第48話 祝福の反動
拍手が、遠い雨音のように聞こえた。
昼の光が満ちた故国の天候儀式場で、ミレーユは円壇の中央に立っている。左右には銀杖を持つ儀式官、正面の階段下には色とりどりの礼服を着た観衆。白い手袋だけが、妙に明るかった。
今日の祝福は朝から繰り返されている。西から流れてきた薄雲を次の鐘までに散らし、夕刻の凱旋行列へ青空を残す。それができなければ、晴れの聖女を待つ人々を落胆させ、明朝の大儀式から外されるかもしれない。
指の震えを隠すため、両手を胸の前で組んだ。
「さあ、ミレーユ嬢。あと少しです」
ヴェルク様は円壇の下から、いつもの穏やかな声を投げてくる。あと少し。その言葉は、昨日も一昨日も聞いた気がした。
「もちろんです。こんな薄い雲、すぐに――」
声の終わりが喉へ貼りついた。
空へ手を伸ばす。晴れの祝福は、雲の一部をほどき、よそへ流す力だ。無から雨は作れない。それでも頭上の灰色が裂け、青がのぞくと、広場は一斉に明るくなった。
拍手が増える。
よかった、と笑おうとした。誰もがこちらを見ている。ヴェルク様も、最前列の貴婦人も、花冠を持った子どもたちも。
その顔から順に白く消えた。
膝が石へ当たった音は聞こえなかった。白い手袋の下、手首だけが輪の形に焼けている。熱は腕を上り、歯の根を細かく鳴らした。
「晴れましたわ」
頬が石についたまま言うと、すぐそばの儀式官が息を詰めた。
「もう晴れています、ミレーユ様」
「そうでしょう? 皆、喜んで――」
拍手は続いていた。倒れた自分を見ているのか、晴れた空を見ているのか、もう分からない。
「お運びしろ」
ヴェルク様の声がした。
「次の儀式は日没後、一番星の刻と伝えておきなさい」
◇
夕方の治療室は、窓を閉め切っているのに寒かった。
寝台の脇では青い薬瓶が汗をかき、丸い雫を卓へ落としている。ミレーユは毛布を二枚掛けられても震えが止まらなかった。胸元には「魔力熱・疑い」と書かれた仮札が置かれている。
魔力熱。祝福を回復前に重ねた時、熱と震えが身体に残る反動だと、年嵩の医師は声を落として説明した。間隔を空けず使い続ければ、意識を失うだけでなく、力そのものが戻らなくなることもある。
「でしたら、今夜は休めばよいのでしょう?」
なるべく明るく言った。休んで、明日また笑えば、誰も困らない。
医師は答えず、仮札の端を親指で擦った。
扉が開き、ヴェルク様が入ってくる。従者は銀盆に、先ほどより大きな青い薬瓶を載せていた。
「ご心配には及びません。王室薬師の調合薬です。熱を下げ、魔力の巡りを整える」
「まあ、よかった。皆様にも、私はもう大丈夫だと――」
「次の儀式へお出になれば、十分な量をお渡ししましょう」
笑い方を忘れた。
「今夜、ですか?」
「三つの地域で水圧が乱れています。あなたの晴れは、多くの民を安心させる。国家が一人の休息を優先して混乱を招くわけにはいきません」
薬瓶は手を伸ばせば届く場所にある。青い硝子は涼しそうで、掌へ当てるだけでも熱が逃げる気がした。
指先を持ち上げた時、白い手袋の縫い目が裂けた。
医師が小さな鋏を入れ、手袋を手首まで切り開く。赤い環が三重に浮いていた。輪の内側から細い線が枝分かれし、脈と一緒に明滅している。
「これは、いつから?」
「儀式へ出れば残るものだと伺いました。皆様も同じだと」
医師の口元が動き、止まった。
卓の端に薄い紙束がある。今日の体温と脈を書いた私用の温度票らしい。上の頁がずれ、昨日、その前の日、さらに前の同じ時刻が見えた。どの頁にも高熱の線があり、横に小さく「祝福後」とある。
「私、公の儀式簿では昨日は一度だけだったはずです」
