第58話 数字の中の名前
「三村、とまとめないでください」
王都水務院資料室の朝、北窓から差す光はまだ青かった。エリナは医師に指定された椅子へ座り、三村の住民代表と机を挟んでおり、発熱から戻ったばかりの身体には、立って話せる時間さえ決められていた。
今日は、凍結された渇水税と王都直下の掘削を調べる公開審理の日だ。ここで村の名と住民の意思を資料へ戻せなければ、三つの土地は無名の損失として水を切られる。
書記が顔を上げた。
「北堤村の、移動困難者十九名。表にはそうありますが」
「十九名では、避難にかかる時間が分かりません」
北堤村の老女は、膝の上で厚い靴下を引き上げた。王都北の堤を保守し、歩くのに時間のかかる世帯が多い村だ。
「寝台から起こす人が七人。杖で歩く人が九人。耳が遠く、鐘だけでは出てこない家が三軒です。荷車は二台しかありません」
エリナは聞き取った順に書き、人数の横へ、誰が何を失い、どの代案を説明され、同意したか異議を出したかまで残す欄を作った。被害同意表という審理用の紙だ。
塩畑村の代表は、指に残った白い粉を布で拭った。沿岸の塩害を見張り、食料に使う塩田を守る村である。
「井戸を止めれば、人は運べます。塩水を洗う真水がなくなれば、畑は次の季節も戻りません。それも一日の損失と数えますか」
「回復までの日数として書きます。短く見せる必要はありません」
染谷村の職人は、染料の染みた爪で自分の欄を押さえた。下流の工房だけでなく、汚れた水を町へ流さない浄化池も維持している。
「うちの水を切るなら、王都へ出す布も止まる。けれど先に書いてほしいのは、浄化池です。止めた翌朝から、下流へ色水が行く」
悲惨さの順番を決める場ではない。エリナは三枚を横へつなぎ、別の一枚を上へ置いた。
王宮の儀礼噴水を止め、富裕区は夜間取水を絞る。王都冠座の掘削も延ばせば、工事用水はその場で減り、地下圧の変化にも待ったをかけられる。
どれも、ただでは済まない。庭園の樹木は傷み、夜に水を使う商売は時刻を変え、掘削を待てば渇水対策は遅れる。その損失も、三村と同じ欄へ入れた。
「王都が困らない案は、ないのですね」
塩畑村の代表が言った。
「ありません。三村だけが困る案なら、もう作られています」
答えながら、噴水には庭園局、夜間取水には商業水務局、掘削延期には王都水務院と、各案の下へ実行責任者を足していった。三つの名が並んでも、村を乾かす案の決定者欄だけは空いていた。
染谷村の職人が持参した浄化池の見取り図を開くと、紙の端には、小さな手形のような青い染みがあった。
「孫が触ったんです。池を止めたら、この色が下流の井戸まで行く。そういう話も、審理でしていいんですか」
「してください。水量と一緒に、届く時間も伺います」
「泣いた話は?」
「話したいなら。黙ったことまで、同意にはさせません」
職人は見取り図を畳まず、被害同意表の下へ重ねた。
雨読み学校の教え子ニルが見守る砂時計で、最後の砂が落ちた。エリナが清書の紙へ手を伸ばすより早く、北堤村の老女が三枚を重ねてニルの前へ置く。
「写しは若い人が作るんだろう。私たちは、赤い訂正を読み返せばいい」
ニルは写し紙を受け取り、すぐ最初の行へ筆を置いた。
北堤村の老女が、小さな包みから固いパンを出した。
「昼までかかると思って持ってきたんだけどね。若い人に半分渡せるなら、その方がいい」
ニルが慌てて両手を出す。染谷村の職人が笑い、塩畑村の代表は表を声に出して読み直した。
エリナは三人の訂正を赤く残し、椅子から立った。
◇
午後の公開審理場には濡れた外套の匂いがこもり、半円の傍聴席には三村の代表、その後ろには王都の住民も座っていた。エリナの席には発言時間を測る小さな水時計が置かれていた。
正面でヴェルク宰相が一枚の大表を広げると、細い線の内側に同じ大きさの数字が整い、北堤村の寝台も、塩畑村の次の季節も、染谷村から下流へ着く色水も、一つの水量へ丸められている。
それでも、数字そのものを敵にしてはいけない。曖昧な善意だけでは別の誰かを知らずに乾かすから、足りない欄を示し、同じ物差しへ戻すためにここへ来た。
