第61話 王国水務監
任命状には、終わりの日がなかった。
王都冠座を止めた翌朝。王宮の小評議室には、王と水務院書記、カイルが待っていた。東窓の光はまだ白く、卓の脚には昨夜の救護兵が残した泥が乾いている。
エリナは湯気の薄い茶へ手を添え、正面の紙を読み直した。領境を越える配水と避難の勧告権、各地の観測記録を集める権限。王国水務監――昨日の逆流を止めた功績を、王国全体の職務へ変えるための新しい役目だ。
署名一つで、水を守れる場所は増える。紙にないのは任期と代理者だ。休めば国の判断が止まり、間違えてもエリナを止める手続がない。
「望む権限があれば、加えよう」
王は金の留め紐を指で押さえた。
「昨日、王宮の防衛規則より先に下町を救った。その者を、古い水務院の席順へ縛るつもりはない。終身任用とする。政争で職を奪われる心配もなくなる」
罠を仕掛ける声ではなかった。正しく報いようとしている。だからこそ、紙の空白は見過ごせなかった。
「私が判断を誤った時は、誰が止めますか」
書記の羽根ペンが止まった。
「王命で正す」
「では、王の判断が誤っていた時は」
窓辺にいたカイルは口を挟まなかった。包帯を巻いた手で茶器を持ち上げ、酸味のある干し杏を一つかじる。昨日までなら、こんな時に食べ物の味を気にする余裕はなかった。
王はすぐには答えなかった。
「私へも同じ問いを返すか」
「はい。水は、命じた方の身分を見て流れを変えてはくれません」
金の留め紐をほどく。署名欄まで広げた紙を閉じず、王の側へ戻した。
「決めた根拠を公開してください。影響を受ける住民が資料を読み、異議を残せる席を置いてください。任期と査定を決め、私を罷免する時も理由と証拠を記録する。反対意見と、不服を申し立てる道も消さないでください」
「緊急時に、その全員の許可を待つのか」
「待ちません。判断した者の名と理由を残し、後から確かめられるようにします」
言葉を置くたび、好条件が遠ざかる気がした。家にいた頃なら、与えられた役目へ条件を返すことなど考えなかった。役に立つ機会は、断った瞬間に妹へ移るものだった。
雨帳の角を揃えかけて、手を止める。今ここにあるのは、誰かの机から借りた仕事ではない。
「それから、代理者へ同じ権限を渡せるようにしてください。私が休息に入ったら、緊急連絡を受けるかどうかも代理者が決める。本人が倒れるまで続く役職には、就けません」
王は開いた任命状を見た。金の紐だけが、卓の上で細く曲がっている。
「そこまで自分を疑いながら、国の水を預かると言うのだな」
「私も間違えます。その記録を残せるなら、お引き受けしたいです」
しばらくして、王は書記へ顔を向けた。
「午後の水務評議を公開にせよ。この案を、閉じる前に読み直す」
カイルがそこで初めて口を開いた。
「評議場と、審議が夜まで延びた時の代行者は私が確保します。条件への返答は、エリナ本人へ」
◇
午後の公開水務評議には、金の椅子に混じって一脚だけ、脚の粗い木椅子が置かれていた。
下町南区から来た住民代表が座るためのものだ。昨夜の泥が脚の裏に残り、磨かれた床へ小さな跡をつけている。王宮の係が敷物を差し込もうとすると、サーラが椅子を持ち上げた。
「跡が困るなら、終わってから拭きな。今は座る方が先だよ」
住民代表が腰を下ろす。膝には、避難者を一人ずつ数えた濡れ跡つきの帳面があった。
「住民席へ資料閲覧権を与えれば、緊急放流のたびに議論が始まる」
列の端にいた議員が、修正案を卓へ戻した。
「水は評議を待たない。判断者は一人でよい」
「昨日、その判断者が地下へ入りました」
