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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
誰の空でもある雨

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第74話 父の署名

 父の名を書く欄は、二枚とも空いていた。


 午前鐘を聞いたばかりの公開評議場は、左右の鎧戸が開け放たれていた。中央の長卓に父ローラン、向かいにエリナ。右手には監察書記と会計官、左手には城下と下流村の住民代表が座っている。カイルは口を挟まない立会人として、住民席の端に椅子を置いていた。


 卓上には、封印済みの幼少観測札、治水功績申請簿、会計原簿。そして過去の給金と被害を扱う返還・補償合意書と、これからの再建調査を扱う契約書が別々に並んでいる。


 昨日、父からの無番号の依頼を断り、受けたのは今日の公開交渉だけだ。ここで謝罪の言葉だけを受け取れば、幼い頃からの仕事はまた家族の好意へ戻され、次の調査も「娘なら当然」の一言で始まってしまう。


 昨日は休んだ。指先は冷えていない。


「交渉の目的を読み上げます」


 監察書記が立ち、二通の文書を示した。


「一、過去の観測利用と受益の確認。二、不払い給金の返還と被災者補償。三、再建調査の権限、対価、責任、休息の契約化。発言は逐語で残し、原本は立会人の前で照合します」


 父は書記の言葉が終わるのを待ってから、封印箱を見ずに言った。


「その木札を見たことはない。雨帳も、侯爵家の治水実績へ使った事実はない」


 住民席から、低いざわめきが起きた。


「子どもが庭で天気を書き留めることまで、仕事と呼ぶのか。家の者が家のために気づいたことを伝える。それはどこにでもある話だ」


 昨日と同じ論理だった。雨帳も木札も、父にとっては食卓の皿と変わらない。家の中にあれば、当主が使ってよい。


 下流村の代表が膝の帽子を握り直した。


「旦那様が謝るというなら、もうよいのでは。川も井戸も待ってはくれません」


「川と井戸を待たせないために、今日の手順があります」


 声を張る必要はなかった。開いた鎧戸から入る風が、机の紙を一枚だけ鳴らした。


「同じ働き方を再開しないと決めなければ、次の調査も途中で誰の命令か分からなくなります。まず、過去を確かめます」


 カイルへ視線を向ける者がいた。隣国の公爵なら侯爵を説得できると思ったのだろう。


 けれどカイルは、エリナへ小さくうなずいただけだった。手袋も外さない。立会人の席から動かなかった。


「封印番号を」


 監察書記が幼少観測札の箱を開いた。


 古い木の匂いが、広い評議場ではひどく薄い。書記は札に触れる前に発見位置、枚数、立会人を読み上げ、端に押された四角い整理印を拡大写しで住民席へ回した。


「雨期第十二日。北井戸、泡二つ。川の目盛り、平常より二段上」


 幼い字が、公の場で一つずつ読まれていく。


 父は口元を硬くした。


「だから何だという。その程度の値なら、領内の誰でも見られる」


「次に、同じ整理印の治水功績申請をお願いします」


 会計官が申請簿を開いた。厚い紙の端は黄ばんでいる。整理印の番号、申請日、対象の井戸と川が札と一致した。


 申請書には、当主監督下の継続観測により増水を早期に把握し、北井戸の使用を止めた、とある。


 会計官は二つの数値へ細い定規を当てた。


「北井戸、泡二つ。川の目盛り、平常より二段上。札と同じです」


「偶然だ」


 父の返答は早かった。


「報告をまとめた者が、あとから帳尻を合わせたのだろう。私は細かな記録までは見ていない」


「では、会計原簿を」


 頁を送る乾いた音が、さきほどより近く聞こえた。


 申請の翌月、侯爵家には水害軽減の補助金が入っている。受取項目は当主監督費。隣の頁には、その実績を根拠にした水利負担の減免も記されていた。


「入金の承認者は」


 書記の問いに、会計官が帳面を住民席へ向けた。


「ローラン・ヴァルクール侯爵。本人署名です」


 父の古い署名は、勢いよく右上がりに伸びていた。昨日届いた利用否定文書の署名と、同じ筆の払い方だった。


 評議場が静まる。


「申請の責任は、金を受け取る当主として負った。観測した娘は、侯爵家の保護と教育を受けて育った。家へ返した働きまで、不払いと言われては――」


「私が育った事実は消しません」


 言葉を一度置き、二通の文書を父の前へ滑らせた。


「謝罪の言葉ではなく、この数字を返してください」


 返還・補償合意書の上段には、確認済みの期間を雨読みの基準給金で割り出した暫定返還額がある。残る札と雨帳の監査期限、国境村まで含めた被災者補償の別勘定、最初の支払期限も、空欄にはしなかった。


