第65話 盗まれた欠巻
「天冠欠巻を持ち出せるなら、復職は取り次ぎましょう」
王都の旧水務院宿舎。夜一番の鐘が消えた部屋で、トリスタンは冷めた茶を挟み、ヴェルクの使者と向かい合っていた。
礼服の胸元には、水務院章を外した二つの針穴がある。著者名の訂正と渇水税の否決で資格を失ってから、指が何度もそこへ戻った。
公式の天冠史から、中央制御と鍵の頁だけが抜け落ちている。その原本が天冠欠巻だ。王立文庫から持ち出せば、地位を取り戻せる。失敗すれば、今度は論文の名義争いでは済まない。
「取り次ぐ、では困る。水務院への復職と、王国水務監への対抗権限を文書にしていただきたい」
使者は穏やかな顔のまま、茶の膜を銀匙で端へ寄せた。
「成果を拝見した後なら、ヴェルク閣下も適切にお計らいになります」
「私が書庫へ入れるから、こうして来たのでしょう」
「ええ。ですから、まず価値を示していただくのです」
机の隅には、王立文庫から届いた公開協力通知があった。翌朝までに論文の提出経路と水務院の命令を証言すれば、自発協力として審理へ記録する。盗用を認める文ではない。そう書かせることもできるはずだった。
だが、証言卓に立てば、エリナが正しかったと認めることになる。
「あの女は、王国を危険へさらしています」
使者は相槌を打たない。
「祝福を持つミレーユまで拒否を教え込まれた。王国全体を救うには、選べる者が選ばねばならない。記録を集めた者と、使い道を決める者は同じではないでしょう」
「実に現実的です」
ようやく返った言葉に、胸元の針穴から指を離した。
「欠巻は今夜中に。夜明け前、南運河の荷倉へお持ちください」
使者はそこで立ち上がる。復職の文面は机に残らなかった。
代わりに、風が公開協力通知だけをめくる。
◇
王立文庫の裏回廊は、深夜になると古い糊と濡れた石の匂いがした。
トリスタンは水務院時代の外套を着ていた。章はない。だが、夜番書記は見慣れた襟と歩き方へ先に頭を下げた。
「ローヴェル卿。閲覧申請の資格照会が、まだ戻っておりません」
「緊急の原本保全だ。確認を待って欠巻が失われたら、君が責任を負うのか」
声を低くし、同じ言葉をもう一度告げる。夜番書記は内扉の鍵へ手を置いたまま動かなかった。
「著者訂正後の資格は、すべて再確認するようにと」
「私は訂正前の登録者だ。原本の場所も、封印の癖も知っている」
外套の内側から予備著者印を出した。論文の訂正前原本を確かめるため、登録者へ預けられていた旧式の書庫印だ。今は失効している。それでも古い錠前の窪みは、欠けた縁まで覚えていた。
乾いた音がして、内扉が開く。
夜番書記が息を吸うより先に中へ入り、扉を戻した。
資料庫の棚番号は途中で一つ飛んでいた。第八列、事故年の水利記録、返却欄のない隙間。かつてエリナの報告書を自著として登録した時も、下書きと正本の置き場を知っている者が先に名を取った。
棚の奥には、六つの丸印を押した革表紙が眠っている。
封印紙へ刃を当てた時、胸の内ポケットで紙が擦れた。公開協力通知だ。これを夜番へ渡せば、まだ正規の聴取に変えられる。
明朝、エリナと同じ記録の前で、自分のしたことを答える。
刃を引いた。
封印紙の繊維が毛羽立ち、予備著者印の赤い蝋が一片、棚板へ落ちた。
欠巻の中央には、六つの円を線で結んだ図がある。異なる六地点の正規観測印と、それぞれの原本に残る同じ時刻。その一組を鍵信号へ変え、祝福保持者を使わず冠座を動かす――六印代替鍵の手順だった。
「やはり、代わりはある」
誰もいない棚へ囁いた。
革表紙を外套へ滑らせる。公開協力通知は取り出さなかった。
回廊へ戻ると、夜番書記が立っていた。
「中で、封印の切れる音がしました」
「劣化した紙が落ちただけだ。明朝、私の名で修理を申請する」
「資格照会が通れば、ですね」
返事をせず通り過ぎた。以前なら、それだけで誰もが黙る。
背後で、夜番書記が時刻板を引き寄せる音がした。
◇
南運河の荷倉には、夜明け前の魚油の匂いがこもっていた。
荷縄の束の前で、使者は手袋をはめて欠巻を受け取った。傷んだ封印紙より、六つの円を見た時だけ指の動きが速くなる。
「これで、復職状を」
差し出された仮紙は、切り口が荒かった。
水務院への復職を上申し、働きに応じて相当の地位を考慮する。決裁者の署名欄は白く、トリスタンの名が入るべき箇所には「協力者」とだけある。
「私の名がない」
「正式な名簿へ入れるのは、計画が成功した後です」
「話が違う。欠巻は私が――」
「ええ。確かに受領しました」
使者は仮紙を押し戻し、別の机へ移った。
そこには雨読み学校の交代表と、六枚の観測者名簿が広げられていた。魚の印を持つ少年。沿岸と古堤防、王都と塩畑、それに下町。異なる地点の正規印を持つ六人へ、黒い点が置かれていく。
「待て。学校の印は、生徒が持っている」
「存じています。年長者の緊急検査には従うでしょう」
「傷つける必要はない。印だけを借りればよい」
使者は返事をせず、授業交代の欄へ線を引いた。六人と原本が一度だけ同じ校舎へ戻る、朝二番鐘の直前。
欠巻へ手を伸ばせば、まだ届いた。
トリスタンは仮紙を折り、内ポケットの公開協力通知へ重ねた。
「私の復職は、ヴェルク閣下へ必ず」
「結果が出ましたら」
荷倉の戸が開き、襲撃役の男たちが名簿を受け取る。朝の薄い光が床の濡れた縄へ伸びた。
「授業交代の鐘で入れ。六つの印と、同じ時刻の原本を一つの部屋へ集めろ」
男たちが運河沿いへ散っていく。
襟元の二つの針穴へ、夜明け前の冷気が触れていた。




