第45話 弟の名がある帳簿
封を切る前に、カイルは出口の数を確かめた。
旧制水室の発掘区画には、翌朝の白い光が縦穴から差している。坑口へ戻る道が一つ、崩れた仕切り壁の横に退避用の細い通路が一つ。エリナは規制縄の内側で沈下杭を読み、サーラと発掘技師は新しい支柱の楔を叩いていた。横木を支えた腕には、昨日の重さがまだ残っている。
地下測量中の崩落で、天冠刻印の制水輪と事故年の封蝋箱が露出した。全員を地上へ戻した次は、原位置と封番号を残したまま箱を開き、弟が死んだ堤防事故とのつながりを確かめる。
ここで原本を損なえば、弟の死はまた父一人の失敗として閉じられる。壁の装置が今も別の場所で動いていても、止める手掛かりを失う。
「支柱、八本。坑内は四名まで。交代は半刻ごとだ」
人数を書き留めた記録官の手が、朝の冷気で赤くなっている。カイルは自分の名を入坑者欄から外した。
「私は入口に残る。現場はサーラ、証拠位置はエリナの指示に従え」
「昨日の今日にしては、聞き分けがいいね」
楔を咥えたサーラに言われた。
「職務停止中だからな」
笑ったのは技師だけだった。エリナは沈下杭から顔を上げ、口元をわずかに緩める。その間にも、規制縄の向こうで王都水務院の保全官が靴の泥を気にしていた。
「発見物は中央保管庫へ運びます。公爵家の事故に関わる箱なら、なおさら地方の手元へ置けません」
「運べる状態か、まだ分からない」
「王都の保管設備が最善です」
箱を中央へ移した瞬間から、誰がどこで封を見たかを証すのは、一つの役所の帳簿だけになる。
「原位置図、封蝋の欠け、箱の四面、立会人を先に残す。開封は複写台と封番号札が揃ってからだ。中央保管の判断は、その記録へ保全官自身が署名した後に行う」
保全官は不満を隠さなかった。
「公爵閣下は、王都の管理を信用なさらないと?」
「一人の信用で原本を預ける制度にしない。私自身も含めてだ」
返答はなかった。ただ、署名台へ向かう靴音が一段強くなった。
支柱が固定される。鏡付きの灯りで箱の周囲を照らし、発掘技師が泥を刷毛で払った。封蝋は片隅が欠けているが、蓋と箱をまたぐ線はつながっている。刻まれた年号も昨日の読みと同じだった。
制水輪の脇からは、細い金属札が数枚出た。天冠の刻印、その下に部品番号。さらに一枚だけ、方角を示す刻みと沿岸配置の文字がある。
「海側の部品まで、同じ表に載ってる」
サーラの声から皮肉が消えた。
「まだ同型かどうかは決めません」
エリナが答える。
「番号と位置をそのまま記録します」
箱の蓋が持ち上がった。中には油布、薄い板、帳簿の順に重なっている。乾いた外側と違い、帳簿の端は黒い水を含み、紙同士が貼り付いていた。
保全官の助手が薄刃を差し込もうとする。
「待て」
カイルより先に、エリナの声が止めた。
「剥がせば、下の文字も一緒に持ち上がります。透過板で上から読みます」
予定していた搬出はできなくなった。箱はその場に残し、支柱と沈下杭の監視を続けながら、一頁ずつ板へ移すほかない。
濡れた紙は、急ぐ者の都合では乾いてくれなかった。
◇
午後、仮設保存室の窓は東側一つだけ開けられていた。
カイルは机の出口側に座り、向かいにエリナ、右手に記録官を置いた。原本へ手を触れる者、読み上げる者、複写する者を分ける。壁際では保全官が封番号札を照らし合わせている。
失敗すれば、家族の古傷を開いただけで終わる。今も続く命令網へ届く証拠にするには、父に都合の悪い行も、ヴェルク宰相に都合の悪い行も、同じ明るさで読まなければならない。
