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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
名を取り戻す水務監

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第66話 六つの観測印

 朝二番の鐘まで、砂はあと指二本ぶんだった。


 雨読み学校の観測教室で、ニルは青表紙の連絡簿と砂時計を見比べた。窓際には沿岸、古堤防、塩畑、下町など六地点から戻った観測者がいる。年少生たちは奥の机で水位線を写し、焼き上がった給食パンの匂いが廊下から流れてきていた。


 今日は教師が王宮と現場へ出ている。授業交代の鐘を鳴らし、六人の記録を次の当番へ渡すのはニルの役目だ。


 魚の形をした自分の観測印を布で拭う。共同井戸で初めて押した時は朱肉が多すぎて、尾びれが潰れた。今は目を閉じても薄く押せる。


「当番長、砂ばかり見ても減る速さは変わらないよ」


 塩畑担当の少年が笑った。


「一粒ぐらい、僕が止める」


「それ、雨読みより難しくない?」


 返事をしたところで、玄関の呼び鈴が三度鳴った。


 灰色の外套を着た男たちが五人、教室へ入ってくる。胸には王立文庫の紋章。先頭の男が、赤い封蝋の付いた命令紙を机へ置いた。


「緊急検査だ。天冠資料との照合に、六地点の観測印と対応原本が要る。今すぐ、この部屋へ集めろ」


 赤い印は本物に見えた。年少生の少女が、写していた紙を抱えたまま立ち上がる。


 六地点の正規印と、それぞれの原本。なぜまとめて要るのか、ニルには分からない。それでも、外部の命令ひとつで印と原本を同じ部屋へ集めてはいけない規則なら知っていた。


「緊急照会番号をお願いします」


 ニルは命令紙をめくらずに言った。


「王立文庫の封蝋が見えないのか」


「見えます。番号を連絡簿へ写します」


 青表紙を開く。文庫、王宮、水務院から届く緊急命令には、発信元と学校側の連絡簿で同じ番号を持つ決まりだ。今日の欄は白い。


 男の指が命令紙の端を叩いた。


「水務監の許可は取ってある。生徒が遅らせてよいと思うのか」


 先生の許可。


 その言葉を聞いて、奥の机で椅子が鳴った。従った方が安全だと思う子もいる。ニルだって、喉の奥がからからになっていた。間違って本物の命令を止めれば、三冠座の異常を見逃すかもしれない。


「では、先生が確認した番号を復唱してください」


 男は答えなかった。


 代わりに、隣の男が教室の扉を閉めた。


 失敗すれば、印と原本を奪われ、学校の名で偽の観測を正しいものにされる。年少生も、保管場所を吐かせるために残される。


 ニルは連絡簿を閉じた。


「一年生は、裏庭の雨瓶を見てきて。朝の色を書かないと、先生に叱られるよ」


 年少生の列の先頭にいた少女が、顔を上げる。


 雨瓶の色は昨日から変わっていない。それでも少女は頷き、隣の子の袖を引いた。いつもの仕事を頼まれた顔で、裏口へ歩いていく。


 先頭の男が腕を伸ばした。


「動くな」


 指が届く前に、鐘紐を引いた。


 ごん、と一度だけ鳴る。


 授業の始まりなら二度。火事なら続けて三度。その鐘は、六印分散手順の合図だ。正規印、対応原本、保管場所の情報を別々の担当へ分け、一回の襲撃で揃わせないための学校の危機手順だった。


 観測者たちは顔を見合わせなかった。


 沿岸担当は窓側へ、古堤防担当は廊下へ、塩畑担当は階段へ散る。誰がどの原本を持つかは、ニルも知らない。


 先頭の男の顔から、文庫員らしい穏やかさが消えた。


「押さえろ」


◇


 資料室の棚には、押印練習に使う木の訓練印が六つ並んでいた。


 ニルは魚印を胸元の袋へ入れ、訓練印を机の中央へ置いた。その下へ、水位をわざと一刻ずらした練習票を重ねる。正規印は深く、訓練印は縁が浅い。急いで押せば、どちらも赤い形にはなる。


