第69話 水を分ける票
賛成票の列より、反対票の列のほうが長い。
夜明け前の王都議会準備室で、エリナは黒板の票読みを見上げた。窓はまだ灰色で、結露が下枠に細い水たまりを作っている。長卓の向こうにはカイルと書記、その左右には住民席、職人席、耕作者席の代表がいた。昨夜の審理から運ばれた確定判決書と、ヴェルクの使者が残した起動命令書が、乾ききらない封蝋の匂いを混ぜている。
命令書の時刻は、今朝の公布より早い。
三冠座を止めるには、王都だけを閉じてはいけない。沿岸と旧堤防の圧力、避難、放流を同時に動かさなければ、水は空いた地域へ押しつけられる。けれど、その地域水務連携を正式に動かす決議は、今の票数では通らない。否決されれば、首都を守る名目でどこかの村が乾き、別の町へ水があふれる。
「未定の八名へ、私から命じることはできる」
カイルは黒板を見たまま言った。
「できます。ですが、それでは次に別の公爵が逆の命令を出せます」
「分かっている。言ってみただけだ」
エリナは票一覧の右側を指でなぞった。そこだけが広く空いていた。賛成、反対、未定。名前と票はあるのに、その票で水を失う土地の名はない。
「未定の方が恐れている損失を分けます。王都の避難混乱、食料の遅配、停止班の不足。三つです」
「不足じゃないよ」
職人席の代表が、人員表を押し返した。爪の間に黒い弁油が残っている。
「この六人は夜番明けだ。今から地下へ下ろせば手が狂う。十二人と書き直しな」
用意した案は、そのままでは動かなかった。耕作者席のイネスも、地方の荷車を停止班へ回せば朝の粉挽きが止まると言う。住民席は、避難所の給水車を一台も減らせない。
新しい紙を広げた。
「停止班へ出す荷車は王宮の儀礼蔵から。運び手は今朝の式典要員へ、本人の意思を確認してください。夜番の六人は休ませます」
「式典は中止だ。花瓶の運び手にも給金は払う」
カイルの返答に、イネスが口元を緩めた。
「公爵の花は、今日は水を飲まずに済みますね」
三つの席は、それぞれの観測と代替案を一つの議案へ添える三席連署を作った。住民席は避難所と退路、職人席は停止手順と交代人数、耕作者席は食料輸送と代替荷車を書く。エリナは三色の綴り紐を通し、空いていた右欄へ、影響を受ける土地の名を書き始めた。
朝鐘が鳴る前に、紙の余白はなくなった。
◇
王都議会の公開本会議には、朝の白い光が高窓から差していた。夜通し磨かれた床は明るいのに、傍聴席の外套は雨と泥の色をしている。エリナは議場中央の説明卓に立ち、左に三席の代表、右に書記を置いた。カイルは議員席へ下がり、王は正面の高座から議場全体を見ていた。
「王都冠座だけを停止する」
東列の議員が立ち上がった。
「地方水路は一時切断する。首都の混乱を最小にするには、それが最も確実だ」
議員は振り返らない。故郷の一村を差し出してでも王都を守るのが統治だと続けた。声には迷いがなく、説得されるつもりもないらしい。
エリナは反論を急がず、三席連署の最初の頁を開いた。
「一地域だけ止めた場合、圧力は沿岸と旧堤防へ移ります。沿岸の生活井戸は半日で飲用線を越え、旧堤防では下流の退路が先に失われます」
「地方の損失は補償する」
「三十日後、首都へ届く穀物が四割減ります」
数字を置くと、イネスが前へ出た。
「四割は畑の実りじゃありません。荷を出せなくなる村と、水車を回せなくなる粉挽き場を合わせた分です。今週の粉袋なら倉庫にあります。来月のパンは、まだ畑ですよ」
朝食の席から直行した議員の机には、白いパンが半分残っていた。
職人席の代表が次の紙を掲げる。
「王都の制御環は三組。全部を同時に壊せば早いが、その早さで沿岸へ圧が飛ぶ。一層ずつ止め、交代班を置く。王宮の荷車が使えるなら地方の水車は止めずに済む」
「現場の見込みに議会を預けろと言うのか」
「見込みじゃない。あんた方が昨夜まで削っていた人数を、今朝数え直したんだよ」
書記の筆が一度止まり、また走った。発言は一語も丸めず残される。
