第71話 帰るのではなく入る
侯爵家の紋章を付けた馬車を通り過ぎ、エリナは一般入域の列の最後尾に立った。
午前の白い光が、故国国境の低い石壁を照らしている。列の先には旅商人が二組、後ろには追跡隊の書記と護衛が三人。夜通し馬車に揺られた肩は外套の重ささえ疎ましかったが、移動冠を追う照合盤は鞄の中で、まだ西南を指していた。
王都冠座を止めたあと、ヴェルクの信号はこの国へ逃げた。正式な入域記録を残せなければ、追跡も携えてきた証拠も侯爵家の内輪事にされる。ここで遅れすぎれば、井戸の乾いた村を雨のない洪水が襲う。
「お帰りでございます、お嬢様」
背後で家令が言った。
懐かしい声より先に、馬車の扉から香草袋の匂いが流れてきた。幼い頃、長旅で酔わないよう侍女が座席へ吊したものと同じだ。
「旦那様がお待ちです。こちらへ」
開いた踏み台は、列から外れるように置かれていた。
「先に入域手続をします」
「ご帰宅に手続は要りません。侯爵家の者が身元を保証いたします」
窓口の役人も、革表紙の台帳を閉じかける。
「ヴァルクール家のご令嬢でしたら、家人の出迎えで十分です」
ご令嬢。
雨帳の革紐を整えそうになり、手を外套の脇へ下ろした。あの邸にいた頃は、家名を出されると説明する前に譲っていた。急ぐ時ほど、家族が選んだ近道へ自分から入った。
鞄から任命状と追跡状を取り出す。王印と議会印が朝日に浮いた。
「帰宅ではありません。王国水務監として入ります。日時と目的を記録してください」
家令が小さく息を吐いた。
「旦那様へのご挨拶が先では」
「ヴェルク宰相の移動冠を追っています。侯爵邸への訪問は、閲覧対象を書面で通知します」
「ですが、家族のお話まで役所へ残すおつもりですか」
「家族の話は記録しません。公務だけを記録します」
役人は任命状を受け取り、紙を光へ透かした。追跡状の権限欄を一行ずつ読み、国境印の型を脇の見本帳と見比べる。家令は馬車のそばに立ったまま、急かす言葉を飲み込まなかった。
「領内の道なら侯爵家の護衛が案内できます。水務監の一行を待たせる必要はございません」
「追跡隊は待たせません。手続中も観測は続けています」
書記が照合盤の時刻を読み上げた。役人はようやく台帳を開き、青い砂時計を返した。
役人が、最初の欄へ「正式入域記録」と書く。ここへ身分と入った目的、使える権限、持ち込んだ資料を残す。家の迎えが来ても消えない、公の記録だ。その下へ、役人の筆が肩書を書いた。
王国水務監。
その下へ、エリナ・ヴァルクール。
目的は三冠座遠隔起動の首謀者追跡と、国境水害の調査。携行資料は起動命令符号、欠巻照合写し、公印使用簿、追跡状。読み上げられた文字に誤りがないことを確かめ、本人印を押した。
印肉の冷たさが、夜道の疲れた指へ移る。
役人の印が隣へ重なり、青い砂が落ちきった。
馬車の扉は、まだ開いていた。
「写しを三部お願いします。一部は国境保管、一部は追跡隊、一部は侯爵邸への訪問通知に添えます」
台帳はもう閉じられなかった。
◇
昼の国境村では、共同井戸の縄が底まで垂れていた。
桶を引き上げた村長の掌に、白い粉が残る。井戸端には洗い物の入った籠が積まれ、子どもが空の桶を椅子代わりにしていた。水を待つしかない時間が、広場のあちこちに座り込んでいる。
「三日前から、一滴も上がりません」
村長は入域記録の写しと追跡状を何度も見比べた。
「それなのに川は今朝から増えています。上で降ったと言う者もおりますが、空はずっとこの色です」
薄い雲はある。雨を落とした厚みではない。エリナは井戸縄の粉を紙へ取り、靴底に付いた乾いた土と分けて包んだ。
河岸へ下りると、橋杭の古い雨染みより上へ、水が音もなく迫っていた。岸の草は乾いている。羽虫も低く飛ばない。流れてくる水だけが濁り、川底から押し上げられたような細かな泥を含んでいる。
