第49話 謝罪の前に測る
「ごめんなさい、お姉様」
国境の秘密診療所に朝の光が差し始めた時、寝台から聞こえたのは、挨拶より先の謝罪だった。
エリナは寝台の右側に立ち、向かいには夜通し馬車へ付き添った年嵩の医師がいる。窓辺の卓には、症状記録と切り開かれた白い手袋、封をされた儀式印の写し。外套を脱いだばかりの肩には、夜気の冷たさが残っていた。
ミレーユは昨日、晴れの祝福を重ねて倒れた。儀式簿から消された使用回数を持ち出し、姉を診療の立会人に指名して、ここまで逃れてきたのだ。
今すべきことは、妹を許すか決めることではない。熱と脈を安定させ、祝福機能の恒久損傷を防ぐこと。それを誤れば、ヴェルク宰相の次の儀式へ連れ戻される余地まで生まれる。
「起きないでください」
身を起こしかけたミレーユの肩へ、手を伸ばしかけて止めた。
「手首に触れてもいいですか」
「ええ。その前に――」
「その前はありません。話すと脈が上がります」
返事を待ってから、三重の環状印を避けて指を当てる。脈は速く、二度続いたあと一拍だけ浅くなった。額の布はぬるく、指先には細かな震えがある。儀式印の枝は脈に遅れて、鈍い赤へ明滅していた。
医師が温度票へ線を引く。エリナは持参した祝福記録と、卓上の症状記録を時刻順に並べた。
「倒れた昨日は、朝、昼、壇上前の予行で三回ですね」
「はい」
「一昨日は」
ミレーユの視線が、白い手袋へ落ちた。
「分かりません。夜会の前にも呼ばれました。でも、あれを一回と数えたのか、予行だったのか……皆が大丈夫だと言うので」
分からない。消えた回数の欄に、その言葉を記した。記憶のない時刻は、医師の温度票と馬車の出発記録から後で照合する。ここで埋めたふりをすれば、次に必要な休止時間まで短く見積もられる。
炭筆の芯が紙の上で折れた。削り直そうとした医師を手で制し、予備を受け取る。
「許しも、責任も、今は扱いません。隠れている回数を見つけて、熱を下げます」
「怒っていらっしゃるのね」
「はい」
短く答えた。ミレーユは目を閉じたが、笑って取り繕わなかった。
「それでも診るのですか」
「あなたが診療を求め、私が立会いを引き受けました。途中で別の話へ替えません」
扉のそばで、若い助手が薬盆を抱え直した。
「ご家族でしたら、冷却布の交換もお任せして――」
「私は立会人です。処置の担当は診療所に置いてください。妹にしか答えられないことは妹へ、医師にしか決められないことは医師へ聞きます」
助手は一瞬だけ目を丸くし、それから薬盆を医師の側へ置いた。家族という一語で役目をまとめられなかったことに、ミレーユの眉がわずかに動いた。
医師が新しい札を寝台の足元へ掛ける。
魔力休止基準。体温と脈、手指の震え、儀式印の熱がすべて基準へ戻るまで、祝福の使用を禁じる診療手順だ。誰かの許可や次の式次第で縮めないことまで、三人で読み上げた。
ミレーユが息を吐く。まだ速い。けれど先ほどより、寝台の布を握る力は弱くなっていた。
◇
午前の処置室では、水差しの底へ細かな露が集まっていた。
冷却布を替え、少しずつ水を飲ませる。熱が一段下がると、医師は寝台脇へ板を渡した。エリナは使用回数票の見出しを書く。
祝福の日時と強さ、回復時間、症状を記す。本人と診療者が一緒に残し、公的儀式簿から抜け落ちた予行や追加分も拾う票だ。
「朝の分は、どのくらいでしたか」
「広場の雲を全部。鐘が二度鳴るまでです」
「昼は」
「薄雲だけのはずでした。でも、端に残った雲も散らすよう言われて」
言われて。今日の票には、誰が、どこで、何を追加したかを一つずつ書いた。
ミレーユも炭筆を持つ。字は震えで傾いた。それでも、自分で覚えている回には自分の印を付け、曖昧な欄には「不明」と書いた。
「空欄の方が、見苦しくないでしょう?」
「不明と書けば、次に確かめられます。空欄は、なかったことにされます」
声が硬くなった。雨帳の角をそろえたくなり、代わりに票を医師の方へ半分押した。
「私だけで保管しません。診療所に原本、薬師組合へ写しを。本人にも一部」
「私にも?」
「あなたの身体の記録です」
