第50話 許さなくても組める
国境の秘密診療所へ朝の鐘が届くころ、回復室の窓には細い結露が三本残っていた。
エリナは寝台の左に座り、向かいの年嵩の医師と回復を見守るあいだ、ミレーユは枕へ背を預け、昨日まで握れなかった木匙で野菜汁の豆を一粒ずつ追いかけていた。
体温は基準線まで戻り、脈の乱れもない。白い手袋を外した手首では、三重の環が薄い桃色にまで引いている。
晴れの祝福を重ねて倒れ、消されなかった使用記録と儀式印を抱えて故国を逃れた妹を、昨日は患者として診た。熱が下がった今朝、ようやく先延ばしにした話ができる。
謝罪にうなずくだけなら、また姉が譲り、妹が従う。突き放せば、儀式印と海底鎖を調べる道まで閉じる。嫌だった。
木匙が器の縁へ当たり、小さく鳴った。
「お姉様」
「はい」
「昨日は、話を止めてくださってありがとう」
「脈が上がっていましたから」
あくまで診療の話として返す。笑ってごまかさず、木匙を皿へ置いた。
「私、お姉様の忠告を嫉妬だと言いました。雨帳を読めないのに、読めるふりをしました。お姉様の数字が私の成果にされても、皆が喜ぶならいいと思って、黙って笑っていました」
窓の結露が一筋、下へ延びた。
「南東の川が増えた時も、拍手が止まる方が怖かった。見ないふりをしたのは、私です」
エリナは膝の上の雨帳へ手を置いた。角は揃っている。直すものはなかった。
「今は、許せません」
妹の睫毛が下がる。
「あなたが苦しかったことは分かります。だからといって、私が傷つかなかったことにはなりません。いつか許すという約束もできません」
「……分かりました」
返事は思ったより静かだった。
しばらくして、妹は器の底から豆を一つ拾った。
「少し、ほっとしています」
「よい話はしていません」
「ええ。でも、お姉様が私に合わせて、優しい答えを作らなかったから」
豆を食べ、きちんと飲み込む。昨日までの華やかな笑顔は出てこなかった。
「それでも、天冠を止めたいの。私にできることがあるなら、何でもするから」
「何でも、は禁止です」
今度はすぐに言えた。
「その言葉を条件書へ書いたら、破棄します。できること、してはいけないこと、途中でやめる時の決め方を書きます」
妹は少しだけ困った顔をした。
「償いにも、上限があるのね」
「仕事にはあります。償いと仕事を一枚にしないでください」
医師が、冷めかけた野菜汁を指した。
「続きは食後にしてください。条件書へ『食事中の交渉禁止』も加えますか」
「それは困りますわ。私、豆だけ残したことまで記録されそう」
「もう見つかっています」
ミレーユは久しぶりに、声を立てずに笑った。
◇
午後の会議室には、四つの椅子と二枚綴りの用紙が用意されていた。
エリナと妹は長卓の同じ側に座り、向かいにサーラと医師。窓の外に低く重なる雨雲のせいで早く夕方へ傾いた光の中、儀式印の写し、使用回数票、海底鎖の方位図が四人の間に並んでいる。
「長い話は後だ」
サーラが袖をまくる。
「誰が止めるか、先に書きな。始める方法なんぞ、その次でいい」
エリナは用紙の見出しに『祝福協働手順』と記した。最初の行へ雨読みの開始合図、その下へ祝福の上限を書く。途中で止める欄は空けたまま、紙を妹の側へ寄せた。
「試すのは一度。対象は雲の一層だけ。同じ日に繰り返しません」
医師が続ける。
「体温、脈、手指の震え、儀式印の熱。どれか一つでも休止基準を外れたら、その場で終わりです」
「終わった後の薬や診療は、成功したかどうかに関係なく受けられる、と」
そう言われ、エリナはそのまま書いた。
「給金もです。準備、移動、回復の時間を含めます。途中で止めても減らしません」
「私が望んで参加するのに?」
