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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
名を取り戻す水務監

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第64話 鍵にならない

 王宮客室の窓は、朝の光だけを通して、風を通さなかった。


 晴れた空は淡い青で、雲は一枚もない。昨日までなら、きれい、と声に出していた色だ。けれど今朝のミレーユには、鍵の掛かった硝子箱の蓋に見えた。


 白い帯を巻いた手首には、薬草糊の匂いが残っている。長椅子の向かいにはエリナ、扉の前には護衛書記。卓上には、昨夜の安全評議で渡された護送書が開かれていた。


 三冠座を同じ刻に動かす鍵として、晴れの祝福を持つ人間が利用されるかもしれない。だから王宮はミレーユを守るという。今朝中に返事をしなければ、昼の王命で護送されることになっていた。


 守られなければ、ヴェルクに狙われる。署名すれば、今度は王宮が祝福も面会相手も行き先も決める。


「祝福の使用停止は必要です」


 エリナは護送書の一行を指した。


「ですが、期間と解除条件がありません。外部面会も、王宮の許可だけで止められる文面です」


「では、そこを書き足せばよろしいのでしょう?」


 明るく言ってしまってから、早すぎた、と気づいた。怖い時ほど声を弾ませる。皆が困らない答えを先に出す。ずっと、それで拍手をもらってきた。


 護衛書記が新しい用紙を開き、名義欄へ筆先を置いた。


「修正案は、水務監殿のお名前でよろしいですか」


 姉の名で出せば、誰も死なない線を引ける。自分は、その下へ名前を書くだけでいい。


 そう思った途端、袖口の薬草の匂いが濃くなった。儀式の後、医師が何度も巻き直した帯だ。あの時も、次は一度だけです、と他人が決めた。


「私の名でお願いします」


 護衛書記の筆が止まった。


「お姉様、問題のあるところは全部教えてください。でも、直す文は私が決めます」


 エリナは護送書の上へ指を戻した。


「分かりました」


 それだけだった。褒めもしなければ、代わりに安心もしない。


 ミレーユは護送書を自分の側へ引いた。片面にだけ王印の金粉が付いている。


「昨日までの祝福記録と、ヴェルク様から届いた儀式要求を用意してください。医師の使用停止記録も」


「公開安全評議へ、すべて持ち込まれますか」


「はい。私が使った回数は、私が話します」


 護送書を折ると、王印が内側へ隠れた。


「席札も、私の名で。水務監の隣ではなく、証言卓へお願いします」


◇


 正午の公開安全評議は、王宮の大窓から差す光で、傍聴席の埃まで金色に見えた。


 半円の中央に王、その左右に議員と水務院の官吏。住民席は正面にあり、ミレーユは証言卓へ一人で立った。エリナは三歩後ろの記録席にいる。今ここに来たのは、三冠座の鍵に利用される危険を隠さず、それでも身柄まで渡さないためだ。


 失敗すれば、ヴェルクの儀式から守られたまま、王宮の望む晴れに使われる。


「晴れの祝福を、同じ日に四度使ったことがあります」


 声が広い天井へ上がった。


「公的な儀式簿には二度と書かれました。三度目から指が震え、四度目の後は立てませんでした。別の日には、私が祝福を使っていないのに、保管箱の儀式印だけが熱を持ちました」


 書記の筆が紙を擦る。


「ヴェルク様からは、治療を受けたければ次の天冠儀式へ出るよう求められました。私は断りました。今日も断ります」


 封印袋から四枚の使用票を出した。最初の二枚には正式な番号があり、残る二枚には医師の走り書きしかない。四度目の欄には、晴天祭の黄色い飾り紐が挟まっていた。壇上で笑っていた自分の袖と同じ色だ。


