第46話 塩の上がる畑
「その水で洗わないでください」
朝の沿岸領で、共同井戸の桶を洗っていた女の手が止まった。汲みたての水は指を冷やすほど澄んでいる。けれど木桶の縁には、乾くたび白くなる輪が幾重にも残っていた。
昨夜、王都で見つかった部品台帳が、この農地の下に天冠刻印の制水装置があると示した。エリナたちは夜明けに到着し、潮位、揚水量、井戸の塩分を同じ時刻で測ろうとしている。原因を取り違えれば、次の満潮で塩水が種畑まで入り、飲み水と収入が一緒に失われる。
馬車で固まった膝を伸ばし、桶の内側へ指を滑らせた。白い輪の下はざらつき、上はまだ濡れている。
「いつからですか」
「桶に残るようになったのは三日前です。畑が白くなったのは、その前から」
答えたイネスは、東区画の共同井戸を毎朝測る小作人だった。腰の前掛けから、油染みの小さな井戸帳を出す。水位、汲み上げ時刻、桶に残った味を、読める者が交代で書いてきたという。
「それを勝手に外へ見せるな」
農園の管理人が畝の間を大股で来た。長靴の底には白い湿土が厚く貼りついている。
「使用人の覚え書きです。農園の揚水簿は別にあります」
「では、両方を同じ時刻で見せてください」
「私有帳簿です。公爵領の雨読みに命じられる筋合いはない」
サーラが大揚水機の軸へ掌を近づけた。朝の鐘が鳴ったばかりなのに、油受けから熱が上がっている。
「昨夜もずいぶん働いたみたいだね」
「干ばつの最中です。水を上げるのは当然でしょう」
管理人は否定しなかった。代わりに、イネスへ畑へ戻れと顎を振る。
彼女は井戸帳をしまわなかった。
エリナは白い結晶を紙へ包んだ。同型装置が地下にあるからといって、この塩まで同じ原因とはまだ決められない。井戸三か所の水位と塩気、大揚水機が動いた時間、満ち潮の時刻。まず重ねるのは三つだけだ。
サーラが三本の採水瓶へ、東、西、共同井戸の札を結んだ。イネスは井戸帳を開き、汲み上げ鐘の印を指す。東井戸だけ、夜半から朝までの印が二つ多い。管理人の鍵束には大揚水機の油が新しく付いていたが、エリナはそれを責任の断定には使わず、運転時刻を確かめる材料へ回した。
土も三か所から同じ深さで採る。表面だけ白い畝と、根のそばまで白い畝がある。塩の線は海から一様に来ておらず、大揚水機に近い区画ほど内陸へ伸びていた。
「次の満潮まで測ります。記録した方にも立ち会っていただきます」
「仕事を止めてまで?」
「止めるかどうかを決めるためです」
海風に干された魚の匂いが混じった。畝の先では、芽を出したばかりの葉が白く縁取られている。
イネスは帳面を抱え直し、管理人ではなく井戸のそばに残った。
◇
午後の臨時水利協議所には、同じ時刻でそろえた三枚の紙が並んだ。
窓の外では潮止め堰の古い板が、上げられたまま軋んでいる。満潮の塩水を抑え、干潮には余った水を海へ逃がす可動堰だ。今は留め具が錆び、役目を果たしていない。
沿岸最大の農園主は、井戸帳へ一度も目を落とさなかった。
「揚水を止めれば、明日には苗が枯れる。海に近い土地で塩が出た、それだけの話でしょう」
「強く汲むほど地下の淡水が下がります。そこへ満潮の塩水が押し込まれる。昨夜の長い揚水のあと、三つの井戸で同じ順に塩分が上がりました」
エリナは潮位線、揚水線、塩分線を指でたどった。説明はそこで止めた。
「農園の揚水簿では、夜半は通常量です」
農園主が私有帳簿を開く。数字はきれいにそろい、満潮の前後だけ時刻欄が空いていた。
「空欄を推測で埋めるつもりはありません。現場の記録者に聞きます」
「その女は水務官ではない」
「この井戸を測った人です。質問はイネスへ」
席の端で、井戸帳の角を押さえていた指が動いた。イネスは立ち上がらず、帳面を開く。
「鐘が二つ鳴るまでは、縄を両手で引けました。そのあとだけ、桶が底へ吸われたみたいに重くなります。朝には白い輪が一段上がる。三日ともです」