エリナは下町救助の記録を開いた。地上指揮はサーラと防衛隊副官へ渡り、二人の返事を待たず避難と水防が続いた。少し前には、熱で倒れた主任を起こさず、学校の六人が原記録から避難を完了している。
「住民席は、放流輪へ手を重ねる席ではありません。影響を受ける側が資料を読み、異議と不足を記録へ残す席です。緊急命令は責任者が出します。その後、誰を守り、誰へ負担を置いたかを消せないようにします」
「記録のために人を増やすのか」
別の議員が問う。
木椅子の住民代表が帳面を掲げた。
「昨日は、この帳面があったから、最後の一世帯を探せたよ。あたしたちは遅れじゃない。数えられる側の人数を知ってる」
返事は、エリナの予想より短かった。説明を足すより、その帳面を全員が見る時間を置く。
王が修正案の行を指で追った。
「任期は区切り、満了前に公開査定を行う。再任も同じ手続を通す。罷免には理由、証拠、反対意見を付す。ここまではよい」
「代理者の権限を本人と同じにするのは広すぎます」
水務院の官吏が言った。
「代理が間違えば、誰が責任を負うのです」
「本人が間違えた時と同じです」
紙の一番下へ、エリナは指を置いた。
「名と根拠を残し、査定します。私が寝台から出るまで国中が待つ方が、危険です」
サーラが腕を組む。
「立派な肩書を作っても、本人が倒れりゃ水は待たないよ。代わりを半人前にするくらいなら、最初から置かない方がましだ」
「技師長、言い方を」
「水務院の紙が乾いてるうちに言ってるだけさ」
傍聴席から小さく笑いが起きた。張りつめていた肩が、ほんの少し下がる。
王は最後の欄へ署名した。
「王もまた、公開理由なく水務監の判断を覆せない。水務監も、記録を伏せて王命を退けられない。双方を同じ台帳へ置く」
木椅子の前へ、任命状の写しが運ばれた。住民代表は帳面を膝から下ろし、最初の頁へ目を落とす。
金の留め紐は、まだ結ばれなかった。
◇
夕刻、王宮前の任命壇へ西日が差していた。
下町の壁には泥の線が残り、庭園の花壇は半分が流されたままだ。それでも広場には住民と技師、学校の六人、水務院の書記たちが集まっている。任命壇の脇には、あの木椅子が置かれていた。
「ヴァルクール侯爵家の長女、エリナ・ヴァルクールへ――」
呼び上げ役の声に、足が一度止まる。
「失礼いたします」
壇上で王へ向き直った。
「宣誓名は、雨読みのエリナとして記録してください」
ざわめきが広がり、やがて静まる。
王がうなずいた。
「雨読みのエリナ。王国水務監として、何を誓う」
「領境を越える水と避難を、人の名と暮らしが見える記録から判断します。私の根拠も誤りも公開し、異議を消しません。私が働けない時は代理者へ権限を渡し、一人の身体へ王国の水務を預けません」
本人名義で署名する。その下へ住民代表の粗い指が印を押し、技師代表が工具印を添えた。最後に王の印が並ぶ。
金の留め紐が、三者の頁を一つにまとめた。
拍手は、昔の祝祭より不揃いだった。学校の六人が先に手を鳴らし、下町から来た人々が続き、少し遅れて議員たちの音が重なる。
カイルは壇の下にいた。目が合うと、祝辞はなく、軽く首を傾ける。昨日約束した無役日は、今日にはならなかったらしい。けれど、決めたのは自分だった。
書記が新しい台帳を抱えて駆けてくる。任命の報告かと思ったが、差し出された紙からは乾いた土の粉が落ちた。
「長期干ばつの予報です。王宮補給局から、先に決裁を求める案も届いております」
新しい台帳の最初の頁へ、その紙が重ねられる。
首都の飲料水、三十日分を最優先で確保する。地方の灌漑は、ただちに停止。
任命状の金の留め紐が、夕日の中で静かに光っていた。