 監査は侯爵家の中だけで閉じない。監察書記と住民席が立ち会う。


 もう一通は、これからの調査契約だ。調査する範囲と、どの資料まで見られるか。現場を止められるのは、どんな時か。


 給金、勤務上限、代行順位、連続休息。父が昔のまま口を挟める空欄を、一つずつ塞いである。


 過去の返還を受ける代わりに働く、という条件はどこにもない。


「過去の債務と、今後の依頼は別です。どちらか一方への署名で、もう一方を免じることはありません」


 父は二枚を見比べた。


「これを全て払えば、今月の再建費が足りなくなる」


「足りないことも公開します。補償を消した数字で再建を始めません」


「領民の前で、家を潰すつもりか」


「家の都合で、被害を受けた人の名を消さないでください」


 反対側で椅子が鳴った。城下の代表が立ち上がりかけ、また腰を下ろす。誰も父へ謝れとは言わなかった。


 父は古い申請書へ目を落とした。そこにある自分の名は、もう見ていないとは言えない。


「当主として、領地を守るためにした」


「そのご意見も記録します」


「おまえは、私を許さないのだな」


 ペン立ての横に、予備のペンが三本あった。エリナはどれも取らなかった。


「今日は許しを決める場ではありません。支払うものと、これから頼む仕事の条件を決める場です」


 父の指が、返還・補償合意書の端を押さえた。


 ペン先が紙を擦る。


 一枚目に、古い申請書と同じ右上がりの名が残った。


 監察書記が署名時刻を読み上げる。会計官と住民代表が立会欄へ続いた。


 父は二枚目を引き寄せた。


「調査中、おまえが休んでいる時に川が変わったらどうする」


「代行者が判断します。緊急連絡の条件も書いてあります」


「おまえでなければ読めない時は」


「その状態を作らないための契約です」


 父は納得した顔をしなかった。それでも、今後の調査契約にも署名した。


 二度目のペンの音は短い。


 合意書の控えが、下流村、城下、監察局の順に渡される。幼少観測札は封印箱へ戻り、父の署名がある申請書と同じ証拠番号を与えられた。


 小さな木札には、給金と補償へつながる証拠番号がある。


◇


 午後、長卓は配分卓へ変わった。


 会計官が硬貨を重ねるたび、上流堤防の応急工事と下流村の配水路修理を示す薄い山が二つできた。返還金と被災者補償を別勘定へ移すと、当月に動かせる額では片方しか始められない。


「返還の初回分を、ひと月遅らせればよい」


 父が言った。


「署名した期限は変えません」


 下流村の代表は配水路の木札を自分の方へ寄せ、城下の技師は堤防の札へ指を置いた。


「堤防が崩れれば、下流もありません」


「配水が止まれば、崩れる前に畑と井戸が死ぬ」


 どちらも間違っていない。机の上の硬貨だけが、両方に足りなかった。


 ミレーユが会計室から追加の帳面を抱えて入ってきた。明るい色の上着は脱ぎ、袖口を紐で留めた作業服に替えている。


「晴天祭と歓迎宴の予算は、こちらへ移せます。私の衣装費も」


「それでも不足します」


 会計官の返答に、ミレーユは唇を結び、すぐに謝罪の言葉を探さず帳面を配分卓へ置いた。


「では、ほかに削れるものを読みます。私にも分かるように、順に教えてください」


 エリナは上流と下流の見積もりを一枚に重ねなかった。二列のまま、住民席へ向ける。


「明朝、公開配分会議を開きます。上流堤防と下流配水、それぞれの危険時刻、代替手段、必要人数を今夜までに記入してください。補償の支払いは、削減案に含めません」


 技師が上流堤防の巡回報告を開いた。


 三回の巡回欄のうち、夜明け前だけ時刻も署名もなく、新しい折り目には濁った水の跡が残っていた。


「この回の担当者を確かめてください。日暮れ前に再点検を。結果は明日の会議まで待たず、危険なら直接、避難鐘の担当へ」


 ミレーユが報告の写しを受け取った。


「私が鐘楼の当番にも届けます」


 父は何か言いかけ、署名した合意書の控えへ目を移した。命令は出なかった。


 会計官が明日の議題札を作り、住民代表が自分の地区の立会人を書き込んでいく。


 配分卓には二列の木札が残った。上流堤防と下流配水。硬貨は、まだどちらにも置かれていなかった。

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