 廊下で木が割れた。


 襲撃者が観測教室の扉を破ったらしい。年少生の靴音が裏庭へ抜けていく。その数を耳で追う。ひとり、ふたり。最後の足音が来ない。


 棚の陰から、押し殺した泣き声がした。


 最年少の少年が、練習帳を抱えて座り込んでいる。裏口へ向かう列から外れたのだ。


「立てる?」


 首が横へ振られた。


「じゃあ、僕の袖をつかんで。走るのは僕がやる」


「ニル兄、印は」


「僕の分だけ持ってる。他の五つは知らない。だから僕を捕まえても一つだよ」


 それなら立てる、と少年は袖を握った。


 資料室の反対側で扉が開く。男たちが訓練印へ飛びつき、命令紙の上へ次々と押した。


「同じ時刻の原本はどこだ。あれがなければ冠座への鍵にならない」


「机の下だ!」


 別の男が練習票を引き抜いた。赤い印が六つ並ぶ。


 ニルは少年と一緒に、裏の水位廊下へ滑り込んだ。


「待て。縁が浅い!」


 気づくのが早かった。


 二人分の足音が資料室に残り、三人が追ってくる。予定では、偽物を持って北門まで出てから分かるはずだった。


 水位廊下には、区画ごとに木の扉がある。浸水時に水を一室へ閉じ込めるための仕切りで、普段は生徒が開閉を練習していた。


 最初の扉を引く。湿気を吸った下端が床へ擦れ、半分で止まった。


「こんな時に」


 少年が両手で押す。


「先生なら、道具を」


「先生はいない。くさびを抜いて」


 床際の木片を外すと、扉が指一本ぶん落ちた。二人で肩を当てる。冷たい水が靴底を抜け、ようやく留め金が入った。


 向こうから体当たりの音がする。


 戦えば、扉の前で捕まる。ニルは次の区画へ走り、銅管を木片で二度叩いた。


 かん、かん。


 敵が西廊下にいるという合図だ。遠くで別の管が、かん、と返り、誰かが北側へ抜けたと分かる。名前も保管場所も告げない。危険の位置だけが校舎を渡っていく。


 給食室の前を通ると、焼き立てのパンが籠から落ちていた。少年が一つ拾いかける。


「あとで。数も確かめるから」


「パンまで?」


「なくなったら、給食番が困る」


 少年が初めて息を漏らした。笑ったのか、泣いただけなのかは分からない。


 背後で留め金が外れる。


 ニルは空の配膳車を廊下へ押し出した。男たちは避けるため足を止める。その隙に少年を裏庭へ通し、自分は別の扉から中庭へ出た。


 鐘楼の下には、まだ誰もいない。


 印を守っただけでは足りない。全員が戻って、年少生にも怪我がなくて、やっと当番を果たせる。


 鐘紐の先が、窓から風に揺れていた。


 鐘を引いたのは自分だ。走る先は、皆が自分で選んだ。


◇


 昼前の中庭で、サーラが人数を三度数えた。


「年少生、全員。六人、全員。怪我は?」


「ありません。走ってつまずきました」


 沿岸担当の少女が言う。


「転んではいません」


「なら足首を見せな。あとから痛むのが一番面倒だ」


 皮肉のない声だった。袖をまくり、自分で水桶を寄せる。


 印と原本は一つの机へ集めなかった。離した机で、担当と別の照合者が一組ずつ開き、符号と時刻を見比べて封じ直す。魚印もその時だけ見せ、対応原本が別の机にあることを確かめた。


 正規印も原本も、欠損はゼロ。


 カイルは到着すると、最初に門の数と残った護衛、疲れて座り込んだ生徒を見た。次に青表紙の連絡簿を開き、空白の照会欄と侵入時刻を確認する。


「水務監の許可は、ありませんでした」


 ニルが言う。


「分かっている。私の言葉だけで記録を直すな。照会の回答が届いた時刻も残してくれ」


 公爵は離れた机を見回した。


「防衛成功は、教師の成果としてまとめるのですか」


 聞く声が少し小さくなった。


「誰が照会した」


「僕です」


「誰が年少生を出した」


「裏庭当番と、みんなです」


「誰が印と原本を運んだ」


 観測者たちがそれぞれ手を上げる。


「ならば、六人の名と担当で記録する。教師は不在だった。その事実も消さない」


 胸元の魚印が、急に重くなった。共同井戸では、公爵家の測定欄より先に自分の印が置かれた。今日は、その印を渡さなかったことが自分の仕事になる。


 北門のそばで、サーラがしゃがんだ。


「公爵。ここを見な」


 逃げた男が落とした赤い封蝋を、未使用の給食布で包んでいる。欠けた縁は、トリスタンが王立文庫で使った予備著者印と同じ形だった。


 石畳には灰白色の泥が点々と残る。サーラは指で触れず、鉄べらで端を返した。


「石灰目地の粉が混じってる。この辺の道じゃない。北の旧堤防だ」


 カイルの手が、手袋の留め具へかかった。


 旧堤防。公開調査で聞いたことがある。少年だった公爵が弟を失い、事故記録の一頁まで消えた場所だ。


「追跡隊を出しますか」


「出す」


 声は低く、短かった。


「ただし、学校の護衛は残す。原本を守る者も動かさない。旧堤防へ行く者は、壊して近道を作る前に、退路を二本決めてから来い」


 サーラが立ち上がり、布包みを証拠箱へ収める。


 確認机は、最後まで一つに寄せられなかった。


 北門の外では、灰白色の足跡が古い堤防道へ続いていた。

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