第67話 弟が残した石
昼を少し過ぎた北の旧堤防道で、石灰の混じる白い泥が、父の時代に閉ざされた通用門へ続いていた。
カイルは先頭の斥候から三歩あけて歩いた。背後にはサーラと六人の追跡隊。泥に沈む長靴の重さより、門の上に残る公爵家の古い紋章が目につく。舌の奥に鉄の味がした。
雨読み学校を襲った者は、観測印も原本も奪えずに逃げた。落とした封蝋はトリスタンの予備著者印と一致している。欠巻と歴代雨帳を移される前に、逃走先を突き止めなければならない。
焦って堤防を崩せば、下流の避難路へ水が出る。追いつくために近道を作り、逃げるはずの人々を閉じ込めるわけにはいかなかった。
「第一班は八名。学校へ残した護衛は十二名。原本保全は別に四名」
副官が答える。最後尾では、学校の防衛で足首を痛めた兵がわずかに遅れていた。
「彼を伝令役へ替えろ。ここから先は、走れる人数に数えるな」
「歩けます」
「見れば分かる。帰りにも同じ足を使う」
兵は悔しそうに口を結んだが、命令札を受け取った。サーラが横から水袋を押しつける。
「伝令は遅い方がいい時もある。見落とした跡を拾えるからね」
「慰めになっていますか、技師長」
「半分ぐらいは」
兵は水袋を受け取ると、腰の乾パンを二つに割り、片方をカイルへ差し出した。
「公爵も昼食がまだでしょう」
「追いついてからにする」
「腹の音は追跡隊の人数に入れますか」
サーラに言われ、乾パンだけは受け取った。噛む暇はなかったが、掌にある重さで昼を過ぎたことを思い出せた。
短いやり取りのあいだにも、斥候は泥の縁へ木札を置いていく。白い粉に、学校北門で採った見本と同じ細かな貝殻が混じっていた。
通用門の鎖は錆びていたが、下の土だけが新しく削れている。人ひとりが身を横にすれば通れる隙間があり、布の切れ端がささくれへ残っていた。
「入ったのは確かだな」
「ええ。けど、帰り道まで同じとは限らないよ」
サーラは門柱へ耳を寄せた。向こうで水が低く擦れる音がする。
カイルは隊を見回した。出口は今いる門が一つ。図面では、内側の保守路は二十歩で行き止まりだ。
「二人を門外へ置く。入った者は十歩ごとに綱へ結び目を作れ。結び目を戻れない者が出たら、追跡を打ち切る」
副官が復唱した。
門をくぐる直前、石の内側から湿った風が頬を撫でた。忘れていたはずの臭いだった。濡れた石灰と、古い油。それだけで、十四年前の鐘が耳の奥に戻ってくる。
足は止まらなかった。ただ、歩幅が半分になったことを、サーラだけが見ていた。
◇
保守路は図面どおり、二十歩で石壁に突き当たった。
逃走者の泥跡もそこで消えている。床には踏み荒らされた白い筋があるのに、壁の向こうから物音はしない。右には水圧で膨らんだ目地、左には苔に覆われた古い切石が並んでいた。
「壁を抜けば先へ出られます」
副官が楔と槌を示した。
「許可を」
返事より早く、石の奥で、ごう、と鈍い音がした。サーラが袖をまくり、目地へ鉄棒を当てる。
「叩けば抜けるよ。壁も、その裏の水もね」
「犯人は抜けたのでしょう」
「犯人が通った道と、あんたが作ろうとしてる穴は別物さ」
逃げる相手には時刻の利がある。このまま迷えば、紙一枚でも燃やすには十分だ。
掌にこもっていた汗が、坑道の冷気ですぐ冷える。昼から持ち続けた乾パンを地図の上へ置くと、父の命令で封じられた区画が隠れた。
「ここで弟を失った」
部下たちの視線が集まる。
「だから急いでいる。急ぎたい者が、堤防を壊す命令を出してはならない。壁は抜かない」
副官は楔を下ろした。眉間のしわは残ったままだ。それでよかった。迷うほど、使える時間は減っていく。
「他の道を探せ。風、水、泥。図面にないものを先に見る」
散った兵の一人が、左の切石を布で拭った。苔の下から、浅い傷が現れる。
「矢印、でしょうか」
子どもの指ほどの長さしかない。石の継ぎ目ごとに一つ、少しずつ上を向いている。
カイルはしゃがみ、次の石の苔を爪で払った。
同じ傷があった。
昔、弟が堤防遊びで刻み、父に叱られた印だと思っていた。あの子は水路番の後ろをついて回り、帰るたび靴を濡らした。何を見たのか尋ねても、「高い方」としか答えなかった。
夕食の席で父が石を汚すなと叱った夜も、弟はパン屑を皿の縁へ並べ、指で高い方へ動かしていた。カイルは意味を聞かず、行儀が悪いと笑った。今になっても、あの時の答えを本人へ確かめることはできない。
