第59話 王都の堀が逆流する
宝物庫前の土嚢は、まだ乾いていた。
王都公開審理場から堀へ出る回廊には、午後の光が長く差している。濡れているのは、人々の靴で踏み荒らされた中央だけだ。壁際では防衛兵が、金飾りの扉を囲むように土嚢を三段まで積み上げていた。
ほんの少し前まで、ここでは三つの村を乾かす案の決裁者名を問いただしていた。エリナが王都冠座の起動を告げた直後、南区の排水鐘が逆流を知らせた。
警報鐘が、南からまた鳴った。
「宮門と宝物庫を封鎖します」
防衛隊長が言う。退席を急ぐ議員たちは、開いたままの東階段へ集まり始めていた。出口は二つあるのに、近い方へ人が偏っている。
カイルは副官を呼び止めた。
「東階段を一方通行にしろ。西回廊は足の遅い者と担架を先に出す。議員の馬車は動かすな」
「しかし、閣下。宝物庫の収蔵品は」
「水はここまで来ているのか」
隊長が口を閉じた。
土嚢の布は白く乾いている。南区では排水鐘が鳴っているのに、宮城の石床には一滴も上がっていなかった。
「エリナ」
倒れた椅子の向こうで、エリナは卓へ片手を置いていた。審理の発言時間を測っていた水時計は、既にニルが抱えている。
「方向と、次が来るまでの時間だけでいい」
「堀の東から南へ流れています。通常と逆です」
息を整え、床へ目を落とす。
「今の揺れが第一波なら、次は鐘二つ分より早いかもしれません。南水門へ着けば、下町の排水路を内側から押します」
説明を続けようとした口元へ、医師が決めた発言時間を思い出したのか、エリナは唇を結んだ。
「十分だ。座って、ニルと先に移動してくれ」
「指揮所までは行きます。観測は座ってできます」
短い返事だった。止めれば、別の誰かが同じ流れを読み直す時間を失う。椅子、発言時間、代行者。働ける範囲だけを切ればいい。
カイルは壁の避難図を外し、裏の黒板を表へ返した。
「南区までの到達時間。避難所までの距離。自力で階段を上がれない人数。この三つで順番を出せ」
市役人が木炭を持ったまま固まる。
「人口の多い順ではなく、ですか」
「遅れた時に逃げ道がなくなる順だ」
北堤村の老女が、先ほどまで座っていた傍聴席から言った。
「南には寝台ごと運ぶ長屋があるよ。東階段も狭い」
「記録へ」
黒板に最初の一行が入る。下町南区。到達見込み、半刻以内。移動困難者、四十八。使える荷車、二。
金飾りの扉を振り返った。
「宝物庫前の土嚢を南へ運べ。庭園放流路も開放準備だ」
「王宮防衛規則では、収蔵品と正門が第一です」
「その規則を作った議員が、ちょうどここにいる」
退避を求めていた男たちへ、名簿を渡した。
「戸別確認、荷車手配、土嚢運搬。自分が扱った法のどこに立つか、選んでもらう」
濃紺の袖をまくり、乾いた土嚢を一つ持ち上げた。砂が布の中で片側へ寄る。思ったより重く、運ぶ兵の交代は短くしなければならない。
王都の宝は歩けない。
下町の人々は、まだ歩ける。今なら。
◇
夕刻の下町南水門では、堀水が格子口から噴き上がっていた。
石段の三段目まで泥水が来ている。東階段へ続く路地には荷車が二台並び、一台には寝台、もう一台には歩けない老人と幼い子どもが乗せられていた。空いた場所へ家財を積もうとする者を、住民代表が自分で止めている。
「先に人だ。鍋は水が引いてから拾える!」
怒鳴った男自身は、濡れた帳面を上着へ押し込んだまま、水門前を離れようとしない。
サーラが袖を肩までまくり、格子の音を聞いていた。
「第一波は庭園へ逃がせば落ちる。だが、あの封印を切る許可がない」
指した先に、蔦で半ば隠れた鉄扉がある。王宮庭園放流路。堀の水を宮城の庭へ入れ、一時的に溜める非常水路だ。扉の鎖には王家の紋章を刻んだ封蝋が残っていた。
防衛隊長が追いつき、泥の手袋で鎖を押さえた。
「庭園には記念樹と外国使節の贈答彫刻があります。開けば、復旧に何年かかるか」
「南区の退避完了まで」
「残り十九世帯です!」
伝令の声が飛ぶ。寝台が七、杖が九、呼び鈴だけでは出てこない家が三軒。朝、老女が審理場で挙げた数と同じだった。
カイルは手袋を外した。
「記録官。王宮庭園放流路は、私の命令で開く。損害責任者も私だ」
短剣の背を封蝋へ当てる。赤い紋章が二つに割れ、濁った水へ落ちた。
「閣下」
「土嚢を外せ。庭を遊水地にする」
鎖を引く兵の人数が足りない。土嚢列にいた議員が一人、泥に滑りながら加わった。審理場では白い手袋で資料をめくっていた男だ。今は宝物庫から運んだ袋を肩へ載せ、息を切らしている。
