第47話 海底の鎖
夜明け前の海で、泡だけが潮に逆らっていた。
沿岸の作業船には覆いを絞った灯りが三つ。サーラは濡れた甲板へ片膝をつき、潜水具の胸留めを一つずつ引いた。潮風で指の古傷がこわばる。隣では潜水技師が空気管の継ぎ目へ油を塗り、エリナは船尾の机で三地域の観測時刻をそろえていた。
昨夜、大揚水機を止めても井戸の塩気は飲用線を越えたままで、沖には部品台帳の鎖状部品と同じ間隔で気泡が浮いている。次の干潮が終わるまでに海底の一節を確かめ、安全に止められるかを見極める。
手順を誤れば潜水班が潮にさらわれ、うまく閉じたつもりでも、行き先の分からない水圧を別領へ押しつけるかもしれない。
「技師長が先に入るんですか」
空気押しの若者が、手回し器の把手を握ったまま聞いた。
「現物を見ずに止め方だけ言うほど、偉くなった覚えはないよ」
「偉くなった人は、たいていそう言います」
「口が動くなら手も動かしな。潮は待たない」
潜水技師が笑い、重い靴を甲板へ置いた。朝飯の魚粥を食べ損ねた、と小さくぼやく声を聞くかぎり、海へ入る者の顔色は悪くない。
潜水索は命綱と合図を兼ね、一度引けば異常なし、二度で作業停止、三度で即時浮上。船から下ろす文字板には、沿岸井戸と候補二地域の圧力杭を同じ時刻で書くことにした。
「一か所でも危険線へ入ったら、試験は戻します」
エリナが時刻表の角を押さえる。
「沿岸の塩分が下がってもです」
「それを潜ってる間にも読める字で書いとくれ」
「もう大きく書きました」
文字板には、子どもの読み札ほど太い線で三つの欄が引かれていた。
海面すれすれまで下りたところで、沖の気泡が一つ弾け、間を置いて次が浮いた。泡の列は潮に流されず、暗い海の奥へ続いている。
サーラは胸留めを叩き、潜水技師と一緒に梯子を離れた。
◇
水の中では、鎚の一打が頭蓋へ直接届き、濁りを払っても見えるのは腕二本分ほど先までだった。
空気管から送られる泡が耳元を滑り、砂へ突き立てた灯りの輪を白く曇らせる。重い靴で海底を踏むたび、古い貝殻が割れた。
気泡の出る場所を追い、砂を手でよける。
金属があった。
一本の太い管ではない。腕ほどの長さの節が、輪金具で次々につながっている。どの節にも天冠の刻印があり、腐食を削ると枝番号が現れた。事故年の部品台帳にあった番号と同じ並びだ。
潜水技師が砂へ杭を打ち、灯りを固定した。サーラは継ぎ目へ指を当てる。海へ抜ける細い振動が、掌の傷へ残った。
鎖状管。複数の土地の地下水圧を、節から節へ送る海底配管だ。沿岸の淡水を沖へ逃がしているなら、地上の大揚水機だけ止めても塩水線が戻りきらない。
ただし、どこまでつながっているかは見えない。
接続節の側面に、潮で曇った小さな方位板が付いていた。針は岸を指さず、海岸線の先、北東へ向いている。流れの出口を示す板なら、その針は目の前の農地を越えていた。
隣の節へ灯りを移すと、輪金具の内側に細い傷が何本も重なっていた。傷の縁には古い潮錆が入り込んでいる。誰かが長いあいだ、潮の弱い時刻を選んで開閉してきた痕だ。
潜水技師が傷を数え、両手を広げてから三本指を立てた。少なくとも三方向。サーラは方位板の針と枝番号を写し板へ刻んだ。原因の全体は、まだ砂と海の向こうにある。ここは、触ればほかの土地が動く入口だった。
上から文字板が下りてきた。
『一節のみ。四分の一閉鎖。三地域監視』
サーラは潜水技師へ板を見せた。相手は弁輪の反対側へ回り、両手を添える。腐食へ油を差し、短い柄を差し込んだ。
一目盛り。
弁輪は動かない。
二人で力をかけると、錆が鈍い音を返した。砂が噴いて管の振動が弱まり、四分の一だけ閉じたところで柄を外し、目印の白紐を結んだ。
待つ。
潮はじわじわと戻っている。空気管が肩を押し、靴の周りの砂が沖へ細く流れた。
文字板が下りた。
『沿岸井戸 水位上昇 塩分低下』
潜水技師が親指を立てる。砂の上でも笑ったのが分かった。
海上では、井戸を囲む者たちが閉鎖続行を求めているはずだ。白くなった畑も、運び水を待つ子どもも、サーラの頭に残っていた。ここで弁を閉じきれば、あの土地だけは早く助かるかもしれない。
潜水索が、三度続けて強く引かれた。
新しい文字板が水を切って落ちてくる。
『北東領 圧力杭 危険線』
『西領 井戸底より噴出』
閉じた分は、見えない先へ押し返されていた。
