第60話 必要だからではなく
信号索の最初の結び目が、エリナの手の中を滑った。
日没直後、王都冠座の地下制御路には、壁へ掛けた二つの灯りと、カイルの持つ携帯灯しか残っていない。背後の防水扉は第二圧力波で閉じ、濡れた石段の下から水が上がっていた。発熱から戻った身体には、冷気さえ重い。
先ほどの避難で、下町の人々は高台へ移せた。それでも、冠座を止める順を誤れば、逆流水は南水門を破り、逃げたばかりの人々を別の場所で呑む。吸水管、均圧管、放流管を、水位の返事ごとに一つずつ閉じなければならない。
「地上の水位が、また上がりました」
濡れた索を握り直す。結び目の位置で地上の水位を伝える信号索は、防水扉の細い穴を通ってサーラたちのいる水門へ続いている。
カイルが三本の銅管を見上げた。
「最初はどれだ」
「左の吸水管です。ただし、今は回さないでください」
管の表面へ指を近づける。触れなくても、細かな震えが爪の先へ来た。中央の均圧管は低く唸り、右の放流管からは、石灰と古い油の匂いが漏れている。
「吸水を四分の一閉じます。その後、信号索が一つ下がるまで待ちます。先に均圧を閉じると、堀へ押し戻します」
「停止命令を送る」
カイルが索を決めた回数だけ引いた。扉の向こうで、遠い鐘が返る。
吸水管の手動輪へ移る。両手で抱えるほど大きな輪は、縁へ白い錆を噴いていた。カイルが手袋を外し、最初の柄を握る。
「待ってください。固着しています」
「二人で触れる場所が狭い。私が緩める」
肩へ力が入る。輪は動かず、錆だけがぱらぱらと落ちた。握った掌の古い傷へ、赤い線が浮く。
「カイル閣下」
「まだ回していない」
「だから止めています」
敬語が一段、よそ行きになる。輪の下を見ると、保守用の細い溝が切られていた。壁際の工具掛けには、先端の平たい鉄棒が一本ある。
「梃子を使います。私は管の震えを見ます。合図したところで、二人で押してください」
鉄棒を溝へ差し込む。カイルは反対側へ立ち、エリナの手の位置を見た。
「右手は持つだけです。力を入れるのは左で」
「君も同じだ。熱が戻ったら、輪を捨てる」
「はい」
管の震えが一度、細くなる。
「今です」
二人で押した。鉄棒がしなり、錆の下から重い音が返った。
輪が、指一本ぶん動く。
もう一度。
今度は銅管の内側で、水の走る音が短く途切れた。エリナは鉄棒を離し、信号索へ戻る。
「待ちます」
地上の水位が下がるまでは待つしかない。先に次を閉じれば、見えない場所へ同じ力を押しつけるだけだ。
石段の最下段が水へ消えた。次の段へ、薄い波が届く。
信号索は動かない。
「地上は」
「まだ返事がありません」
索へ耳を寄せる。向こうで誰かが引けば、麻の繊維を伝って小さな擦れが来るはずだった。何もない。
均圧管の唸りだけが、さっきより低い。
カイルが携帯灯を扉へ向けた。
「索が切れた可能性は」
「張りはあります。切れてはいません」
床へしゃがむ。索は扉穴の手前でわずかに横へ引かれていた。閉じた時に剥がれた防水材が、麻へ絡んでいる。
「水位の返事が来ないのではなく、ここで止まっています」
小刀の背で黒い防水材を少しずつ外す。刃を立てれば索まで傷つける。カイルは灯りを下げ、影が手元へ落ちない角度で止めた。
最後の一片が剥がれる。
索が掌の中を走り、次の結び目で止まった。
「一段、下がりました」
「続けられるか」
「はい。均圧管へ」
二つ目の輪は、最初より軽かった。カイルが輪を回し、エリナは管へ触れて水の戻りを待つ。半分閉じたところで、南水門からの鐘が短く鳴った。
堀の逆流停止。
声を出す代わりに、冷たい石壁へ額をつけそうになった。まだ一つ残っている。
放流管を閉じれば、冠座の中に残った水は制御路へ吐き出される。二人の退路はさらに狭くなる。
「地上へ最後の停止命令を」
「撤退合図も同時に送る」
索が引かれ、鐘が返る。エリナは放流管の細い振動を数えた。
「三つ目で閉じます。一つ。二つ――今」
手動輪が回った。
足元の格子が跳ね、白く濁った水が噴き上がる。石灰と古い油の匂いが一気に濃くなった。カイルが鉄棒を抜き、二人で上の足場へ退く。
水は石段を呑み、防水扉の半分まで上がった。
冠座の鼓動が、止まる。
静けさのあと、信号索が震えた。