「これを、どこへ」
「扉の右へ。二つ置いたら交代してください」
「私はまだ運べます」
「倒れた者を運ぶ荷車はありません。交代を」
男は言い返しかけ、隣の兵へ土嚢を渡した。
鉄扉が開く。
最初は細い筋だった水が、石組みの溝へ食いついた。王宮庭園の白い砂利道を濁流が走り、低く刈られた生垣を倒していく。彫像の台座へ水がぶつかり、花壇の土が黒く崩れた。
隊長の顔が強張る。
カイルは庭を見続けなかった。出口、残りの人数、最も疲れた運び手。見るべきものは、そちらにある。
「南二番長屋、退避!」
「寝台の家、全員出ました!」
「耳の遠い三軒は」
「戸を叩いて確認済みです!」
泥を吸った土嚢は、運び込んだ時より重くなっていた。住民代表がまた列へ戻ろうとする。
「あなたも東階段へ」
「最後を見届けるのが代表だ」
「次の避難所で十九世帯を数える人が必要です。ここに残れば、誰がやる」
男は水門を振り返り、濡れた帳面を押さえた。
「……一人でも足りなければ戻すぞ」
「その時は戻してください」
東階段へ走る背を見送る。
やがて庭園へ流れ込む水の音が低くなり、格子口の噴き上がりも一段落ちた。泥の路地を、最後の伝令が滑りながら駆けてくる。
「南区、避難完了。死者なし。行方不明なしです」
土嚢列から声が上がった。
カイルは人数を聞き直し、名簿の末尾まで照合させた。喜ぶのは、抜けがないと確かめてからでいい。
水門脇の観測台では、エリナが椅子に座り、三本の水位棒を見比べていた。ニルが時刻を読み、サーラの弟子が濡れた紙を押さえている。水位台には、エリナのほかに二人の目と手があった。
「下がり方が揃いすぎています」
エリナが言った。
「庭園へ逃がしたからでは?」
「それなら南側から先に遅れます。三本とも、同じ間隔で止まりました」
水門の下から、太い管を叩く音が響いた。
一打。
間を置いて、二打目。
「冠座はまだ動いています。第一波を吐き終えただけです」
「次で、門は」
「この格子では受けられません。接合部から破断します」
庭をもう一枚沈めても、圧力を逃がせる量には限りがある。南区の住民を戻せず、宮城側の高台も次は無事では済まない。
「止める手順は」
「まとめて壊せば、残った水が全部こちらへ来ます。地下制御路で、三段階に分けて圧を落とします」
「必要な人数は」
「流れを読む者と、停止命令の責任者。手動輪を回す力は二人で足ります」
声は硬いが、息は乱れていない。ニルが横で水時計を見ている。
「中止条件は」
「制御路の水位が腰を越える前。信号索が切れた場合。地上から三打の撤退合図が来た場合です」
「代替案は」
「南水門を先に壊して流す方法があります」
視線が、避難したばかりの路地へ向いた。
「使えません」
「分かった」
行くと決めたのはエリナだ。必要な作業、本人の状態、退路、代わりの手は聞いた。王都側の停止命令には、カイルが自分の名を置ける。
◇
日没前、水門下の制御路入口には、地下から冷たい風が吹いていた。
防水扉の向こうへ、濡れた石段が続いている。壁に沿って一本の信号索が張られ、地上の鐘架へつながっていた。
カイルは蝋引きの委任状を二枚に分けた。
「地上の避難、水門防衛、庭園放流はサーラが指揮。王宮側の人員と資材は防衛隊副官が受ける。判断が割れたら、住民の退路を広く取る方を優先する」
署名し、一枚ずつ渡す。
副官が受け取りながら問う。
「閣下が戻られない場合は」
「同じだ。私の返事を待つな」
サーラは委任状より先に、エリナの顔色を見た。
「無理なら、鐘を待たず戻りな」
「はい。三つの中止条件のどれかで戻ります」
「公爵もだよ」
「承知している」
「その返事をする奴が一番怪しい」
皮肉があるうちは、まだ地上を任せられる。カイルは乾いた笑いを一つ返し、信号索を引いた。地上の鐘が短く鳴る。
入路確認。
エリナが先に石段へ足を置く。足元を照らす灯りは二つ。退路は一つ。閉鎖までの猶予は、次の圧力波が来るまで。
「私が流れの順を決めます」
「私が停止命令を出す」
「途中で意見が割れたら」
「止まって、理由を聞く」
エリナが振り返った。
「では、行きましょう。カイル閣下」
二人が防水扉を越える。
背後で、地下の管が鳴った。
最初の音より近い。石段の隙間から水が噴き、扉の重りが外れる。
「下がれ!」
サーラの声と同時に、防水扉が落ちた。
鉄と石のぶつかる音が、制御路を塞ぐ。灯りが揺れ、地上の足音は聞こえなくなった。
残ったのは、扉の細い穴を通る一本の信号索だけだった。




