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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
名を取り戻す水務監

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第55話 臆病者の予報

 二十七件のうち、結果だけを見れば外れは五件だった。


 翌朝の王立文庫、その作業室で、エリナは五本の横線を引いた。


 昨日まで先人の名を探していた長卓には、今朝は「臆病者の予報」と赤枠で囲まれた夕刊が広げられ、著者名を取り戻したその日に、外れた工事停止だけを並べられている。今日中に全ての予報を同じ形へそろえなければ、冠座を追う手も、次に低地へ出す避難命令も、臆病さの一言で片づけられる。


 正面でニルが原記録の束を抱え、学校の記録担当が用紙を日付順に分け、カイルは扉に近い席で議会へ持っていく写しの数を確かめている。


 その担当者は、助かった人数だけを抜いた要約板を夕刊の横へ置き、赤枠と同じ大きさの見出しまで整えていた。


「今日の見出しへ対抗するなら、こちらを先に掲げられます」


 エリナは夕刊の端を押さえた。紙は夜の湿気を吸い、赤枠のところだけ少し波打っている。要約板を裏返し、そこへ五本の横線を写した。


「この五件も入れてください」


「でも、全部出せば、またそこだけ使われます」


「使われるでしょうね」


 戻った名前の横へ、今度は自分の手で「外れ」と書く。炭筆の先が紙をこする音だけを、やけに大きくした。


 ニルは皆へ乾いた杏を一つずつ配り、自分の分を口へ入れてから、もう一枚の紙をのぞき込む。


「先生、外れた時の給金も書きますか」


「書きます。止めた費用に含めてください。代わりに行った仕事があれば、それも別の欄へ」


 新しい用紙に、列を作る。


 予報内容。確信度。判断した時刻。停止にかかった費用。実際の結果。防げた損失。


 予報精度表。成功か失敗かにかかわらず、一つの判断に何を払い、何が起きたかを同じ形で公開する一覧だ。


「防げた損失を証明できないものは、どうします」


「空欄です。大きく見積もって埋めないでください」


 ニルはうなずき、浄化池の記録を開く。


 三日の停止中も職人の給金を払い、飲用開始は延ばした。予報した雨は来なかったが、そこで見つかった旧鉱道の風が、のちに浄化池と井戸の動力になった。


 エリナは「外れ」の印を付け、その隣の防げた損失を空欄のまま残す。


 カイルが写しから顔を上げる。


「私が出した避難命令も、別の欄にしてくれ。君の予報と、命令した者の責任を一つにしない方がよい」


「はい。外れた時に誰が決めたかも残します」


「その表は、誰が照合する」


「学校の六人です。私のまとめは見せず、それぞれ原記録から作ります」


 カイルは自分の避難命令書を裏返し、署名欄を上にしてエリナの側へ滑らせた。


「私の命令が違えば、学校の答えを残してくれ」


 記録担当は成功例だけを抜いた紙を脇へ置いた。


 夕刊を文鎮代わりにして、その上へ二十七件の一覧を重ねる。赤い見出しは見えなくなったが、何を省かれたのか確かめられるよう捨てずに、記事にも保管番号を付けた。


◇


 午後の公開説明会は、水筒と濡れた外套の匂いで満ちていた。


 王都水務院の広間に地区ごとの長机が四列並び、壇上にはエリナと水務院の書記、壁際には学校の観測班がついた。市民の手元には、予報精度表と、各行の元帳へたどる番号が一組ずつ配られている。


