第68話 著者欄の最後
夕刻の旧堤防、その内側に隠された欠巻保管所の前で、エリナは濡れた裾を片手で絞った。
低い保守排水路を抜けた先には、鉄扉へ背を預けるカイル、排水弁の細管を押さえるサーラ、証拠書記が二人。扉の向こうでは、箱を引きずる音が続いている。
雨読み学校を襲った者を追い、カイルたちはここで天冠欠巻と歴代雨帳を見つけた。中にいるトリスタンが紙へ火を入れる前に、原本を傷つけず回収しなければならない。失敗すれば、消された著者の名も、冠座を動かす命令の線も失われる。
「排水弁は外から固定したよ。けど古い革栓だ。開けられたら、少しは漏る」
サーラの袖から、白い石粉が落ちた。
「火は」
「煙が先に坊ちゃんを燻す。それぐらいは分かってるだろうさ」
鉄扉の内側から声がした。
「エリナ。君だけ入れ。昔の話を、他人に聞かせる必要はない」
昔の呼び方だった。婚約者の部屋へ招く時と同じ、返事をもう受け取ったつもりの声。
エリナは持ってきた空の証拠封鎖目録を、書記の台へ置いた。押収場所・箱番号・封印の状態・照合した者をその場で読み上げ、あとから資料を差し替えられなくする一覧だ。
「一人では入りません。扉を開けた時から、すべて記録します」
「私の研究資料だ。君にも分かるはずだ」
「でしたら、なおさら第三者の前で確かめます。扉から離れてください、トリスタン卿」
返事はない。
代わりに、鉄の擦れる音がした。床下の細管が震え、扉の隙間から水が一筋だけ出てくる。固定された弁は全開にならなかった。それでも紙箱には十分な水だ。
「革栓がもたない。半刻もないよ」
サーラが短く告げた。
カイルは扉の左右へ二人ずつを置くと、書記台から半歩下がった。エリナが置いた目録の前だけが空く。
「サーラさんは弁を。書記一名と私が箱を確認します。カイル閣下はトリスタン卿を原本から離してください。護衛は火と搬入口を」
「承知した」
蝶番を外す楔が三度鳴るたび、扉は内側へ傾いていった。
湿った蝋と古紙の匂いが、細い通路へ押し出された。
◇
保管所の中央で、トリスタンは革表紙の雨帳を抱えていた。
壁の棚には王立文庫の搬入箱が九つ。蓋を外された箱から、紺、茶、灰色の背表紙が覗いている。机には六つの丸印を持つ天冠欠巻と、黒い封蝋の命令書。隅の火皿だけが赤い。
カイルが火皿を踏み消すと、護衛がトリスタンと机の間へ入り、剣は抜かずに両腕を下ろさせる。
「触るな。婚約中に集めた記録だ。私には保管する権利がある」
抱えられた一冊の背から、青い綴じ糸が垂れていた。
エリナは手を伸ばさず、雨帳の下端を見た。紙の角に、細い半月の欠けがある。修理の時、糸を通し直すために自分で開けた穴も三つ。その頁へ書いた雨量は、故国水務院へ出す前に一度だけ訂正した。
「第一雨帳、第三十二頁から三十五頁。紙の透かしは西工房の三葉。余白符号は細線二本です」
書記が目録へ書き、復唱した。
「その説明も、私が世に出したから価値を持った」
「箱一。所持者はトリスタン卿。封印なし。原本と推定、照合継続」
言い返す代わりに、次の項目を読んだ。
トリスタンの口元が歪む。
「君は昔からそうだ。誰かが形にしてやらなければ、数字を並べて終わる」
排水口から入った水が石床の溝を伝ってくるのを、サーラが布袋で塞ぎ、濡れる棚から先に番号札を移した。
「昔話は水を止めないよ。箱を上げな」
護衛が雨帳を受け取り、乾いた布の上へ置く。エリナは青い糸へ触れず、透かし、余白符号、封印繊維を順に読み上げた。
二冊目は写しだった。三冊目は表紙だけが新しく、中の紙は四十年以上前のもの。著者欄には故国の旧当主名があるが、欄外の小さな波形符号は、王立文庫で仮目録にした女性雨読みのものと一致した。
四冊目、五冊目。
書記の指に紙粉が付き、くしゃみをこらえる音がした。サーラは棚の脚へ木片を噛ませ、流れ込む水より一段だけ高くする。護衛の一人が自分の外套を脱いで箱の下へ敷いた。
「それは洗えば落ちますか」
「泥はね。古紙の染みは知らないよ」
外套の持ち主は少し考え、「では、泥だけで済ませます」と答えた。誰も英雄らしい顔をしていない。ただ一冊ずつ、濡らさない場所が増えていく。
名前を奪われた手は一人ではなかった。晴れの日にも井戸の底を測り、洪水の夜には欄外まで時刻を書いた手が、違う家名の下へ押し込められている。
トリスタンが濡れ始めた床を見て言った。
「君の名は戻してもいい。私の共同研究だったと一行残せ。それで全部、公にできる」
今も取引だと思っている。
