第70話 空を盗む者
王都議会脇の水時計室で、三つの針が朝を巻き戻していた。
床下から、鐘ではない低い音が響く。エリナの隣ではカイルが公布書を開き、階段口ではミレーユが明るい外套の留め金を外していた。高窓の向こうで、大陸の雲が一本の黒い帯へ吸い寄せられている。
つい先ほど、住民席、職人席、耕作者席を結ぶ地域水務連携が可決された。その最初の仕事が、三冠座の同時起動だった。
王都冠座だけを乱暴に壊せば、押し出された圧力は沿岸か旧堤防を襲う。止められなければ、雲を奪われて乾く土地と、集められた水で沈む土地が同時に生まれる。
「沿岸、避難段階二。塩畑村の東道が水没しました」
伝令の声に、エリナは地図へ手を伸ばした。
「西の丘道を――」
「住民席から追記です。西は荷車を止め、歩けない方を北の製塩台へ上げました。現地責任者の印があります」
指が地図の手前で止まる。
昨日までなら、自分の返事を待たせていただろう。今朝の議場で作った仕組みは、もうエリナより先に人を逃がしている。
「その判断を採用します。次の報告は水位と残った人数だけで構いません」
伝令は一礼し、東の扉へ消えた。
旧堤防からは放流路を二本開いたとの札が届く。耕作者席は家畜を高地へ移し、職人席は夜番の六人を休ませたまま交代班を地下へ送っていた。どの紙にも、判断した者の名と次に代わる者の名がある。
全部を読み上げる必要はなかった。
「王都地上の避難と放流路は私が持つ」
カイルが手袋を外した。声から余計な柔らかさが消えている。
「王宮の荷車は南区へ回す。庭園側の水門も開ける。地下へ必要な人数を言ってくれ」
「技師班十二名と、信号係を三名。私はミレーユと冠座へ降ります」
「お姉様、私の上限は覚えていますね」
ミレーユは早口で確かめたあと、自分の手首へ二本の指を当てた。
「一枚ずつでいい。お姉様の数を聞くわ」
カイルは二人を止めなかった。公布書の王印を階段脇の書記へ渡し、地上へ向き直る。
「次の定時報告で会おう」
「はい。地上の退路をお願いします」
「君たちも、戻る道までを仕事に含めてくれ」
階段の下から、湿った石と熱い銅の匂いが上がってきた。
◇
王都地下の冠座室は、夜より暗かった。
三重の制御環が石床へ埋まり、その内側で水が壁を上るように回っている。青銅の目盛りは王都、沿岸、旧堤防。三つの水位差が、さっき見た黒い帯と同じ方向へ傾いていた。
ここへ降りた目的は一つだ。王都の環を順番に乾かし、余った圧力を地上で開けた放流路へ逃がす。
失敗すれば、この部屋が静かになった分だけ、見えない町の水位が跳ね上がる。
「祝福で三環を焼き切れば、十息で止まります」
若い技師が濡れた工具を握って言った。
サーラなら、まずその爪の油を見ただろう。三晩は眠っていない手だ。
「十息後、沿岸へどれだけ飛びますか」
「計算中です。ですが、王都は止まる」
王都だけが止まる。それは今朝、議場で退けた案と同じだった。
「放流路の開度を先にください。第一環は私の合図まで触れません」
技師は唇を結んだまま、計算板へ戻った。工具を環から離し、濡れた盤へ視線を落とす。
ミレーユが白い手袋を片方だけ外す。掌には、かつて一日に四度も祝福を重ねた時の薄い輪が残っていた。
「最初は、どこ?」
「王都七、沿岸五、旧堤防六。第一環の外側を一層です」
「七、五、六。聞いたわ」
晴れの祝福は雨を作らない。触れた雲や湿りを散らすだけだ。ミレーユの指先から白い熱が細く伸び、濡れた銅環の表面を一枚ぶんだけ乾かした。
環が軋む。
技師班が手動輪を四分の一だけ回すと、石床の下を重い水音が走った。王都の目盛りが一つ下がる。
「旧堤防、二目盛り上昇!」
信号係の声が裏返った。
予定と違う。
放流路の一つで、小石を噛んだ鉄蓋が半分しか開いていなかった。若い技師が膝をつき、柄の短い槌を差し込む。
「焼き切っていれば、もう終わっていました」
「その頃には、旧堤防の退路が水の下です」
「分かっています。だから開けているんです」
苛立ちが声を尖らせた。今はそれでよい。槌の三打目で鉄蓋が跳ね、泥水が放流溝へ噴き出した。
旧堤防の目盛りが安全線へ戻る。
エリナは息を整え、次の三点を待った。自分で鉄蓋へ走れば、沿岸の変化を読む者がいなくなる。濡れた目盛りから目を離さない。
「王都六、沿岸五、旧堤防五」
