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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
誰の空でもある雨

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第73話 役に立たない娘

 父ローランは、封印番号のついた幼少観測札へ目を向けないまま、領地再建の依頼書を机の中央へ押し出した。


 朝の斜光が、侯爵邸の応接室を細長く横切っている。正面に父、右手に監察書記。エリナは外套を脱がず、昨日、旧自室の壁裏から見つけた札の発見記録と、開示を求める会計資料の一覧を膝に置いていた。


 国境村では、乾いた井戸と雨のない増水を測量班が追っている。今朝の定時報告が欠ければ高道への避難を早める手はずだ。そこへ自分が新しい命令を重ねれば、判断した者の名がまた消える。


 まして番号のない依頼を受ければ、公務は「娘の務め」に戻され、幼い札が家の功績になった時と同じ筋道をたどる。


「北の井戸が三つ、底を見せた。上流の川は増えている。おまえなら原因を読めるだろう」


 父の指が、地図に描かれた城下の水路をなぞる。


「まず、幼少観測札に押された整理印についてご説明ください。治水申請簿と会計原簿、補助金入金簿の開示も求めます」


「記録の話は後でよい。領地が落ち着けば、いくらでも見せよう」


「昨日も、同じ順序でした」


「今は領民が困っている。家族の間で帳面をどう使ったかなど、井戸が戻ってから話せば済む」


 家族の間。


 父にとって、雨帳も札も食卓の皿と同じなのだろう。家にある物を、家のために使った。それだけの話なのだ。


「再建の調査には契約が必要です。目的と権限、対価、責任、休息を明記してください。住民の前で条件と記録を確かめる公開契約交渉を求めます」


「父親が娘へ、故郷を救ってくれと頼むのに契約が要るのか」


「要ります」


 短く答えると、父の口元が固くなった。


「助けられるのに、書類がないから見捨てると?」


 膝の上の紙を一枚めくる。休息日委任票には、担当者が休む間の観測者、緊急連絡先、判断を引き継ぐ順番が記されている。国境測量班の朝一番の印は、定刻どおり三つ並んでいた。


