第80話 故郷に水が戻る
「城下の噴水を、先に戻していただきたい」
朝の光がまだ古水門の細い窓へ届かないうちから、城下代表は同じ願いを三度口にした。操作卓の正面にエリナと若い技師、乾燥鍵側にミレーユ、逃がし弁の前にサーラが立ち、白線の外ではカイルが領民代表を受け止めている。夜明け前から石床に立ち続けた膝の裏は、曲げるたびにぎこちなかった。
昨日、姉妹は二重作動錠を一段だけ開き、地下河の一部を旧河道へ戻した。今日は城下、下流村、避難所の井戸を順に満たし、本門を安全な開度まで進める。急げば乾ききった下流河床が水を受けきれず、高道へ避難した人々の家を今度は下から浸す。遅れれば、煮炊きの水も畑の苗も持たない日が延びる。
操作卓には段階放流表が広げられていた。城下と下流村、避難所の受容量と停止水位が並ぶ。報告が届くたび、開門幅を示す青い陶片を一つ先へ進める。
「噴水が出れば、皆が復旧を信じられます」
「下流の生活井戸が先です」
エリナは表の最上段を指した。下流西井戸。停止水位の欄だけが、太い鉛筆で二重に囲まれている。
「城下を先に満たすと、古い配水路が水を取ります。下流へ届く頃には、開けすぎたかどうか分かりません」
「では、いつまで待てば」
問いに答えたのは、通信台の鐘だった。
二打。避難所の河床、受入れ可能。
少し遅れて一打。城下の共同井戸、変化なし。
下流からは来ない。
天冠管が低く唸るたび、観測盤の針がわずかに揺れた。第三冠座の信号は、全開作業の間にも山へ近づいている。空欄のまま輪を回せば、また声の大きな場所から水を取ることになる。
カイルが城下代表へ椅子を勧めた。
「待たせている責任は私が負う。水門の順は変えない」
「公爵閣下まで、城下を後にすると?」
「先に必要なのは、見せる水より使う水だ。噴水の掃除なら、私も手を出せるが」
乾いた冗談は、誰にも届かない。カイルは気にした様子もなく、白線の外に残る人数を数え直した。
やがて、遠い鐘が三打続いた。
「下流西井戸、受入れ可能。河床の崩れなし」
若い技師が読み上げ、最初の陶片を一つ動かした。
「第一段、開けます」
ミレーユが第一層だけへ光を置く。エリナは水位輪を半目盛り回し、サーラが逃がし弁の音を聞いた。
旧河道の奥から、水が石を擦る音が近づいてくる。
青い陶片は、まだ一つ目の枠にあった。
◇
午前の下流村では、井戸端に伏せた甕が列を作っていた。
水が戻っても、濁りが抜けるまでは飲めない。住民は知っている。だから甕を洗わず、布もかけず、乾いたまま待っていた。エリナは井戸の脇に置かれた写しの段階放流表と、若い技師が持ってきた本表を見比べる。二枚の時刻はそろっていた。
桶を落とす。
底で、木が石を打った。
「まだです」
井戸番が縄を引き上げた。子どもがのぞき込もうとし、母親に襟をつかまれる。
第二段の水は、畑の共同井戸へ回した。避難所からは受容量の半分。城下からは中央井戸に湿りが出たとの報告。噴水前に集まった人々が増えているとも添えられていた。
「西井戸、上がり方が速い」
住民観測班の女が、目盛り棒を抱えて走ってきた。
若い技師が表へ身を寄せる。
「予測より四分早い。河床の途中で塞がっているかもしれません」
「止めますか」
エリナが尋ねると、周囲の視線が若い技師へ集まった。
口が開き、すぐ閉じた。ここで止めれば城下から遅れを責められ、続ければあふれた井戸の責任を下流へ負う。
水位棒の濡れた線へ、目を戻した。
「第二段、停止。西の迂回溝を開けます。井戸番は二目盛り下がるまで再開しないでください」
通信係が鐘を打つ。
エリナは水門へ戻す命令を書かなかった。
「水務監殿。これでよいですか」
「判断した根拠を、本表にも書いてください」
若い技師は鉛筆を握り直した。予測より四分早い。西井戸二目盛り待機。迂回溝へ分流。
それで、欄は埋まった。
サーラの班が、草に埋もれた迂回溝の板を外す。濁った最初の水が浅い溝へ逃げ、村外れの沈砂池へ流れ込んだ。待っていた子どもたちは水を追いかけたが、母親たちに呼び戻される。今日は流れを追いかけ、飲める札を待つ日だ。
昼を過ぎて、井戸番が次の桶を落とした。
今度は石を打つ音がしなかった。
縄の向こうで、鈍い水音が一つ返る。
