第54話 私の名で返す
「エリナ様のお名前だけなら、昼の審理に間に合います」
朝の王立文庫、その保全室には、細い天窓からまだ青い光が落ちていた。エリナは長卓の中央に座り、向かいの文庫員と、右手で封筒を分ける学校の記録担当を見た。眠りの足りない目には、白い紙の端が少しまぶしい。
昨日、渇水特別税は否決された。水商会への補助と王都直下の掘削費も凍結され、ヴェルクは資金の行き先を説明するよう迫られた。
その閉会前に、トリスタン名義の旧論文を根拠とする盗作告発が受理されたのだ。昼の著者訂正審理で作成経路を証明できなければ、冠座の調査は盗んだ理論による妨害とされる。エリナの名だけでなく、余白へ符号しか残せなかった雨読みたちの名も、また索引の外へ押し戻される。
「私だけなら、というのは」
「審理の申立人が、あなた一人だからです。先人七名を加えると、原本連鎖票が七組増えます」
原本連鎖票は、資料の保管者と複写者、提出者、それぞれの時刻を切れ目なく残す証拠管理票だ。白い欄が一つでも残れば、相手はそこへ差し替えの可能性を差し込める。
長卓には、私物の雨帳と故国水務院の受領控え、トリスタン名義の論文原稿が年代順に置かれていた。用紙購入簿と住民観測紙も続く。その隣に、王立文庫で作った七枚の仮索引がある。
仮索引の表題は、まだ「雫二線」「西鐘三点」のままだった。
「用紙購入簿との照合は終わっています」
エリナは最初の一枚を開いた。余白符号と同じ手で、紙束の受領欄に姓と名が残されている。購入日、担当年、訂正線の引き方もつながった。
「特定できた方は、同じ基準で扱ってください」
「ですが、今日、あなたの名を確定させる方が先です」
自分の申立書へ伸びた手を、机の縁で止めた。
その手で、原本連鎖票の空欄へ時刻を書き入れる。
「私の名だけ先に戻せば、この七枚はまた『後日』になります。これまでと同じです」
文庫員は返事をせず、天窓の光へ購入簿を持ち上げた。薄い紙の中に、製紙所ごとの透かしが浮く。
「七組とも、保管者の確認を取り直します。間に合うとは申しません」
「はい。間に合わなければ、遅れた理由も記録してください」
学校の記録担当が、朝食の包みを長卓の端へ置いた。固い梨が二切れ、布からのぞく。
「手を止める欄も必要ですね。食べながらでは、紙へ汁が落ちます」
エリナは梨を見た。甘いものより酸味の強い方が好きだが、今はその固さがありがたい。
「一切れいただきます。残りは、次の封を終えてから」
「その答えも記録しておきたいくらいです」
少しだけ笑いが落ちた。文庫員は七枚の仮索引を自分の側へ引き寄せる。
朝の鐘が鳴るまでに、九つの封筒が長卓へ並んだ。自分の雨帳と論文に二つ。先人の索引に七つ。
最後の封蝋が固まるまで、どれにも手を触れなかった。
◇
午後の著者訂正審理室は、壁際まで傍聴人で埋まっていた。
著者訂正審理とは、公刊記録が作られた道筋と原本を確かめ、誤って記された著者名を公的に改める手続である。正面に三人の審理官、右の申立人席にエリナ、左にトリスタン側の代理人が座る。住民観測員と文庫員は、別々の証人席で待っていた。
窓は高く、外の空は見えない。代わりに、紙を乾かすための温い風が足元を流れている。
代理人は、旧論文の表紙を掲げた。
「公刊時の著者はトリスタン・ローヴェル卿です。被告発者は当時、同卿の婚約者であり、侯爵家と水務院の資料を自由に閲覧できる立場にありました。婚約中の共有研究を、破談後に自分だけの成果と称した可能性を審理いただきたい」
観衆の視線が集まる。
元婚約者。同じ家。共有。
昔なら、その三つを並べられただけで、説明を始める前に自分の方が譲っていた。
「閲覧できたことと、書いたことは同じですか」
審理官へ尋ねる。
「同じとは扱いません。作成経路を示してください」
「承知しました」
一枚目の原本連鎖票を開く。
私物の雨帳が文庫へ登録されたあと、水務院へ渡り、本人へ返された。封印写しになった日まで、別の保管者の名と時刻が途切れず続く。
次に、論文提出原稿の紙を天窓灯へかざした。
「この透かしの紙が製紙所から出たのは、雨帳の登録より後です。提出原稿が先に存在したことにはできません」
「後年、同じ研究を清書しただけでしょう」
「では、清書した方しか知り得ない違いを見ます」
雨帳の一頁を審理官の前へ置いた。観測時刻、風向、井戸圧、仮計算。途中で数字を取り違え、一本線を引き、欄外の正しい値へ戻している。
論文の表には、最終値しか載っていない。
だが提出原稿の裏面には、消しきれなかった並べ替えの跡があった。雨帳と同じ順で仮計算を置き、同じ箇所で列を入れ替えている。
代理人が身を乗り出す。
「婚約者なら、計算を見せてもらっていた可能性があります」
「その日の受領控えを」