潜水技師が弁輪と文字板を交互に指した。もう少し待てば数値が落ち着く可能性もある。沿岸の水位は戻り始めている。今ほど成功に見える瞬間はない。
サーラは白紐を切った。
柄を差し直して開く向きへ体重をかけたところで弁輪は半目盛りに噛み、戻り潮に引かれた空気管が肩へ食い込み、膝が砂へ落ちた。
潜水技師が浮上の合図を送る。
首を振った。
鎚の一打を輪金具へ当てる。音が頭の中で割れた。噛んでいた砂が吐き出され、弁輪が動く。二人で元の印まで押し戻すと、管の振動が掌へ帰ってきた。
文字板の危険線が消えるまで待つ余地はなかった。潜水索を三度引き、工具を籠へ入れ、浮上を始める。
開いた節から白い泡がまとまって噴き出し、砂に埋もれていた小魚が散る向こうで、方位板の針がわずかに北東へ振れた。押し込めた圧力が元の流れへ戻ったのだろう。確定するのは地上の数字を見てからだ。今は人を先に戻す。
海面へ出た時、岸から上がった声は歓声ではなかった。
「なぜ戻した!」
作業船へ寄せた沿岸役人が叫んでいる。
「井戸が戻り始めたんだぞ!」
サーラは面具を外した。塩水が顎から作業着へ落ちる。
「北東の杭が危険線へ入った。西じゃ井戸底が割れかけた」
「ここを救う話をしている!」
「こっちだけ助かる修理は、修理じゃないよ」
潜水技師が甲板へ上がり、魚粥の鍋を見た。
「まだ残ってますかね」
「温め直してもらいな。次は三領ぶん働くんだからね」
岸の者は唇を引き結んだ。別領の危険を知った目が多く、誰かが勝手に弁へ戻る余地はもうない。
◇
午後の仮設観測所は、濡れた服と紙の匂いでいっぱいだった。
中央の卓へ、海底から外してきた方位板を置く。サーラは乾いた上着へ替えたが、靴の中にはまだ海水が残り、立つたび踵で冷たい音がした。
三地域の通信員は、それぞれ自分の記録を離さない。沿岸役人は閉鎖を戻した損失を主張し、北東領の通信員はすでに圧力を送られた以上、海底作業そのものを禁じろと言う。西領の役人は噴出が偶然だった可能性を捨てていなかった。
エリナは説得しなかった。
沿岸井戸が上がった時刻、北東の圧力杭が危険線へ入った時刻、西領で井戸底の砂が吹いた時刻。エリナは三枚を同じ目盛りへ重ねる。
「閉鎖開始から四分後です。再開放の三分後には、二地域とも基準内へ戻っています」
「同じ装置だという証明には足りない」
西領の役人が言った。
「そうですね。ですから次は、三地域で同時に確かめます」
サーラは方位板を地図へ置いた。針の先は北東領へ向き、枝番号を逆にたどると西領の古い配管記号へ届く。海の下でただの目印だった板が、三枚の地図の端を一つの卓へ寄せていた。
「一つ閉じるなら、三つ見る。どこかが危険線へ入ったら戻す。誰か一人の景気のいい判断で触らせない」
「沿岸は、塩害を放置しろと?」
「輪番灌漑と生活井戸優先は続ける。潮止め堰も直す。次の試験までの苗損失は記録して補償する。待てと言うなら、待つ金も一緒に出す」
「監視員の費用もです」
北東領の通信員がすぐに足した。
「ああ、それも書きな。無償の善意を通信網にする気はないよ」
文面はきれいにはまとまらなかった。沿岸役人は試験日を早める条件を入れ、北東領は独自の中止権を求め、西領は危険線の数値を公開する者を限定したがった。
三領同時監視。三地域が同じ時刻に水位、圧力、塩分を読み、どこか一つでも危険線へ入れば操作を戻す暫定手順だ。
最後に残ったのは、同じ時刻で三地域を測ること。単独操作をしないこと。どの地域にも中止権を置くこと。操作と損失を同じ記録へ残すことだった。
次の試験は二日後の干潮と決まり、各地の通信鐘を半刻前から開き、見張りを二交代にする。沿岸の農園主には輪番表、西領には噴出時の退避線、北東領には杭の予備を今日中に届ける。署名だけでは、水も人も決めた時刻に動かない。
三人は互いを信用した顔をしないまま、暫定合意へ署名した。
外では遅い昼食の鍋が温め直されている。潜水技師が三杯目をよそおうとして、給仕に止められていた。
サーラがようやく椅子へ腰を下ろした時、秘密回線の受信鐘が鳴った。
一度。間を置かず、もう一度。
エリナが立って故国印の付いた細い紙を受け取ると、指先で角をそろえかけ、途中でやめた。
「ミレーユが、晴れの祝福のあとに倒れたそうです」
声は静かだった。
「治療は?」
返事の代わりに、紙が卓へ置かれた。
末尾には、治療より次の儀式の時刻が先に書かれていた。