医師がうなずき、三部の用紙を準備する。ミレーユは自分の分を受け取ると、しばらく紙の重さを確かめるように両手で持った。
完全休止と冷却は日没まで続ける。次に決めるのは当直だった。
「今夜は私が残ります」
口にしてから、書記台の勤務欄を見た。夜半、明け方、朝。すべてへ自分の名を入れれば早い。熱が上がるたび、自分で脈を取れる。
それは故国で、雨帳の空欄を一人で埋めていた頃と同じ並びだった。
「立会人は、寝ない役目ではありませんよ」
医師がさらりと言い、冷却布を絞る。
「夜半は私、明け方は助手が診ます。あなたは朝の照合に来てください。異常時は呼びます」
「呼ぶ基準を決めましょう。体温の再上昇、脈の乱れが続く時、印の枝が広がった時です」
「それで」
自分の名を、夜半の欄から消した。代わりに連絡先と、朝に引き継ぐ資料だけを書く。
ミレーユが見ていた。
「お姉様がいない間に悪くなったら」
「担当者がいます」
「でも、お姉様なら分かることが」
「私にしか分からない状態にはしません。今、三人で票を作ったのはそのためです」
医師が温めた野菜の汁を二人分置いた。味は薄く、豆だけが妙に固い。エリナは半分まで食べ、隣の休憩室で靴を脱いだ。
扉の向こうから紙をめくる音と、医師が時刻を告げる声がする。そのどちらも、助けを求める叫びには変わらない。
朝の勤務欄にだけ残した自分の名を確かめ、毛布を引き上げる。
眠りへ落ちる前、廊下を急ぐ足音が一度だけ止まり、また遠ざかった。呼ばれなかったことに安堵するまで、少し時間がかかった。
◇
翌朝、回復室の窓は少しだけ開いていた。
湿った草の匂いが入り、寝台脇の小卓では冷却布が畳まれている。エリナが入ると、ミレーユは枕へ背を預けたまま待っていた。医師と助手は奥の机で夜間記録を照合している。
体温は基準線まで下がった。脈の乱れも減り、指の震えは杯を持てるほどに収まっている。儀式印の中心に熱が残るかぎり、祝福は使わせられない。
「夜中に一度、印が明るくなりました」
ミレーユが自分の使用回数票を開いた。
「夢を見て、手を上げかけたそうです。助手の方が記録してくださいました」
「覚えていますか」
「壇上へ呼ばれていました。晴らせば薬をあげる、と」
華やかな声でごまかさず、事実だけを置いた。
エリナは夜間記録と見比べ、印の写しを卓へ出す。環から枝分かれする区切りを、海底の鎖状管を写した方位図へ重ねた。
節の数が同じだった。
印の外周から中心へ向かう順も、鎖状管の枝番号と合う。ただし、印が管を動かした証拠にはならない。管の反応を印が受けただけかもしれず、同じ設計者が似た区切りを使っただけという可能性も残る。
「一致した箇所と、まだ分からない因果を分けてください」
エリナが告げると、医師は記録紙の中央へ線を引いた。左に一致、右に未確定。装置を見つけた喜びで、患者の身体を試験器具にはしない。
医師も身を寄せる。ミレーユは白い手袋の下からもう一枚の薄紙を取り出した。儀式場で写させた原本写しだ。
「こちらは、取られなかった方です。使用履歴も一緒に」
受け取っても、すぐ照明へ透かさなかった。封番号と本人の印を確認し、診療所の記録袋へ入れる。
「一致は節数だけです。ここでは試しません」
「はい」
返事は早かったが、その後が続かなかった。やがてミレーユは、掛布の上に両手を置く。
「許してとは言いません」
声が一度かすれた。
「止めるために、私の祝福を使わせて。ヴェルク様が何をしているのか、私も知りたいのです」
「治療と交換にはしません」
「分かっています」
「協力するかも、今日決めません。明日の朝、使用上限と中止する権利を文書にして話します。あなたが直したい条件があれば、直してください」
ミレーユは少し困ったように眉を寄せた。
「私が、条件を直してもよいの?」
「あなたが使う力です」
謝罪の続きは来なかった。
エリナは面会時刻を使用回数票の下へ書き、医師にも確認してもらう。ミレーユは票を引き寄せた。
今日の使用回数の欄は、まだ空いている。
そこへ「使用なし」と自分で書き、その隣に、ミレーユ・ヴァルクールと署名した。




