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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
誰の空でもある雨

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第72話 空になった自室

 侯爵邸の玄関で、エリナの名より先に訪問票が読み上げられた。


 午前の光が、磨かれた床へ窓枠の影を落としている。隣には監察書記、正面には昨日の通知を持った家令。夜通しの移動で靴の中まで重かったが、今日は邸に残る旧雨帳と国境水位簿を確かめに来た。昨日、王国水務監として故国へ入り、雨のないまま川だけ増える無降雨増水は測量班に任せてきた。


 古い雨帳まで「家の物」で済まされれば、地下へ沈んだ移動冠の時刻へたどり着けない。


「閲覧者は水務監一名、監察書記一名。持ち出しは行わず、原位置と保管簿を照合します」


 書記の声が高い天井へ返る。


「そこまで堅くなさらずとも」


 家令は応接室の扉を開けた。暖炉には火が入り、三人分の茶器が並んでいる。


「旦那様は、まずご家族だけでお話しになりたいと」


 エリナは、三つの茶器を見た。


「監察書記も同席します。こちらの一席をお借りします」


 書記が日時を書き添えると、家令の眉間に浅い皺が残った。反論は消えなかったが、応接室の扉は閉じられた。


 記録室の保管簿には、国境水位簿を自室の雨帳棚へ移した年が記されていた。返却欄には担当者の印がある。翌年、別の書庫へ移した行だけ、日付と立会人が空いている。


 書記は前後三行の記載を読み上げた。前日は北堤の補修票、翌日は城下井戸の申請控え。どちらにも日付と二人分の印がある。抜けているのは雨帳棚の行だけだった。


「その棚は、今もお部屋にございます」


 家令が言う。


「移した記録がありません」


「ご家族の部屋の中で場所を変えただけです。保管先は同じ邸内でございます」


 エリナは空欄の行を指した。


「同じ邸内なら、移した日が消えてよい理由にはなりません。原位置を確認します」


「お嬢様がお使いだった物を、そこまで疑う必要がございますか」


「疑う範囲も記録で決めます。今日見るのは、この一行に関係する場所だけです」


 家令は納得した顔をしなかった。それでも、書記が保管簿へ付箋を挟む間、鍵束から西廊下の鍵を外した。


◇


 旧自室の扉を開けると、乾いた花と衣装箱の樟脳が混じっていた。


 窓際から壁まで、淡い黄、青、薄紅のドレスが季節順に吊られている。ミレーユが晴天祭で着た衣装もあった。裾へ縫い付けられた硝子粒が、正午前の光を細かく返している。


「お部屋は、そのままお使いいただけます」


 案内した侍女が言った。


 眠るための寝台も、手紙を書く机もない。壁際に雨帳棚の幅だけ空所があり、床には衣装箱を引いた跡が交差していた。


「ここは証拠確認の対象です。私室としては扱いません」


 監察書記を先に通す。侍女は何か言いかけ、衣装の裾を汚さないよう壁際へ寄せ始めた。


 昔の癖で机の場所を探す必要はなかった。もう机はない。寂しさが来るのを少し待ったが、耳に残ったのは衣装掛けの木が軋む音だけだった。


 帰る場所を失ったのは、今日ではないらしい。


 窓辺へ立つと、庭の日時計だけは昔と同じ場所に見えた。幼い頃は鐘より先にその影を見て、木札へ時刻を刻んだ。雨の朝には窓枠へ札を並べ、乾く順で風向きを確かめた。今は同じ窓の下に、ミレーユの舞踏靴が色別に置かれている。