「公爵」
サーラの声が、いつもの皮肉を失っている。
矢印を追うと、壁際の石だけが一段高く積まれていた。水が上がった時、足を置ける順番になっている。最後の傷は、左下の細い目地を指していた。
耳を寄せる。水音の裏に、一定の間隔で空気が抜ける音が混じる。
「石灰目地を削ってくれ。槌は使わず、鏝で表面だけだ」
サーラが薄い鏝を差し入れた。白い粉が落ち、指二本ぶんの暗がりから冷たい風が吹いた。板の端が見える。
板を引くと、切石一枚分の低い口が開いた。向こうの床には、逃走者の長靴が残した白い泥が続いている。
「保守排水路だね。堤防の中へ染みた水を逃がす道さ。事故の後、図面から消したらしい」
副官が奥を覗いた。
「弟君は、この入口を知っていたのでしょうか」
「分からない」
答えを急いではならない。弟が最後にどこを選んだのか、残った矢印だけでは決められない。
ただ、矢印は水の流れではなく、人が高い場所へ抜ける順を示していた。
「先行は四人。入口にも四人残す。崩れた時に掘り戻し、綱を引く役だ。退路留めと呼ぶ」
「公爵は」
「先行に入る。指揮を代われる副官は、ここに残れ」
副官が顔を上げる。
「また、ご自分だけを」
「サーラと斥候二人が一緒だ。半刻で戻らなければ、私の返事を待たず入口を閉じ、学校へ報告しろ」
父なら、後ろに残る者を弱いと呼んだだろう。
副官はしばらく黙り、やがて綱の端を自分の胴へ結んだ。
「半刻です。遅れたら引きずり出します」
「許可する」
サーラが先に排水路へ膝をついた。
「あんたたち、家族の話は帰ってからにしな。今は泥の話だよ」
◇
保守排水路は、肩幅より少し広いだけだった。
中へ入ると、外套の留め具が天井をこすった。サーラは振り返りもせず、「公爵用には造ってないね」と言う。
「堤防は身分を測らないらしい」
「今ごろ覚えたなら授業料を取りたいところだ」
サーラが石の隙間へ支え木を噛ませ、斥候が十歩ごとに綱へ結び目を増やす。カイルは最後尾で、前の三人と背後の光を交互に数えた。水はくるぶしまで。流れは外へ向かい、勢いも弱い。
途中に新しい擦り跡があった。木箱の角を引きずり、石灰の皮を剥いでいる。学校から逃げた男の靴跡も重なっていた。
「重い物を奥へ運んだね」
サーラが剥げた面を撫でる。
「雨帳なら、一箱でこの傷になる」
「欠巻だけではないか」
「紙を盗む連中は、紙一枚で満足しないよ」
弟の矢印は、曲がり角のたびに現れた。最初は苔の下、次は腰の高さ、最後は天井近く。水が上がっても見失わない位置へ移っている。
やがて前方から、蝋を焦がした臭いがした。
斥候が拳を上げる。低い通路の先に、鉄扉と小さな明かり窓があった。床には切られた封印紙。扉の脇には、王立文庫の搬入箱が三つ積まれている。
夕方の細い光が明かり窓から差し、箱の番号だけを白く浮かせていた。古いものは角が丸く、新しい一箱には運搬縄の毛羽が残る。誰かが急いで持ち込んだばかりだ。
明かり窓から覗くと、棚に革表紙の雨帳が並び、その中央で六つの丸印を持つ欠巻が開かれていた。
奥で男が怒鳴る。
「私の記録だ。勝手に箱を動かすな!」
声を聞き違えるはずがなかった。
斥候が剣の柄へ手をかける。カイルも一歩出た。扉まで五歩。今なら踏み込める。
だが、紙箱の横には排水弁があった。中の者が開けば、通路の水が保管所へ流れ込む。捕らえても、原本も命令書も読めなくなる。
「剣を抜くな。出口を押さえろ」
「逃げられます」
「逃げ道は二つだ。こちらと、反対側の搬入口。退路留めへ合図して、外からも封鎖させる」
サーラが弁へ続く細管を見た。
「あたしなら外から固定できる。ただし、どの箱が原本かは分からない」
「分かる者を呼ぶ」
伝令札の裏へ、保管所の位置と扉、排水弁、箱数を書いた。最後に、弟石の矢印を三つ写す。感情を説明する文は要らなかった。
「エリナへ。証拠照合者として来てほしいと伝えろ。急がせるな。護衛と記録書記を連れて、同じ排水路を使うように」
斥候が札を受け取り、結び目をたどって戻っていく。
鉄扉の向こうで、今度は別の男が「火を」と言った。
カイルは扉へ背を預け、低い声で告げた。
「保管所の両出口は封鎖した。火を使えば、煙が先にあなた方を塞ぐ。原本から離れろ、トリスタン卿」
返答の代わりに、箱を床へ引きずる音がした。