 朝から細い雨が降り、窓に近い席では、表を押さえる指先がまだ濡れている。


 最前列の記者が手を挙げた。


「説明は結構です。何回、外したのですか」


 広間の紙が止まる。


「五回です」


 答えると、記者の筆がすぐに動いた。


「では、五回も市民へ損失を与えたと認めるのですね」


「停止に費用がかかった五件を、ここに全て載せました」


 エリナは最初の五行を示した。


「同じ表に、的中した判断と、防げたと確認できる損失も載せています。どちらも元の記録まで見てください」


「失敗を成功談で薄めるのですか」


「いいえ。外れは外れたままです」


 紙の端に残る濡れた指跡だけが、いつもより濃く見えた。


「予報は、当たった者を信じるための宣告ではありません。その時点で、どの損失を引き受けるか選ぶための情報です」


 記者は納得した顔をしなかった。


「つまり、止める方が安全だと言い続ければ、あなたは責任を取らずに済む」


「止めた費用も、止めなかった結果も、私の名と一緒に残します」


 後ろの机から、染料の青が爪に残る職人の太い指が上がった。


「浄化池を止めた三日、あたしたちの給金は損失に入っているのかい」


「入っています」


「払ったのに?」


「払った費用です。暮らしを切らずに止めるために必要でした」


 職人は表を引き寄せた。


「じゃあ、こっちの代替作業ってのは」


「浄化池の砂礫を組み直した仕事です。給金を受け取った方の名簿は、本人の公開同意がある分だけ閲覧できます」


「ふうん。記事じゃ、三日寝てたことになってたよ」


 周りで、紙をめくる音が戻った。


 今度は下町の女性が、西境の避難記録を指した。


「防げた損失が『算定幅あり』になっています。助かった人数は決まっているのに、なぜ幅があるんです」


「斜面がどこまで崩れたかで、失う家と道が変わるからです。避難した人数は確定しています。失われたかもしれない財産は、最大と最小を分けました」


「誰がその幅を決めました?」


「現場の住民、技師、監察の三者です。三者の幅を重ねて載せました」


 女性は閲覧番号を書き写し、隣の者へ鉛筆を渡した。


 質問は、やがて「エリナを信じるか」から離れていった。


 停止した工房の補償は誰が払ったのか。外れた夜間避難で橋はどれほど詰まったのか。的中した時だけ避難人数を数え、空振りの時は帰宅時間を数えていないのではないか。


 答えられない欄もあった。


「そこは記録がありません」


 そう言うたび、記録官が空欄へ印を付ける。次回から誰が測るか、市民席と学校の担当名がその横へ増えた。


 長机を回った表には濡れた指跡と鉛筆の線が重なり、朝にはエリナの仕事だった紙を、もう自分一人では読み切れない。


 監察官が継続公開の決定を読み上げた。


「予報精度表は毎月更新し、主任の集計とは別に学校観測班の照合結果を添付する。原記録の閲覧番号も維持する」


 拍手より先に、市民が次の更新日を尋ねた。濡れた指跡の上へ、次回の日付が書き足される。


 例の記者が、閉じた手帳を懐へ入れる。


「明日の見出しを変えるつもりはありませんよ」


「構いません」


 エリナは赤枠の夕刊を一部差し出した。


「予報精度表の保管番号も載せてください。読んだ方が、続きへたどれるように」


 記者は紙を受け取ったが、返事はしなかった。


 外へ出ると雨は止み、石段の水たまりに、夕方の鈍い空が映っている。


 まだ、夜の観測が残っていた。


◇


 夜の水務院観測室では、壁の風向紙が灯火の熱でかすかに揺れ、その下でエリナは外套も脱がず、中央卓に新しい豪雨記録を広げていた。


 王都西側の雨量、下町の井戸圧、排水路の戻り。学校の観測班は別々の机で原記録を読み、互いの数字をまだ見ていない。


 額の内側が熱く、窓を開けても、夜気は遠く感じられた。


「先生、こちらです」


 ニルが六枚の紙を壁へ留めた。


 矢尻は風が向かう先、矢羽は来た方角を示し、六枚とも雨帯が王都の低地へ入る向きだった。


 エリナの紙だけが、外へ抜ける向きになっている。


「観測具の向きを確かめましたか」


「三地点とも。布札と煙でも見ました」


「時刻差は」


「修理票を入れてあります。二刻ずらしても、警戒は上がります」


 班員の声が一人ずつ続いた。雨量と井戸圧、格子口の逆流、避難所までの時間を順に読み上げ、そのどれもが警戒段階を一つ引き上げる方を示している。


 エリナは自分の風向記号を指でたどり、矢羽を矢尻として読んでいることに気づいた。


 こんな間違いをした理由を考えようとすると、灯火の輪だけが妙に白く見えた。


「屋上でもう一度見ます」


「先生、顔が赤いです」


「確認してから休みます」


 椅子を引き、外套の留め具へ手をかけた。


 一つ目の金具が、指の間から二度落ちた。拾おうとして屈むと、床に置かれた雨受け桶の音が遠ざかる。


 ニルが何か言ったので返事をしたつもりだったが、唇からは声が出なかった。


 壁の七枚が横へ流れ、六本の矢印だけが、同じ低地を指している。


 肩を支えられた時には、膝がもう床についていた。


「先生を医務室へ!」


 誰かが扉を開ける。廊下の冷たい空気が入り、火照った頬へ触れた。


「警戒は……」


「私たちが続けます」


 ニルの声は震えていた。それでも、記録を読む時の速さだった。


「サーラさんへ。代理承認を取ります。先生は起こしません」

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