「上流の降雨記録は」
村の観測係が木札の束を差し出した。
「北の丘と西の畑、どちらも三日なしです。向こうの番所も同じだと」
観測範囲には雨がない。それなのに、川だけが増えている。無降雨増水と呼ばれる異常だ。水が地表の雨以外から押し出されているのかもしれない。
「干ばつ札と洪水札、どちらを立てますか」
観測係が二枚の札を持って困っていた。
「両方です。同じ時刻で並べてください。井戸低下も川の上昇も、一つの記録束にします」
「一つの災害なのですか」
「まだ分かりません。分からないものを、二つに切って片方を見失わないためです」
護衛隊長が照合盤を示した。移動冠の針は国境を越えてから弱くなり、地面へ伏せるように傾いている。
「このまま追えば、日没前に次の番所まで届きます」
「村を通過すれば、こちらの時刻が失われます」
採水瓶を川へ沈めた。冷たさは腕まで上がるのに、岸の土から湿りの匂いがしない。蓋を閉め、瓶を平らな石へ置く。
細泥は底へ沈まず、硝子の西南側へ薄い帯を作った。
追跡針と同じ向きだった。
「橋を閉じます。歩けない方と子どもを北の高道へ。橋杭へ半刻ごとの水位を刻み、井戸は深さと縄の粉を別に残してください」
村長の眉が寄る。
「侯爵様の許しは」
「避難判断は王国水務監の責任で出します。外れた場合の記録も、私の名で残します」
家令は河岸までついて来ていた。磨かれた靴に、乾いた粉土が厚く付いている。
「旦那様は、領内へ戻られたと聞いてお喜びでした」
「入域記録の写しをご覧ください。私は調査のために入りました」
「同じことでございましょう。村のことも、邸で人を集めれば」
同じではない、と言い返す代わりに、測量杭の位置を決めた。
川沿いに三点。井戸と畑に二点。村人の記録と追跡隊の器具を、同じ時刻で読める場所へ置く。家令は納得しなかったが、馬車へ戻ることもしなかった。
最初の避難荷車が高道へ上がる。空だった洗い桶には、幼い子の靴と昼のパンが収まっていた。
◇
夕刻、村外れの街道へ五本の測量杭が並んだ。
西日が細い刻みを読みにくくし、測量員が片膝をついて墨を塗り直している。立てた採水瓶では、細泥の帯が西南側から動かない。照合盤の針も、地面を指したままだった。
「信号が消えたのではなく、地下へ沈んだ可能性があります」
測量員が言う。
「断定はしません。川、井戸、畑の三点を一刻ごとに。針が戻らなくても、泥の向きと水位を残してください」
「夜の撤退線は」
「高道の第二杭。川が第一杭を越えたら、器具を置いて全員退避します。次の責任者は村の観測係、連絡が二度欠けたら判断も引き継いでください」
自分が邸へいる間も、ここは動く。
書記が委任記録を読み上げ、測量員と村の観測係が順に印を置いた。入域台帳の写しは、今度は現地で命令を出した者と、あとを引き継ぐ者を結ぶ紙になっていた。
「これで、侯爵邸へ参れますか」
家令が馬車の踏み台へ手を掛ける。
「先に、こちらを届けてください」
エリナは訪問通知を書いた。明朝、監察書記と訪れる。見せてもらうのは、旧雨帳と国境水位簿、侯爵家に残る記録だ。どれも持ち出さず、その場で確かめる。父との面談は、それからにする。
入域記録の三部目を添え、封をした。
「お嬢様ご本人を空の馬車より後に到着させろと?」
「水務監の訪問通知を先に届けてください」
「旦那様は、その呼び方をお喜びにはなりません」
「呼び方を決めるための訪問ではありません」
家令は封書を受け取った。昔なら、困った顔をされるだけで理由を足していただろう。今日はもう、伝える内容が紙の上に揃っている。
侯爵家の馬車へは、誰も乗らなかった。
扉が閉まり、踏み台が上がる。車輪が街道の砂を鳴らし、封書だけを乗せて邸の方角へ進んでいった。
エリナは測量班の荷車へ向き直った。