「現地の観測と避難判断は続いています。私が席を立っても止まりません」


「では、手が空いているではないか」


 昔なら、その一言で鞄を開いていた。


 エリナは委任票を監察書記へ返し、父の依頼書の隣へ公開交渉の条件書を置いた。依頼書には触れなかった。


「契約のない仕事はしません。今日は休息日です」


「エリナ」


「明日の公開交渉には出席します。会計原簿をお持ちください」


 立ち上がると、書記も記録を閉じた。父は椅子に残ったまま、領地の地図へ視線を落とす。


「ここで育ったことまで、なかったことにするつもりか」


 扉へ向けた足が、一歩だけ重くなった。


「育ったことは消しません。無給で働く理由にも使いません」


「契約を持ち出せば、領民はおまえが故郷を値踏みしたと思うぞ」


 父の声に怒鳴る響きはなかった。昔から、断ったあとに困る人の顔を数えるのが上手だった。


「交渉の記録に、そのご意見も残してください」


 納得を得るための言葉は足さなかった。


 書記が退室時刻を読み上げる。朝の光の中で、机に残した依頼書の端がわずかに反っていた。


◇


 正午の玄関前で、後発隊の馬が白い息を吐いていた。


 カイルは鞍を降りると、護衛の人数と荷箱を見渡し、最後にエリナの顔を見た。王都の救援を引き継いできたばかりで、濃紺の外套には乾いた泥が残っている。


「面談は終わったか」


「父は、記録の開示より先に再建を求めました。明日の公開交渉だけ受けると伝えました」


「それで、今日は何をしたい」


 次にどの井戸を測るか、と聞かれたのだと思った。


「西の測量班は夕刻に二度目の報告を――」


「それは測量班の予定だ」


 声は公務の時より少し柔らかい。


「君の予定を聞いている」


 答えが見つからず、門柱の影へ目を落とした。ここを出たら宿へ戻り、報告を読み、明日の証拠順を組むつもりだった。どれも今日でなければ困ることではない。


「仕事以外を、してみたいです」


「難しい注文だな。私はこの町では、役に立たない案内人だ」


「それなら、ちょうどよいかもしれません」


 カイルの口元が少し緩んだ。


「行き先は?」


 昔、町を歩く時は雲の向きか井戸の数で道を選んだ。今日は市場の屋根を越えてくる、砂糖を焦がした匂いが気になった。


「市場へ。店の名前を、何も測らずに聞きたいです」


 二人は護衛を一人だけ連れ、侯爵家の馬車を使わずに坂を下った。


 途中の鐘楼で、昼の鐘が一つ鳴った。いつもなら音の伸びで風向きを確かめていた。今日はカイルが見上げたので、同じように屋根の銅板を眺める。


「子どもの頃、よく行った店は?」


「観測具を直す金物屋と、木札を切ってくれる桶屋です」


「食べ物の店は」


「名前を覚えていません」


「では今日、最初の一軒を作ろう」


 かわいそうだとは言われなかった。その方が、坂の続きへ足を出しやすかった。


◇


 午後の市場は、増水した川から一筋離れた高い通りに出ていた。


 避難に備えて荷車を壁際へ寄せた店もある。それでも青果屋は萎びた葉を水へ浸し、パン屋は窯の灰を掃き、菓子屋の軒には赤い実を煮た甘酸っぱい匂いが残っていた。


 幼い頃、この道は観測場所をつなぐ近道だった。窓の結露を見て、石畳の濡れ方を見て、買い物籠の中身には気づかなかった。


「これは、何という菓子ですか」


 尋ねると、店主は少し驚いてから、赤い砂糖衣の粒を紙袋へ入れた。


「すぐりの実を煮詰めたものです。酸っぱいですよ、水務監様」


「仕事中ではありません」


「では、旅のお嬢さんに一つおまけを」


 肩書を言い直す気にはならなかった。紙袋を受け取り、最初の一粒を噛む。


 甘さの奥から酸味が追いつき、舌の両脇がきゅっと縮んだ。


「おいしいです」


「今の顔からは判断できないな」


「カイル閣下も召し上がりますか」


「危険を共有しよう」


 差し出した一粒を、カイルはずいぶん慎重に口へ入れた。次の瞬間、眉間へ浅い皺が寄る。


「故国の菓子は、客に覚悟を求めるらしい」


 笑うつもりはなかったのに、声がこぼれた。菓子屋の店主もつられて笑い、もう一粒を袋へ足した。


 河岸へ下りる手前で、測量班の伝令が待っていた。


「定時報告です。川は第一杭の下、細泥の向きは変わらず。高道の避難は観測係の判断で継続します」


 報告票には、測量員、村の観測係、代行責任者の三つの印がある。自分の返答欄はない。


「受領しました。次も定時どおりに」


 それだけ伝えた。川音は近い。紙袋を持つ指へ力が入りかけたが、報告票は伝令の鞄へ戻った。


 以前なら余白を借り、次の観測点を一つ増やしていた。伝令は追加命令を待たずに一礼し、村へ引き返した。任せた仕事が、自分の言葉を足さなくても続いていく。


 カイルは「行かなくてよいのか」と確かめなかった。代わりに、河岸のどちらを歩くか尋ねた。


「店の名前を聞くのでしたね。次は、あの黄色い看板か?」


「あれは靴直しです。子どもの頃から知っています」


「一軒、無駄足を省けた」


 石段を下りかけたところで、今度は侯爵家の書記が封筒を持って駆けてきた。受領番号も、公の面談時刻も入っている。


 父は、明朝の公開契約交渉に応じた。


 添付された一枚には、幼少観測札も雨帳も侯爵家の治水実績へ使った事実はない、と記されていた。


 酸味が、口の中へ戻ってくる。


 会計原簿と申請値を並べる必要がある。明日ならば。


 エリナは受領欄にだけ署名し、封筒を証拠袋へ収めた。


「宿へ戻るか」


 紙袋には、まだ三粒残っている。


「もう少し歩きたいです」


「では、次の店の名を外さないよう努力しよう」


 カイルの差し出した掌へ、赤い一粒を置いた。

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― 新着の感想 ―
雨と水と人の暮らしのお話を拝読しておりますが、今日はことのほか風景がきれいだなぁと思いました。 家族と立場の間で、口の中が酸っぱくなる感じに覚えがあって、うんうんとモニターの前で頷いていました。毎日更…
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