票一覧の右欄が公開板へ写された。票別被害記録。各議員の票と、その案で予測される地域別被害を同じ公開議事録へ残す欄だ。
東列の議員の名の横へ、塩畑村、北堤村、王都南区と書かれる。三十日後の穀物減、代替放流路あり、王宮荷車十二台、と続いた。
「これは地方を選ぶ票ではありません」
エリナは水時計の一打ぶん待った。
「三十日後の首都まで捨てる票です」
東列の議員は座らなかった。
「それでも私は反対する。三つの地域に命令を分ければ、責任の所在が曖昧になる」
その論理は崩れなかった。だから、消さずに残す。
「責任者も記録します。沿岸の避難は住民席、制御環は職人席、食料水路は耕作者席。王都の公布と各地への送信責任は、王国水務監である私です」
「あなた一人が倒れたら」
「代理者にも同じ権限があります」
書記が代理順位の頁を開いた。第六席まで、本人名義と中止権が並んでいる。
未定だった議員の一人が手を上げた。
「私の領の退路は、誰が確かめた」
住民席の代表が、泥の付いた地図を掲げる。
「今朝、そこから来た者です。東門は荷車二台まで。西の丘道なら歩けない者を先に上げられます。あなたの役人から返事はありませんでした」
議員は顔を赤くし、礼もなく地図を寄越せと言った。
「写しは差し上げます。原本は住民席に残します」
傍聴席から、短い笑い。
票が一つ動く。
それを合図に、別の未定議員が立つ。自領の水路番は王都の命令を待たず弁を閉じられるのか。職人席が中止権の印を示すと、住民席は鐘の届かない集落へ走る者の名を読み上げた。その一人が傍聴席から返事をする。議場にいない誰かの仕事が、そこで初めて票と同じ重さを持った。
反対議員は腕を組んだままだった。賛成へは回らない。ただ、自分の名の横へ書かれた三つの村を消せとも言わなかった。
次の議員は沿岸へ圧力が移る根拠を求めた。エリナが三冠座の水位差を示し、職人席が弁の順を補う。別の議員は井戸の回復日を問い、イネスが耕作継続日数と種麦の残りを答えた。
質問のたび、右欄の村名と代替案が増えた。綺麗だった票一覧は、泥の地図、油の指跡、麦粉の白さで埋まっていく。
王が採決を命じた。
木札が一枚ずつ返される。賛成。反対。保留を求める声は、起動時刻を読み上げた書記に退けられた。
最後の一枚が返った時、賛成の列が長くなった。
天冠停止決議、可決。
地域水務連携決議、可決。
槌が下りる。傍聴席の歓声は、三席の代表が互いの顔を見て息を吐いた後から、波のように広がった。
エリナは説明卓の縁を握ったまま、公布書が綴じられるのを見た。三色の紐が表紙を通り、結び目の下へ王印が押される。
カイルが議員席から近づいた。
「水務監。喜ぶ時間を取る権利も、条文に足すべきだったな」
「次の改定で提案してください」
「共同提案者になってくれるか」
返事をする前に、議場脇の扉が開いた。
◇
水時計室へ続く廊下を、書記が公布書を抱えて走る。朝日の向こうで、雲が東西へほどけず、一本の黒い帯へ引かれていた。
水時計室から伝令が転がるように出てきた。
「王都、沿岸、旧堤防――三つとも逆回転しています!」
窓の結露が、下から上へ走る。
ヴェルクの遠隔起動は、公布を待たなかった。
喜びは喉の奥へ置いたまま、エリナは三色の綴り紐を切った。住民席の写しを東の扉へ、職人席の停止手順を地下班へ、耕作者席の放流案を西の伝令へ渡す。
「地域水務連携を即時発動します。沿岸と旧堤防は避難段階を一つ上げ、王都は地下冠座の圧力を測ってください」
カイルは公布書の王印を確かめ、廊下へ向き直った。
「地上避難と放流路は私が引き受ける。王宮の荷車も、そのまま使え」
明るい外套が階段を駆け上がってきた。ミレーユは息を整えるより先に、黒い帯を見た。
「お姉様。私にできることを言って」
水時計の針は、朝を食べるように後ろへ進んでいる。
「王都冠座の停止班は、私とミレーユです。全力ではなく、一層ずつ止めます」
「ええ。一枚ずつなら、もう間違えない」
三つの扉から、伝令が同時に走り出した。