故国水務院の控えが開かれた。雨帳を提出した時刻、返却した時刻、窓口書記の署名。その日はトリスタンが王都会議に出席していた記録も、相手側から提出されている。
「不在でも、後から聞けます」
「はい。後から写すことはできます」
審理室のどこかで、短く息を吸う音がした。
「私が示しているのは、聞いたかどうかではありません。どちらが先に紙へ残ったかです」
審理官は論文原稿を戻さず、証拠棚へ置いた。
「住民証人を」
証人席へ立ったのは、昨日まで三冠座の共鳴位相図を作っていた住民観測員だった。礼服ではなく、墨の染みた仕事着のままである。
「あなたは、エリナ氏から答えを教えられましたか」
「手順書は受け取りました。使う雨帳は、自分で三年分選びました」
「旧論文は読みましたか」
「いいえ。字が細かくて、先に眠くなります」
傍聴席に小さな笑いが起きた。代理人は笑わない。
「では、冠座という結論は、エリナ氏の指示どおりに出しただけでは?」
「三年目は線が合いませんでした。先生は手を出しませんでした。裏表紙の修理票を見つけて、私が時刻を直しました」
「先生、と呼ぶほど近しいのでしょう」
「給金をもらって、違う数字を出す仕事です。近しいかどうかで水位は変えません」
今度の笑いは、すぐに紙をめくる音へ戻った。
住民観測紙には、選んだ頁と外れた線がある。修理票と補正後の時刻も残る。論文に冠座の位置はない。住民が別の原記録から再現した結果は、トリスタン名義の文章を経由していない。
審理官たちは三枚の資料を見比べた。
一人目の審理官が論文の著者欄訂正を認めると、二人目もトリスタンを共同著者とする根拠は見当たらないと続ける。
三人目が訂正印を持ち上げる。
「本件申立ての範囲では、エリナ・ヴァルクール氏の著者性を確定します」
印が紙へ下りる前に、エリナは七枚の原本連鎖票を差し出した。
「同じ資料群に、同じ方法で名を消された方がいます」
代理人が椅子を鳴らした。
「申立ての拡張です。故人の符号を、都合よく人名へ変えるおつもりですか」
文庫員が立ち、用紙購入簿を開いた。
「符号だけではありません。担当年の紙を受け取った者の姓と名が、本人の筆跡で残っています。購入日、勤務割、雨帳の筆圧、訂正法も一致します」
「家の使用人が紙を受け取っただけかもしれない」
「ですから、受領だけでは訂正していません」
文庫員は七組の票を一枚ずつ審理官へ渡した。
「担当期間から後年の当主名義への転記まで、各票で追えます。観測の連続も、訂正線も切れていません」
審理官がエリナを見た。
「あなたの審理を今日終えるだけなら、この追加は不要です」
「私一人で終えないでください」
声は硬かった。それでも、急がずに言えた。
「証拠の基準が同じなら、訂正も同じ日に行ってください」
しばらく、温い風の音だけが足元を通った。
三人の審理官は票を分け、一枚目、二枚目と読み進める。保管印のわずかなずれは、文庫員へ二度たしかめた。五枚目では購入簿の綴じ年がずれ、別巻を取り寄せるため鐘半分の休廷となる。
予定どおりには進まなかった。
それでも、空欄を急いで埋めた者はいない。
再開後、七つの姓と名が順に読み上げられた。仮索引の「雫二線」「西鐘三点」が消され、その隣へ本人名が記される。
エリナは卓の下で手を握った。泣く代わりに、声が途切れた箇所の頁番号を聞き直す。
訂正印が、八度鳴った。
◇
夕刻の公文書告示室には、まだ湿った墨と封蝋の匂いが満ちていた。
壁の中央へ、著者名訂正の告示が掲げられる。旧論文の著者はエリナ・ヴァルクール。トリスタン・ローヴェルを共同著者とする根拠は認められない。王立文庫の雨帳索引には、特定された七人の名と担当年が追記された。
拍手が起きる。
エリナは告示より先に、返却卓の票を見た。雨帳。受領控え。購入簿。住民観測紙。すべての返却欄に、受取人と時刻が入っている。
「次からは、雫二線ではなく、名前で雨帳を請求できますね」
住民観測員が言った。
「はい」
その一言で、ようやく肩から息が抜けた。
原本連鎖票の束を文庫員へ返す。朝には証拠を守るための票だった紙へ、今は八人ぶんの訂正番号が加わっていた。
外階段へ出ると、夕刊売りが向かいの掲示板へ新しい紙を貼っていた。
上段には、著者名訂正の号外。
そのすぐ下へ、もっと大きな見出しが重なる。
『臆病者の予報――エリナ・ヴァルクールが止めた工事一覧』
戻ったばかりの名が、赤い枠で囲まれていた。
号外を読んでいた人々の目が、戻った名を追うように、上段から下段の赤枠へ落ちていく。
一覧の最初には、浄化池を三日止めた件がある。予報が外れたことは正しい。飲用前に金属臭と泡を確かめたことも、停止中に職人へ給金を払い、旧鉱道の風を動力へ変えたことも書かれていない。
エリナは夕刊を一部受け取り、折らずに持った。
紙の端は、まだ温かかった。