予行と、貴族館の庭と、夜会前の雲払い。三度使った。けれど儀式簿には、観衆のいた一回しか残っていない。
「今日の分を見せてください。これまでの使用回数も」
従者が紙束へ手を置いた。
「医療記録は管理下にあります」
「私の身体の記録です」
姉なら、もっと静かに言えただろう。根拠を三つ並べ、逃げ道まで用意したかもしれない。
ミレーユの声は、途中でひどく細くなった。
「昨日は三度。今日は、朝と昼と、壇上へ出る前の予行で三度。どうして一度と書かれているのですか。次に出てもよいと、どなたが診断したのですか」
「治療を受けてから、落ち着いて話しましょう」
ヴェルク様は薬瓶を一指分、こちらへ近づけた。
「協力を続ける限り、最善の治療を約束します」
欲しかった。熱を下げてほしい。震えを止め、きれいに笑える顔へ戻してほしい。そうすればまた、皆の前に立てる。
手は薬瓶の手前で止まった。
「診断書と、消していない使用履歴をください」
「今は必要ありません」
「私には必要です」
拍手は聞こえない。観衆もいない。白い部屋で、医師が息を殺している。
それでも口を開いた。
「いいえ。次は出ません」
ヴェルク様の顔から笑みは消えなかった。
「熱のために判断が乱れているようだ」
「乱れているなら、なおさら儀式には出せませんわ」
姉の言い方を借りた。けれど、声は自分のものだった。
医師が温度票を持ち上げる。
「少なくとも今夜の使用には、私は同意しません。移送して冷却と経過観察を続けます」
従者が扉を塞ごうとしたが、ヴェルク様は片手で止めた。
「構いません。国境の療養所なら、騒ぎにもならないでしょう」
その言葉が親切でないことくらい、今のミレーユにも分かる。
薬瓶は銀盆の上に残った。
◇
夜の医療馬車では、車輪が穴を踏むたび、小瓶同士が布の中でかすかに触れた。
窓は黒布で塞がれ、蝋燭も使えない。年嵩の医師は馬車の揺れを膝で受けながら、切り開いた白い手袋の上へ薄紙を置いた。炭筆で手首の輪をなぞり、節の数と枝分かれを写していく。
「一通では足りません」
ミレーユが言うと、医師は暗がりでこちらを見た。
「使用回数も、症状も、二通にしてください。一通を取られても、もう一通が残るように」
自分の口からそんな用心が出たことに、少し驚いた。
一通は国境の秘密診療所へ。もう一通は薬師組合の別便へ託すことになった。公の診療記録に入れれば、朝には儀式簿と同じように薄くされるかもしれない。
膝の上の便箋へ、最初に「お姉様」と書く。
ごめんなさい。
そこまで書いて、炭筆を止めた。謝らなければならないことは、いくつもある。姉の忠告を嫉妬だと思ったこと。雨帳を読めるふりをしたこと。拍手が欲しくて、押しやった雲の先を見なかったこと。
今ここで許しを求めれば、姉はまた自分より先に誰かを助けようとするかもしれない。
紙を裏返した。
『晴れの祝福を三日間、記録上より多く使用しました。高熱、手指の震え、意識の途切れがあります。手首に環状の印が残りました。次の儀式を拒否し、診療を求めます』
最後に、炭筆を何度も紙へ引っかけながら、自分の名を書いた。
『エリナ・ヴァルクール様を診療の立会人として指名します』
許してください、とは書かなかった。
姉が来るかどうかも分からない。来ても、優しい言葉をくれるとは限らない。それでも、拍手を待つよりは怖くなかった。
馬車が大きく曲がった。遠くで国境の鐘が一度鳴る。
写し取った儀式印と使用回数票を封筒へ入れ、白い手袋を証拠として重ねる。封蝋が固まるまで、ミレーユは自分の名から目を離さなかった。