最初は一打。次に、少し長い打音が続く。避難者名簿の照合を終えた時に鳴らすと、サーラが決めた連続鐘だった。
死者なし。行方不明者なし。
濡れた索を握ったまま、エリナはその音が終わるまで数えなかった。
◇
夜の水門上には、救援を待つ二人しかいなかった。
制御路は水に塞がれ、地上へ上がる梯子も途中から外れている。低い天井の隙間を通る風が、濡れた袖から体温を奪っていった。カイルは外套の乾いた側を石床へ敷き、エリナを座らせると、自分は手動輪の支柱へ背を預けた。
掌の赤い線へ、雨帳を包んでいた予備の布を巻く。
「強くありませんか」
「もう少し締めてもいい」
結び目を一つ詰めた。仕事が終われば、手の傷はただの傷になる。報告欄には残す。それでも、今すぐ誰かを動かす数字にはならない。
エリナは雨帳を開きかけた。
吸水停止の時刻。均圧管の音。放流開始から冠座停止まで。書くべきことは、いくらでも浮かぶ。
けれど、信号索の向こうにはニルと記録係がいる。地上で同じ鐘を聞き、別の時計で時刻を残しているはずだ。
雨帳の留め具を戻した。
「書かないのか」
「今は、地上班の仕事です」
「そうか」
カイルは褒めなかった。代わりに、外套の端が水へ触れないよう少し引き寄せた。
救援の槌音はまだ遠い。何も決める必要のない沈黙に、管から落ちる雫だけが混じる。
「見舞いの日から、話したいことがあった」
酸実糖だけを持って、書類のない鞄を開いた午後。捨てられるのが怖いと口にしても、答えを急がせなかった人がいた。
「なぜ、あの日に言わなかったのですか」
「君が審理へ戻る前だったからだ。私の言葉で、行くか休むかの判断を縛りたくなかった」
カイルは巻かれた掌を膝へ置いた。
「今日も同じだ。冠座が動いている間に伝えれば、君は私への返事まで作業の一つにしただろう」
否定できない。報告の次に返答期限を書き、その前に必要な根拠を尋ねたと思う。
「エリナ」
いつもの呼び方なのに、水音のなくなった場所では近かった。
「必要だからではない。君が何も読まない日にも、隣にいてほしい」
すぐに返事をすれば、感謝を受け取る言葉になる。それは違う気がした。
怖さは消えていない。役に立てない日が続いたら。仕事を断って、相手の期待から外れたら。今夜の言葉が、いつか別の意味に変わったら。
雨帳の角へ伸びかけた指を、膝の上へ戻した。
「無役日を作りたいです。予報も待機もない日を」
「うん」
「断った時、理由を出せないこともあります。それを、説得の時間にしないでください」
「分かった」
「それから」
布を巻いた掌を見る。
「どちらかが危険な場所へ行く時は、相談してください。守るためでも、黙って犠牲にならないこと。私にも同じ条件を求めてください」
カイルは一つずつ聞き、間を置いた。
「三つとも受け入れる。私が破ろうとしたら、止めてほしい。君が破ろうとした時は、私が止める」
「領主命令で?」
「恋人として頼む」
その言葉だけ、少し困ったように聞こえた。
笑いが小さく漏れる。酸実糖ほど強くはないのに、口元が戻らなかった。
「それでも望んでくださるなら」
「望んでいる」
「私も、隣にいたいです。カイル閣下」
カイルは手を伸ばさなかった。布を巻いた掌を膝へ置いたまま、エリナの返事だけを待っている。
エリナは濡れた外套の端を少し寄せ、隣へ座り直した。肩が触れる。
外套越しの体温は、地下水よりずっと温かい。離れようと思えばいつでも離れられる近さだった。
やがて、扉の向こうに救援灯の色が差した。サーラの怒鳴り声、梯子を組む金槌、人数を読み上げるニルの声が近づいてくる。
地上へ引き上げられると、夜気には泥と庭園の折れた草の匂いが混じっていた。南区の住民代表が濡れた帳面を掲げる。
「全員いる。二人を足して、これで終わりだ」
サーラがカイルの掌と、閉じた雨帳を順に見た。
「公爵。次は勤務表より先に、その手を診せな」
「承知した」
「素直だね。水に浸かって、少しは錆が落ちたかい」
救護班が毛布を持ってくる。その向こうで、泥の付いていない靴の書記が一人、防水布の筒を抱えて待っていた。
「雨読みのエリナ様。王から、夜明けの面談をお願いしたいとのことです」
「私に、ですか」
書記は封印を上にして筒を差し出した。
「王国水務監への任命案です」




