第57話 成果のない見舞い
主任欄だけが、白かった。
豪雨が過ぎた翌朝、王立医務室の窓には洗われた光が差していた。エリナは寝台へ半身を起こし、足元に立つニルから勤務記録を受け取っている。医師は窓際で薬瓶を数え、まだ熱の残る頭では、紙の端さえ少し揺れて見えた。
「亡くなった方は」
「いません。行方不明も、重傷者もです」
「北路地は、予測より早かったのですね」
「はい。赤い線を残していたので、東階段へ回せました」
雨読み学校の六人の名が、判断時刻と一緒に並んでいる。サーラの代理承認番号も、北路地の予測差も、工房街の異論も消されていない。
そして主任欄には、線一本なかった。
安堵すべきだ。誰も死なず、自分の誤読も使われず、教え子たちは原記録から答えを出した。望んで作ってきた仕組みが、寝台の外で動いた。
「風向担当の再測定は、どの記録と照合しましたか」
ニルの手が、紙の上へ重なった。
「復帰するまで、詳細はお渡ししません」
「読むだけです。判断は返さなくて構いません」
「先生は、読むと直すところを探します」
昨日までなら、少し声を震わせていたはずだ。今朝のニルは、記録を読む時と同じ速さで言った。
「僕たちが残した予測差は、僕たちが次に直します」
誇らしさと、ひどく薄い痛みが、同じ場所へ座った。エリナは勤務記録を返した。指先が紙を追いかけそうになり、毛布の縁をつまむ。
医師が寝台脇へ一枚の用紙を置いた。休養した本人、医師、代行責任者が、戻る仕事の範囲と中止条件をそれぞれ記す復帰確認票だ。
「署名は明日です」
「今日の午後には熱も下がります」
「下がってから一晩です」
医師は薬瓶の栓を押し込み、ニルへ目を向けた。
「代行責任者は?」
「サーラさんです。先生が頼んでも、今日の欄には署名しないと言っていました」
「先回りされていますね」
「教わりましたから」
ニルは勤務記録を胸へ抱えた。その一束はもう、エリナが抱え直せる紙ではなかった。
ここで記録を取り戻せば、教え子たちの成功を主任の成果へ戻し、休める仕組みを自分の手で壊してしまう。
◇
午後の光は窓辺まで届き、寝台の上には届かなかった。
扉が開く前に、廊下の靴音が二度止まった。医師へ声をかけ、見舞い時間を確かめてから、カイルが入ってくる。
濃紺の上着に雨跡はない。片手には普段の革鞄、もう片方には小さな紙包みを持っていた。
「王都冠座の追加資料でしょうか」
「違う」
「豪雨の損害報告は」
「廊下にも置いていない」
カイルは鞄を椅子の上へ置き、留め金を外した。中には紙も封筒も入っていない。
「空の鞄を持ってきたのですか」
「公爵が手ぶらで病室へ入ると、廊下の書記が仕事を上着へ隠したと思うらしい」
紙包みを卓上へ広げる。薄い砂糖で乾燥果実を固めた酸実糖が、陽に透けて琥珀色に光った。以前の休日に、エリナが焼き林檎より酸っぱいものも好きだと話した時の菓子だ。
「食べられそうか」
「一つなら」
砂糖の縁を歯で割る。甘さはすぐ消え、舌の両脇へ酸味が刺さった。
「これは、ずいぶん酸っぱいです」
「店主は食べた後に言うなと忠告していた」
「先に聞いていたら、買わなかったのですか」
「二袋にしたかもしれない」
カイルも一つ取り、すぐに眉間を狭くする。
思わず息が漏れた。笑ったのだと気づくまで、少しかかった。
窓辺の日差しが薬瓶の影を伸ばす。カイルは豪雨の到達時刻も、避難人数も尋ねなかった。エリナが酸実糖を半分残しても、次の仕事を出さない。
静かな部屋では、時計の振り子がやけに律儀だった。
「観測班の報告は、もうお聞きになったのですよね」
「死者がいないことだけ聞いた」
「北路地の予測差は」
「それは彼らの報告を、彼らから聞く」
「冠座の掘削は止まっていますか」
「今日の私は見舞客だ」
逃げ道を一つずつ塞がれているようで、エリナは毛布の縁を整えた。角はとうにそろっている。
「私に、確認したいことはないのですか」
「酸実糖が好物だったかは、確認したい」
「それだけですか」
「ああ」
窓の外で、乾きかけた葉から水滴が落ちた。
死者ゼロの記録に自分の署名はない。教え子たちは次の誤差も自分たちで直す。カイルの鞄には、答えるべき問いが一枚もない。
口にすれば、面倒な人間だと思われる。役に立つ代わりに置いてもらってきた者が、役目のない時間まで欲しがるのだから。
それでも、今日は紙の角へ隠せなかった。
「必要とされないなら、捨てられる気がします」
声は思ったより小さく、けれど窓まで届いた。
カイルは酸実糖を一つ割り、欠片を自分の口へ入れた。今度は顔をしかめず、ゆっくり飲み込む。
「返事を急ぐと、私の都合のよい言葉で埋めそうだ」
椅子を寝台へ寄せる。触れられない距離で止まった。
「今日は、君に必要とされなくても、私は来たかった」
「それだけで、ここに?」
「それだけで来た」
胸を張るような言い方ではなかった。天気の話と同じ低い声で、ただ自分の行動を報告した。
カイルが右手を開く。
「手を取ってもいいだろうか」
エリナはうなずいた。
熱の残る指へ、乾いた掌の温度が重なる。握り返す理由を探したが、理由より先に指が少し動いた。
枕元の用紙は、まだ白いままだった。
◇
翌朝、復帰確認票には三人分の文字が並んだ。
医師は発言時間と途中退席の条件を書き、サーラは観測班が仕事を続けると記した。エリナは「異常時の判断を代行者へ返す」と自分の欄へ書き、署名する。
ニルは横からのぞき込み、紙を裏返して時刻まで確かめた。
「仕事を戻してほしいとは、書いていませんね」
「書いたら、受け取らないのでしょう」
「はい」
返事が早い。昨日より少しだけ腹立たしく、同じくらい頼もしかった。
退院の説明が終わる頃、王都審理所の書記が封筒を持って入ってきた。凍結中の渇水税と、王都直下の排水保全坑を扱う公開審理の通知だった。
エリナは医師を見た。
「参加は、ここに書いた時間の範囲で」
「途中で熱が上がれば退席です」
「ニルさん、観測は」
「六人で続けます。先生の返事は待ちません」
「では、その条件で参加します」
審理要旨を開く。ヴェルク宰相の主張は、表の中央へ一行でまとめられていた。
三村の取水を止めれば、三十都市の供給日数を延長できる。
水量も人口比も書かれている。けれど、三つの村の名はどこにもなかった。
「この村々の資料は、別紙ですか」
書記が要旨を見直す。
「審理上は『三村』で統一されています。個別名は、こちらには」
「住民への説明記録は」
「まだ提出されていません」
ニルが棚から聞き取り票を出した。一枚で足りると思ったのか、手には一枚しかない。
「三枚ください」
「三村ぶんですか」
「はい。審理の前に、代表の方々へ会わせてください」
書記が目を見開いた。
「全員のお名前を記録するのですか」
「まず、お名前を伺います」
ニルは二枚を足し、三枚の聞き取り票を机へ並べた。