「第二環、内側を一層」
「ええ」
白い熱が、今度は細く長く走った。
ミレーユの祝福は、以前なら歓声のために空一面を晴らした。今は地下で、誰の目にも映えない銅の濡れだけを消している。水位が一つ落ちるたび、技師班が別の輪を回し、遠くの町から安全印が返る。
二巡目の終わり、ミレーユが自分から手を上げた。
「熱が基準まであと二つ。次で終わらなければ交代します」
「承知しました。手首を」
脈を数える間も、信号係は水位を読み続ける。王都五、沿岸五、旧堤防五。
三つがそろった。
「第三環。中央の継ぎ目だけです」
白い光が指一本の幅で降りた。
制御環が戻ろうと震え、ミレーユの肩が揺れる。エリナは腕を支えなかった。代わりに目盛りを読む。
「その幅です。あと半分。止めて」
光が消えた。
技師班の三人が手動輪へ体重をかける。さっきの若い技師も加わり、濡れた靴が石を滑った。誰かが背中を押し、輪が最後の溝へ落ちる。
音がなくなった。
静けさの中で、放流路を流れる普通の水音だけが残った。
「王都、停止!」
「沿岸、安全域!」
「旧堤防、安全域!」
上の通気孔から、黒い帯の端がほどけたという伝令の声が落ちてくる。王都上空へ、ちぎれた灰色の雲が戻り始めていた。
ミレーユは熱の残る手を医療係へ差し出した。促される前に椅子へ座り、冷却布を巻かせる。
「誰かの水を、奪っていない?」
エリナは三つの目盛りを見た。
「三地点とも安全域です。今回は、ここで終わりです」
ミレーユは目を閉じた。笑顔を作る代わりに、冷却布の端を自分で押さえ直した。
その横で、止まったはずの王都の水時計に、別の細い針だけが動いていた。
残る二冠座へ命令を送り続ける、移動信号だった。
◇
夕刻、王都城壁の移動信号観測台には、西風が戻っていた。
エリナは外套の襟を押さえ、照合板の上へ三枚の記録を並べた。王都冠座は止まった。沿岸と旧堤防では避難と放流が続いている。今度の目的は、動き続ける信号の持ち主を、推測でなく公の名へ変えることだった。
移動冠。固定された三冠座へ上位命令と自分の位置を送る、持ち運べる天冠の中枢だ。
一枚目は、トリスタンが公開審理で読み上げた起動命令符号。二枚目は、欠巻に残った符号列。三枚目は、ヴェルク宰相府の公印使用簿だった。
監察官が一字ずつ読む。
六つの丸印。二本目だけ長い横線。末尾の欠け。
三枚とも同じだった。
観測台に歓声は上がらない。書記のペンが紙を擦る音だけが続いた。
「移動冠の所持者を、ヴェルク宰相と確定します。三冠座遠隔起動の首謀者として追跡状を発行してください」
言葉にした瞬間、指先に残っていた震えが少しだけ薄くなった。古い補修石に見つけた冠の印が、ようやく一人の名へ届いた。
照合板の細い針は、西南へ進んでいる。
故国の方角だった。
石段を上がる足音がして、泥の付いた長靴が観測台へ現れた。カイルは外した手袋を片手に持ち、まず移動針、その次にエリナを見た。
「南区の避難は終わった。放流路は二交代で維持できる」
「追跡隊をすぐ出します」
「ああ。君が率いてくれ」
一緒に来てほしい、という言葉は飲み込んだ。彼が王都を空ければ、せっかく止めた冠座の地上側に責任者がいなくなる。
「後発隊を二番鐘で出す。そこで合流しよう」
「水務監への命令ですか」
「恋人との約束だ。水務監の判断は、もう決裁済みらしい」
乾いた冗談に、喉の奥で小さく息がほどけた。
「では、約束を守ってください。私も守ります」
「もちろんだ。仕事を終えて会おう」
握る代わりに、二人は互いの追跡状と救援表へ署名した。片方だけが戻れば済む約束にはしない。
ミレーユは冷却布を巻いた手で、故国までの街道図を押さえた。
「ヴェルク様は、どうしてあそこへ?」
「まだ分かりません。だから、確かめに行きます」
国境からの伝令が、最後の坂を駆け上がってきた。
紙は乾いていた。泥も雨染みもない。そこに、同じ村の報告が二行で書かれている。
畑と井戸は乾いている。
雨のない上流から、川だけが増えている。
エリナは追跡状の行き先へ、故国の名を書いた。
第2章をお読みいただき、ありがとうございます。
空と水を盗んだ者が明らかになり、物語はエリナの故国へ進みます。
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