「三村の取水を一時停止すれば、三十都市の供給日数を六日延ばせます」
穏やかな声だった。表には人口、水量、輸送日数が整然と並び、左端にだけ「対象三村」とある。
「六日あれば、北部の井戸を掘り直せる。全体を守るための、限定された負担です」
審理官がエリナへ視線を向けた。
「計算そのものに異議はありますか」
「前提どおりなら、計算は合っています」
傍聴席がざわついた。ヴェルクはわずかに顎を引く。
「では、結論も明らかでしょう」
「いいえ。表に載っていない選択があります」
エリナは宰相の大表を退けず、その隣へ被害同意表を置いた。
「北堤村。王都北の堤防保守を担い、荷車が二台しかない村です。塩畑村。塩害観測と食料生産を担い、真水を失えば次の季節まで畑が戻りません。染谷村。工房と同時に、下流を守る浄化池を維持しています」
「名称を読み上げても、水量は増えません」
審理官の一人が紙を指でたたいた。
「感情に寄せれば、決められるものも決められなくなる」
「ですから、同じ単位で並べました」
三枚を裏返し、王都側の負担を示す表を開く。儀礼噴水を止めれば二日分、富裕区の夜間取水を絞ればさらに二日分、掘削延期で工事用水を止めれば残る二日分が浮く。
「王都側にも不便と費用は出ます。樹木の移植、商いの時間変更、掘削工程の遅れ。それを隠すつもりはありません」
傍聴席の端で、濡れた傘から水が一滴ずつ落ちていた。誰も拍手をしない。三村の代表も、ただ表を見ている。
ヴェルクの穏やかな声が戻る。
「儀礼には王国の秩序を保つ役目があります。富裕区の商いは税収を生みます。掘削の遅れは、より長い渇水を招きかねない」
「はい。だから、その負担も記録します」
エリナは被害同意表を半回転させ、宰相の前へ向けた。
「三村だけが負えるのか。王都も分けて負うのか。代案を退けたのは誰か。選択肢がないのではありません。別の負担を選ばなかった人の名が、ここにありません」
ヴェルクの目は表の数字を追ったまま、村の欄へ移らない。
「北堤村へ、停止案は説明されましたか」
審理官が尋ねた。
老女が立ち上がる。
「いいえ。今朝、自分たちが切られる村だと知りました」
「塩畑村は」
「聞いていません」
「染谷村は」
「浄化池が止まることさえ、王都の表にはありませんでした」
審理官たちの間で紙が回る。エリナの水時計は上の器がほとんど空になっていた。カイルは傍聴席の前列で、助言も合図もせず待っている。
やがて中央の審理官が槌を置いた。
「宰相。三つの代案を退けた者と、その理由を答弁記録へ出してください」
「各局の運用判断です」
「局名では足りません。決裁者名を」
ヴェルクは初めて水差しへ目を向けた。口はつけない。
中央の審理官が続ける。
「今後、被害同意表、説明記録、代替案と却下理由がそろわない犠牲案は採決しない。本件は、三村への説明後に再審する」
誰かが息を吐いた。拍手より先に、北堤村の老女が表の村名を指でなぞった。
エリナは水時計の最後の一滴が落ちる前に席へ戻る。
「読めますね。今度は」
「はい」
◇
「手続を増やしている間にも、水は減ります」
答弁席に残ったヴェルクは、まだ声を荒らげなかった。
「既に装置は、国を守る段階へ入っているのです」
「どの装置ですか」
「国家が管理するものです。個別名は、混乱を招く」
また名を避けた。
エリナは返事をせず、卓上の水杯に立つ細い輪を見た。人が歩いた揺れなら、外へ広がるはずだった。
輪は、杯の中央へ集まっていた。
靴底へ、低い震えが一度届く。続いて排水口から、地下の石に冷やされた風が吹き上がった。
「カイル閣下」
前列のカイルが立つ。
「皆を出口へ。杯には触れないでください」
「起動したのか」
「王都冠座です。水の流れを変える固定基部が、地下で動いています」
審理官が立ち上がり、椅子が倒れた。ヴェルクだけが答弁席を動かない。
もう一度、床が震える。
水杯が卓の内側へ倒れた。こぼれた水は板の傾斜に逆らい、被害同意表の王都側へ細く伸びていく。
堀の警報鐘が鳴った。