エリナが自分の雨帳を脇へ寄せ、先人の原本を机の中央へ置くと、青い綴じ糸の先が木目の上でほどけた。
「これは私とあなたの昔話ではありません。著者を消した記録です」
「家の名で出したから残った。名もない女たちの帳面を、誰が読む」
「いま、読み上げています」
トリスタンは黙り、エリナよりも書記のペン先を目で追った。
最後の搬入箱から、天冠欠巻と同じ六つの丸印が付いた命令書が出た。封蝋はヴェルク宰相府の形式だが、開封記録がない。差出人を断定するには、公印簿と本人の供述が要る。
「公開の場で証言してください。誰から受け取り、何を命じられ、あなたが何を選んだか。一度だけ、その選択を記録します」
「証言すれば、窃盗を不問にするのか」
「しません」
「では、私に何が残る」
「あなたが選んだことを、他人の名にしない機会です」
細管の奥で革栓が鳴った。
トリスタンは濡れた靴先を引き、命令書を見た。謝罪はない。彼が尋ねたのは、量刑と公開範囲、それに自分にも弁明時間があるかだった。
「弁明は記録されます。免責とは別です」
「……ならば、話す。ヴェルク閣下の使者から受けた文書も、私が欠巻を持ち出した理由も」
書記が時刻を書き入れる。
青い綴じ糸の雨帳がほかの原本と同じ証拠箱へ収められ、箱番号はエリナが読み上げ、別の書記が封を結んだ。
◇
夜半前、王都の小法廷には、濡れた外套の匂いが残っていた。
長机の中央へ証拠箱が並び、監察官・住民席・王立文庫の司書が立ち会う中、盗用原本を守るため通常の期日を縮め、公開で著者名を確定する緊急著者審理が始まった。
エリナは証言席の端に座った。乾いた布へ包まれた第一雨帳が目の前にある。青い糸は切られたままだ。直してしまえば、押収時の状態が変わる。
司書が透かし番号を読む。書記が余白符号を照合する。住民席の代表は封印番号と搬入箱の番号を一つずつ聞き返した。
七名の先人について、暫定だった著者名が原本と結ばれ、家名だけだった欄・補助者とされた欄・空白の欄へ、それぞれの名が記された。
住民席の代表が手を挙げる。
「今日ここで直しても、文庫の索引が昔のままなら、次に探す者はまた当主名だけを見ることになります」
司書は机の端に積んだ索引札へ目をやったが、疲れた顔のまま首を横には振らない。
「本館、閲覧室、地方写しの三か所を同じ受理番号で訂正します。古い名義は消さず、訂正日と根拠原本を添えます」
「明日の朝、見に来ても?」
「開館は朝二番鐘です。騒がずに来てください」
「努力します」
小法廷に、ごく短い笑いが起きた。原本を守る仕事は、判決槌だけでは終わらない。エリナは何も付け加えず、三枚の訂正札へ同じ受理番号が記されるのを見届けた。
最後に、エリナの第一雨帳が開かれた。
「著者、エリナ・ヴァルクール。異議は」
トリスタンが立つ。
法廷の全員が彼を見た。かつてなら、その数だけ声を飾っただろう。今夜も姿勢は崩さなかった。
「共同著者との主張は撤回します。雨帳を写し、私の名で提出しました。天冠欠巻は、失効した予備著者印で封を切り、私が持ち出しました」
「指示者は」
「ヴェルク閣下の使者です。復職と引き換えに欠巻を求められた。保管所への搬入も、私が命じた」
監察官が命令書を掲げる。
「この符号を知っていますか」
「移動冠から三つの冠座へ送る起動命令符号だと聞きました」
「起動者がヴェルク宰相本人だと、あなたは確認しましたか」
「本人は見ていない。使者は閣下の命令だと言った」
そこは越えず、ヴェルク本人の関与は、まだ命令書と公印簿を重ねて確かめる必要がある。
「証言は減責を求めて行うものです」
トリスタンは自分から付け加えた。
「私は記録を世に出した。その功績まで無かったことにはされたくない」
傍聴席から、小さく息を吐く音。エリナは彼を説得しない。審理官の記録にも、改心の文字は入らなかった。
判決槌が一度、鳴る。
歴代雨読みとエリナの著者名は、原本に基づく確定記録となった。トリスタンの共同著者主張や複写、欠巻窃盗と搬入命令は、別々の責任として書き留められた。
書記が確定判決書を差し出す傍ら、青い綴じ糸の雨帳は、本人へ返す日まで封印保管となる。
受領欄へ署名しようとした時、法廷の扉が開いた。
「王都水務院から緊急報です」
伝令は息を切らし、命令書の写しを監察官へ渡した。
「三冠座の起動は、明朝の公布前。残りは一日ありません」
紙には、保管所で見つけたものと同じ符号が並んでいた。
エリナは確定判決書を閉じないまま、濡れた裾で立ち上がる。
「王都議会を招集してください。今夜です」