「味見で水利を決めるのか」
農園主の声には笑いがあった。
「いいえ。水位と時刻を決めます。味は異常に気づいた入口です」
言い返したあと、イネスは前掛けの端を握った。ここで勝っても、明日から畑へ入れなければ暮らせない。
「井戸を止める日の給金は、どうなるんですか」
協議所が静かになった。
正しさだけでは、畑の鍋は煮えない。
エリナは用意していた案の一枚目を裏返した。
「満潮前後は大揚水機を仮停止します。生活井戸を先に確保し、それ以外は農区ごとに使う時間と上限を交代させる。輪番灌漑です。地下水が戻る時間を作ります」
二枚目には、潮止め堰の留め具交換と、干潮時の排水手順。三枚目には、停止日の給金と苗の損失補償を置いた。
「二日間の仮停止費用は、緊急水務費から明朝支給する」
カイルが告げた。最も疲れた顔を探すように、農園主より先に耕作者の席を見ている。
「命令責任は私が負う。外れた場合の損失も記録し、補償する」
「二日で済む保証は?」
「ありません」
エリナが答えると、農園主の眉が上がった。
「ですから二日後に再協議します。戻った水位と塩分、苗の状態を見て、続けるか変えるかを決めます」
「私の水を、雇われた者の帳面で止めるのか」
「農地を使う人の記録を抜いて、水の行き先は決められません」
「停止中に乾いた苗は、金だけでは戻らない」
農園主は補償額の欄を二度叩いた。
「はい。だから全部を止めません」
輪番表の最初には、植え替えの利かない種畑と、共同台所へ回す豆畑を置いた。大区画の散水は夕方へずらし、堰を直す職人には別の給金を出す。イネスが表を見て、東区画の細い水路は二刻も開ければ足りると訂正した。
「一刻半です。昨日は戻り口が詰まっていました」
管理人が初めて彼女の帳面をのぞく。
「詰まりを直す者は?」
「私たちでできます。給金が出るなら」
農園主は納得しなかった。停止で枯れた苗は一株ずつ数えること、異議を議事録へ残すことを求めた。
沿岸役人が仮停止命令へ印を押す。続いて、今後の水利協議には土地所有者だけでなく、実際に井戸と畑を使う耕作者の席を一つ常設すると読み上げた。
「誰を座らせるかは、こちらで選ぶ」
農園主が言う。
「耕作者が選びます」
カイルの返事は短かった。
イネスの井戸帳は複写台へ運ばれた。最初の頁に受理番号が入り、その下へ、次回協議の耕作者代表として本人の名が書かれる。
歓声はない。
農園主は署名せず、異議欄へ自分の名を残した。それでも管理人へ、大揚水機の停止鐘を鳴らすよう命じる。
◇
夕方の干潮までに、大揚水機は止まった。
エリナは朝と同じ共同井戸へ戻り、石縁に膝をついた。水面は指一本ほど上がっている。塩分はまだ飲用線を越えたままだ。青い使用札は出さず、運び水を続ける。
運び水の荷車から、子どもが夕食用の壺を受け取っていく。朝には井戸桶を隠すようにしていた者たちが、今は水位をのぞき、イネスの読み上げる数字を聞いていた。
イネスは井戸帳の次の行へ、停止時刻と水位を書いた。白い輪のある桶も、洗わず証拠袋の隣へ置いてある。次回協議の欄には、耕作者たちが選ぶ代表の名を書くための空白が残された。
「畑は今夜、輪番の西区画だけだね」
サーラが潮止め堰の仮留めを確かめ、海岸の観測杭へ歩いた。
「地上の揚水で動いた分は、少し戻っています」
「少し、ね」
沖の水面で泡が弾けた。
一つ。間を置いて、もう一つ。さらに同じ間隔で、その先にも浮く。風で散った泡なら、こんなに行儀よく並ばない。
サーラは部品台帳の枝番へ紐を当て、気泡の間隔と見比べた。
「鎖の節と同じだ。下を見ないうちは、何を運んでるか決められないけどね」
潮はもう戻り始めている。今から人を入れれば、沖へ引かれる。
「潜水技師を集めます。潜水索と退避合図も先に」
「ああ。次の干潮で潜るよ」
サーラが索の必要な長さを測り始めた。
次の干潮まで、あと十二時間だった。