「消したのは私ではありません。でも、二度と書かれた発表の隣で、私は笑いました。本当の回数を言えば、皆さまをがっかりさせると思ったからです」


 認めた途端、傍聴席の顔が一斉にはっきり見えた。怒る者、眉を寄せる者、気の毒そうに見る者。どの視線も、拍手よりずっと重い。


「ですから、危険がないとは申しません。私が都合よく黙ったことも、記録してください」


 傍聴席から拍手は起きなかった。


 昔の自分なら、ここで笑っていた。重くなった空気を晴らすのが、自分の役目だと思っていたから。


「危険がそれほど明らかなら、なおさら護送が必要でしょう」


 列の端の議員が護送書を持ち上げた。


「王国全体の安全のためです。あなた一人に我慢していただく」


「その書面には、いつまで我慢するのか書かれておりません」


「危険が去るまでです」


「誰が、何を見て、去ったと決めますか」


 議員の目が、ミレーユを越えてエリナへ向く。


「水務監殿から、鍵媒体の危険を説明してもらおう」


 姉の方を見たくなった。正しい順番を、いつも通り教えてほしい。


 代わりに、布袋から三重環の儀式印を取り出した。乾いた金属が卓へ触れ、護送書の王印を半分隠した。


「説明は、記録にある範囲でお姉様がなさいます。ですが、この護送書への回答は私がいたします」


 手首の白い帯が見えた。隠さず、袖を戻さない。


「私は祝福を持っています。でも、祝福が私を所有しているわけではありません。天冠の鍵にはなりません。王宮の鍵にもなりません」


 筆音が一度止まり、また動き出した。


「危険を軽く考えているのか」


「いいえ。朝と夕方に所在と体調を連絡します。検査は、儀式印と魔力熱に関係する項目へ限って協力します。移動時の護衛と同席者は、提示された候補から私が選びます」


「それでは、本人が嫌だと言えば検査も止まる」


「止まります」


 今度は声が弾まなかった。


「使用中止権を入れてください。儀式でも検査でも、祝福者本人が止めると言った時は、理由の説明を待たずに止める権利です。拒否した項目と理由は後から記録できます。先に身体を使うことはできません」


「王国の安全を、十九歳の気分へ預けるのか」


 議員は納得しないまま言った。


「私の気分へは預けません。定時連絡と医師の検査と、同行する護衛へ分けます。私の身体を使うかどうかは、私が決めます」


 護衛書記が、解除条件を尋ねた。


「鍵信号の監視結果と、医師の診断を三日ごとに公開してください。危険が続くなら、対策を延ばす理由も残します。『まだ危ないから』の一言だけで、終わりの日を消さないでください」


 自分の口から出たのに、少し姉に似た言い方だと思った。以前なら恥ずかしくて笑っただろう。今日は言い直さない。


 住民席の老女が、膝の上の帽子を握り直した。その目は、ミレーユから離れない。


 王が護送書を受け取った。


「鍵にされる危険と、鍵を使った責任は分けるべきだ。だが、連絡を絶ってよいという意味ではない」


「はい。絶ちません。選びます」


 書記たちは別の紙を広げた。


 祝福保持者を守る時、本人の同意なしに鍵へ指定せず、移送も使用もしない。検査範囲を事前に示し、本人が同行者を選び、いつでも使用を止められる。


 新しい命令は「祝福者保護命令」と名付けられた。祝福を持つ者の安全を守りながら、身柄や力の所有を禁じる王命だ。


 王が署名し、印を押す。


 議員は最後まで口を結んでいた。ミレーユも笑わなかった。


「古い護送書も残してください」


 書記へ頼んだ。


「私が断った文書として、私の名を付けて」


◇


 夕刻、王立文庫前の廊下には、色硝子を通った青い光が細長く落ちていた。


 ミレーユは護衛候補の名札を三枚見比べた。祝福紋より先に避難口の位置を尋ねた女兵を一人選び、医師付きの護衛も加えた。選択同行――移動時の護衛と同席者を本人が候補から選ぶ手続は、王宮を出る最初の一歩から使える。


「私は、このお二人にします」


 エリナは名札を確かめ、隣へ並んだ。


 文庫の扉から書記が駆けてきた。抱えた申請書の印泥が、まだ赤く湿っている。


「水務監殿、ヴァルクール嬢。失効資格による閲覧申請が見つかりました」


 差し出された紙の資格欄には、旧水務院の印。著者訂正で無効になったはずのものだ。


 申請者の名を見て、口の中に薬草の苦みが戻った。


 トリスタン・ローヴェル。


 その下、閲覧対象の欄に「天冠欠巻」とあった。

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