い鐘守が訊いた。
「安心して詰まったら、逃げられないわ」
昔なら、皆が安心する方を選んだ。
綱の麻が掌へ食い込む。下の通りでは、パン屋が窯の火を落として隣の店主へ幼い子を渡し、山羊を置いていけないと怒鳴る男には河岸の荷運び人が縄を貸している。拍手よりずっと不揃いで、誰もミレーユだけを見てはいなかった。
それでよかった。
鐘楼の窓へ、エリナの合図旗が上がる。
三本目の綱を引いた。
◇
午後の下流街道には、濡れた藁と家畜の匂いがこもっていた。
高道の入口で、カイル公爵が地区札を受け取り、到着した列と残る家を数えている。サーラさんは上流の巡回員を連れ、堤防の内側へ回った。エリナは水位報告を受けるたび、地図上の退路を一本ずつ消していた。
ミレーユは最後の子ども列に付き、石段のぬかるみだけを薄く乾かした。頭上の雲には触れず、光を止めるたびに手首の熱が残力線の内側へ戻るのを待った。
「聖女様、川ごと晴らしてくれ!」
荷車を押す男が叫んだ。
「川は晴らせません。右の高道へ進んで!」
「前は奇跡を見せたじゃないか!」
男は納得しなかった。それでも隣の女に腕を引かれ、悪態をつきながら坂を上がった。説明すれば皆が笑ってくれる。その古い期待を、追いかけない。
最後尾の老婆が、家の方を何度も振り返った。
「薬箱を置いてきたよ。青い蓋の」
戻ります、と口にしかけたが、今の自分は避難列の最後を高道へ渡す役だ。
「場所を教えて。取りに行く人を、カイル公爵が決めます」
公爵はすぐ護衛を一人選び、戻る時刻と撤退の鐘を老婆にも聞こえる声で確かめた。任せた相手が見えなくなるまで見送りたくなったが、前の子が靴を脱いで泣いている。
「泥が入ったのね。高道まで、あと角を一つよ」
手を差し出すと、子どもはミレーユの指より、鐘綱で赤くなった掌を見た。
「痛い?」
「少し。でも鐘は、ちゃんと鳴ったわ」
子どもは自分の袖で掌を一度こすり、先へ走った。
日が傾く前に、第一地区と河岸市場、西低地の札がすべて裏返り、避難済みの青い面が三つ並んだ。
「全員確認。戻っていない護衛も、薬箱と一緒に高道へ入った」
カイル公爵の声を聞いて、ミレーユは祝福を完全に消した。
誰かが安堵の拍手を始めかけたが、続く音はなく、皆は家族の名を呼びながら毛布と水を分ける方へ動いていた。
「上流へ行きます」
エリナに告げると、姉は赦しの言葉も褒め言葉も返さなかった。
「足元に気をつけて。現場ではサーラさんの指示を優先します」
「はい、お姉様」
それだけで二人は堤防へ向かった。
堤防へ着くと、亀裂の周囲は封鎖され、補強石も手前で止められていた。
サーラさんが堤の内腹へ耳を当てている。表の土は濁り水で柔らかいのに、割れ目の奥だけ妙に乾き、削られた石粉が細く残っていた。
「自然に割れたなら、傷は水の押す方へ開く」
袖をまくった指が、亀裂の内側をなぞる。
「これは逆だ。内から掘ってる」
技師が灯りを寄せた。新しい工具痕が、等しい間隔で暗がりへ続いている。
ミレーユは掌をかざしかけ、止めた。光を足さなくても、サーラさんの小槌が石へ触れた音で分かった。
乾いた空洞音が返ってくる。
もう一度。今度は、その下から水音がした。
川側ではない。ずっと深い、侯爵邸のある丘の下へ遠ざかっていく音だった。
「坑道口を塞ぐ。入るのは退路を決めてからだ」
サーラさんが立ち上がる。
「水が、下へ盗まれてる」
亀裂の奥で、見えない流れがもう一段低くなった。