サーラが鼻を鳴らした。
「ただで差し出した力は、次の奴が勝手に値段をつける。欲しいかどうかは、受け取ってから決めな」
何か言い返しかけ、やめた。自分の用紙へ『給金』と写す。少し右上がりの字だった。
開始と停止の時刻は同じ行に置く。予定した出力と実際の症状、止めた人物と理由も順番をそろえ、誰かが不都合な行を抜けばすぐ分かるようにした。
原本は診療所へ。
写しは術者本人と雨読み側が持ち、公開用の記録からも予行や中止を消さない。
「二重中止権は、どう書きますの?」
「術者本人か、安全担当のどちらかが停止を告げたら、理由を聞く前に全員が手を止めます」
エリナが答えると、サーラは自分を指した。
「安全担当はあたしだ。雨読みは雲と時刻を読む。医師は身体を見る。お嬢ちゃんは、自分の力を使うか決める」
向かいで一度うなずき、用紙へ書き始めた。
『姉の指示には従う』
その一行を見た瞬間、部屋の雨音だけが近くなった。
「そこは、あなたが直してください」
「間違っていますか?」
「私の指示に従うことを、安全とは呼びません」
ミレーユは炭筆の先を宙に浮かせた。やがて、書いたばかりの一行へ二本の線を引く。
『術者本人は、自分の判断で停止できる。安全担当の停止にも従う。開始合図があっても拒否できる』
「これなら?」
「もう一つ。中止の理由は、止まってから話す」
四人で、追記された文字を読み上げる。
最後に用紙の下へ署名欄を作り、ひとまとめに「姉妹」と書かず、役割ごとに線を分けた。
先に、妹が自分の名を書いた。エリナの筆跡を真似ない、丸みのある字だった。
その下へ、エリナも署名する。
紙を剥がす乾いた音がして、二人の手元へ一枚ずつ残った。
◇
夕方、診療所裏の観測庭には湿った草の匂いが満ちていた。
石で囲まれた試験位置にミレーユが立つ。十歩離れてエリナが水時計を持ち、サーラは赤い停止旗の横にいた。
空には低い灰色の雲が二層ある。今日は魔力を使わない。明日、どの層を対象にするか指し、開始から停止までの声と動作だけを確かめる。
「対象、下の一層」
エリナが告げた。
「風は西から。開始まで、五、四、三――」
「中止します」
ミレーユが手を上げる。
エリナは数えるのをやめた。サーラは赤旗を倒し、試験位置の外へ出る。誰も理由を聞かなかった。
風が草を伏せ、また起こした。
「……本当に止まるのね」
「止める練習で止まらなかったら、何の練習だい」
サーラは旗を拾い、泥を払う。
「次はもっと嫌な時に言いな。皆が待ってて、あと少しでうまくいきそうな時だ」
「ずいぶん難しい宿題ですわ」
「簡単なら、権利なんて名前は付かないよ」
条件書を開き、中止時刻を書いた。理由の欄には『手順確認』。それで予行は終わった。
門の方から馬の蹄が近づく。
泥の跳ねた伝令が庭へ駆け込み、サーラへ封のない報告紙を渡した。洪水被害村の堤防で、継ぎ目から再び水が噴いている。補修班が退避路を残したまま石枠を固定するには、雨脚の弱い時間が四十分必要だった。
「晴れにしてほしい、と?」
治りかけの手首を見ながら、妹が尋ねる。
「晴天は要らない」
エリナは雲の重なりを見上げた。
「雨が弱まりすぎれば、別の流域へ押し出します。現地の風と水位を見なければ決められません」
妹も空を見た。手首を隠さず、二層のうち低い方を目で追う。
「明日、基準を満たしていても、現地で私が断ってよいのね」
「はい。着いてからでも、始めてからでも」
条件書を四つに折り、外套の内側へしまう。
「では、雲を見てから決めます」
伝令の報告紙には、補修班の人数と退避路が書かれていた。その末尾へ、自分で一行を足した。
『全部は晴らさない。一層だけを試す』