 靴のどれにも、泥がない。少しだけ、おかしかった。ここで笑ってよいのか分からず、息だけが鼻から抜けた。


 空所の壁には、棚を留めていた四つの金具が残っている。上の二つは新しく、下の一つだけ緑青が浮いていた。壁紙はその周りから濃く湿り、金具の頭がわずかに浮いている。


「触れる前に、位置を記録してください」


 書記が壁、床、衣装箱を図へ落とす。侍女には、いつ衣装庫へ変えたか、誰が棚を外したかを尋ねた。


「三年前です。旦那様のご指示で、職人が。棚の中身は先に運ばれておりました」


「どこへ?」


「存じません。空になってから、私どもが入りました」


 侍女は衣装箱の陰をのぞき、首を振った。


「棚は重くて、下の金具が外れなかったと聞きました。職人は板を一枚残して、衣装掛けを前へ置きました。湿りがドレスへ移らないよう、時々ここを空けております」


 家令が咳払いをした。


「昔の帳面です。旦那様がお預かりになったのでしょう」


「保管先が分かるまでは、分からないと記録します」


 緑青の金具は、書記が布越しにつまむだけで回った。抜けかけた螺子の奥で、薄い裏板がかすかに動く。


 金具を外す許可を家令から書面で取り、職人を呼んだ。板の隙間へ細いへらを入れると、湿った木の匂いが衣装の香りを押しのけた。


 最初に落ちたのは、小さな木札だった。


 雲の数は丸、井戸の泡は点、川の高さは横線。紙を与えられる前、幼いエリナが毎日の空と水を記した幼少観測札だ。続いて紐の切れた束が、板の裏から滑り出した。


 落ちた札の手前で、靴先を引いた。


「原位置、棚跡の西壁、下端から指三本。発見時は紐が切れています。読み上げます」


 書記が一枚ずつ受け、侍女が枚数を数える。幼い字は曲がっていたが、日付と井戸の目盛りは読めた。国境村の古い増水年と重なる札だけ、横線が二段高い。


 一枚には、朝食の粥をこぼした白い跡が残っていた。観測を急ぎ、母に叱られ、乾く前に数字を書き直した日の札だ。数字より先に、その朝の冷たい匙を思い出した。


 札の端には、小さな四角い印が押されていた。


 記録室から持ってきた治水申請控えを開く。侯爵家が治水実績と補助金申請を結びつけるために使った治水申請整理印と、数字の並びが同じだった。


 喉の奥へ、古い木の渋い匂いが残る。


 幼い自分は、雨が降るたび父へ札を渡していた。褒められた記憶はない。けれど、札がなくなった朝だけはよく覚えている。役に立ったのだろうと思い、また作った。


「会計原簿が必要です」


 声は思ったより静かに出た。


「この印だけでは、誰が申請へ使い、誰が利益を受けたかは決められません。札はここで封印し、写しだけを作ってください」


 侍女が薄紙を持ってきた。札の土を払おうとした手を、書記がやんわり止める。


「この汚れも、壁の中にあったことを確かめる手掛かりです」


 侍女は布を畳み、代わりに発見位置を証言欄へ書いた。小さな字で、自分の名まで添える。


 一枚も鞄へ入れない。書記が束を薄紙で包み、発見位置と枚数を読み上げ、侍女と家令が立会欄へ印を置いた。


 封蝋が冷えるまでの時間が、ひどく長かった。


◇


 午後、応接前室へ戻ると、三人分の茶はすっかり冷めていた。


 エリナは公開面談の要求書へ、幼少観測札と治水申請控えを書いた。最後に、会計原簿と補助金入金簿を加える。監察書記の同席、逐語記録、原本の原位置確認も添えた。


 家令は受け取った紙を読み、別の封筒を差し出した。


「旦那様からです。記録のお話は後ほど。まず領地の井戸と川を救ってほしい、と」


 封筒には、娘へ、とだけあった。肩書も面談記録の番号もない。


 父ローランは、謝る前に仕事を求めている。


「この封筒も受領時刻を記録してください。返答は公開面談で行います」


「お会いにもならないのですか」


「会計原簿と一緒に伺います」


 書記の筆が動き、封筒の余白へ受領番号が付いた。


 冷えた茶器の向こうで、家令は父の私室へ続く扉を見やる。


 扉は開かなかった。

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