誰かが歓声を上げるより先に、井戸番は桶を引き上げ、濁りを白い皿へ移した。若い技師が匂いを確かめ、住民観測班が時刻を書く。飲用の札はまだ裏返さない。
それでも、伏せてあった甕が一つずつ起こされた。
避難所の共同井戸、下流西井戸、畑の井戸。報告が重なるたび、陶片が進む。午後の終わり、城下の中央井戸にも水が届いた。最後に噴水へ回す幅を開けた時には、広場にいた者の半分が下流へ水桶を運びに出ていた。
乾いた水路の向こうで、細い水柱が上がる。
拍手より先に、若い技師の鉛筆が段階放流表へ最後の線を引いた。
◇
夕刻の公開評議場には、水を運び終えた桶が壁際へ並んでいた。
評議卓の端では夕食用のパンが冷め、中央には現地主任引継書が開かれている。その一枚で、予算と原記録から停止権、住民席、代行順位までを次の責任者へ渡す。
「残っていただけませんか」
領民代表が言った。
「この領地には、あなたが必要です」
続いた声は一つではなかった。雨読みのエリナ。水務監殿。昔の呼び名を使う者はいない。
父ローランは、空いている主任席の脇に立っていた。
「私からも頼む。お前が戻るなら、以前のような扱いは二度と――」
「故郷を救うために戻りました。住む場所は、別に決めます」
表の鉛筆跡へ目を落とした。何度も消して薄くなった停止水位、若い技師が書いた四分のずれ、住民観測班の印。自分が書いていない行の方が、今日だけで増えている。
段階放流表を引継書の後ろへ綴じた。
「次から、この土地の水を判断するのは、ここで記録を続ける人たちです」
若い技師が、署名欄の前で動かなかった。
「第三冠座を追われたあとも、最終の承認をいただけますか」
「必要ありません。承認を残せば、私がいない夜に待つことになります」
「ですが、外した時は」
井戸端で書いた鉛筆の線を指した。
「今日、止めた理由が残っています。次に外した時も、隠さず残してください」
若い技師は住民席へ書面を向けた。観測班の二人が読み、代行順位の横へ追記を入れる。夜番が欠けた場合、井戸番が停止鐘を打てること。その一行を加えてから、三者が署名した。
「現地主任として、今夜は第三段で保持します。下流西井戸は朝の濁り検査まで飲用停止。噴水は夜鐘で止めます」
言い切った声に、評議場のざわめきが少し遅れて静まっていく。
エリナは主任席から一歩離れた。
父が、低く言った。
「謝って済むとは思っていない」
「はい」
「それでも、帰ってきてほしい」
返事を急ぐ代わりに、引継書の閉じ目を若い技師へ向けた。
「謝罪は受け取りました。私の住む場所は、私が決めます」
カイルが戸口で外套を持ち上げた。
「出発は今夜か」
「第三冠座の信号を見てからです」
「では、荷馬は二頭だけ用意する。故郷へ残る席まで積むと、山道で邪魔になる」
今度は、パン籠を抱えた住民が小さく笑った。
冷めた丸パンを一つ受け取り、半分を若い主任へ渡す。仕事の話は、そこで終えた。
◇
夜の観測盤には、復旧した井戸から運ばれた最初の水差しが置かれていた。
水面はまだ薄く濁っている。ミレーユは祝福を使わず灯りを近づけ、サーラは三地域の水位報告を一枚ずつ盤の下へ差し込んだ。カイルは登山路の古地図を広げる。
第三冠座線の針が、固定座の印を越えた。
金属が鳴り、針先は山路図の最初の等高線へかかる。
「移動しています」
「ヴェルクが冠を運んでいるのかい」
サーラの問いに、エリナはすぐ答えなかった。戻った水圧と針の脈は合っている。けれど、山上で止めたあと、奪われていた水がどこへ落ちるかは、今の観測だけでは読めない。
「歴代の雨帳を、年代順に集めてください。王都、沿岸、旧堤防の写しも」
ミレーユが光を伏せる。
「私は冠座の使用年を拾います」
「サーラさんは三地域の放流担当へ受容量の再確認を。カイル閣下、登山隊には破壊命令を出さないでください」
「理由がそろうまで、接近と退路確保に限る」
役割が決まる間にも、針は次の等高線へ近づいていた。
観測室の外では、復旧した井戸の水を運ぶ荷車が石畳を通っていく。祝う声は遠く、今夜の当番鐘の方が近い。
夜番が扉を開く。
エリナは百年分の雨帳を置く机を指示し、山路図を抱えて階段を上がった。背後で、観測針がまた一目盛り鳴った。