透過板の下で、事故時水利運用簿の文字が浮かんだ。取水量と開閉時刻を起点に、命令番号と担当者、その後の退避判断と犠牲者までが一つの時系列に並ぶ。旧水務院の原本帳簿だ。
「事故前三時間。直轄取水令、受領」
記録官が読む。広域需要を理由に、地方堤防の通常上限を一時変更する王都命令。その命令欄に、ヴェルクの官印がある。
次の行では、取水量が朱色の上限線を越えていた。
「実行責任者」
父の署名だった。
紙越しの字は、幼い頃に見たものと変わらない。食卓へ置かれた許可証も、訓練の免除願いも、この角張った署名で決まった。弟と二人で父の執務机の前に立ち、返事を待った日の床模様まで覚えている。
「直轄令です。地方責任者に拒否は難しかったでしょう」
保全官が低く言った。慰めのつもりなのかもしれない。
「父は命じられた。父は実行した。両方を記してください」
さらに時刻を追う。
上限超過。水位警告。退避提案。
父の署名で、退避は延期されていた。
逆側から記録官が口を挟む。
「上位命令の記載は、照会が済むまで別紙扱いにもできます。先に事故責任だけを――」
「分けない」
声が自分でも驚くほど低くなった。
「取水を命じた者、実行した者、退避を遅らせた者。その結果を一つの時刻表へ残す。それがこの帳簿の役目だ」
次は犠牲者欄だった。
記録官の視線が止まり、透過板を戻しかける。
「開いてください」
「閣下」
「私が読みます」
手袋を外した。紙には触れず、板の端へ木の定規を置く。冷たさが掌へ移った。
列を上からたどる。
弟の名があった。
カイルは、その名を声に出した。幼い日に家族だけが呼んだ音が、仮設室の四方へ届く。しばらく聞こえなかった灯芯の爆ぜる音が、一度、耳へ戻った。
「記録してください。読み上げたのは私です」
記録官の筆が動く。
「父の責任を消すためではない。父だけで終わらせないためだ」
エリナは慰めを口にしなかった。代わりに、原本、立会複写、証言先の三欄へ空の封番号札を置いた。
「被害当事者として、証拠の評価から一部退かれる必要があります」
「ああ。保全命令までは私が出す。評価と認定は監察官、記録官、住民代表へ渡す」
弟の名がある行にも、ほかと同じ複写番号が振られた。
◇
夕方、王都水務調査会の長机には、原本を示す封番号札と立会複写だけが置かれている。
カイルは上座を使わず、被害当事者の席に立った。エリナと保全官、監察官、事故地の住民代表が、同じ複写を一部ずつ持っている。
「堤防事故の調査範囲を、地方の実行判断から直轄取水令の命令網まで広げる。私は保全責任を負う。証拠評価の議決には加わらない」
王都側の役人は、立会複写の角を長机へそろえた。
「古い命令を今の基準で裁けば、水務行政そのものが止まります」
「止めるのは証拠の移動と廃棄だ。現在の取水は、現行の安全基準で別に確かめる」
住民代表が複写を持ち上げた。
「公爵の父親の署名も、公開されるんですか」
「される。ヴェルク宰相の命令も、父の実行署名も、退避延期も、犠牲者も省かない」
賛同の声は上がらなかった。王都の役人は口を閉じたまま、住民代表も頷かない。それでも、二人の手は同じ複写から離れなかった。
記録官が証拠目録を閉じる前に、サーラが発掘区画から持ち帰った部品台帳を広げた。
「公爵。沿岸配置番号ってのは、飾りじゃないらしい」
天冠刻印の制水輪に使われた部品番号。その枝番を現在の水務図へ重ねると、王都から南東の海辺へ線が伸びた。終点は、今朝届いた塩害報告の農地直下にある。
伝令が革筒から井戸記録を取り出す。
「三日前から、畑の表面と井戸桶に白いものが残るそうです。飲み水にも塩気が出ています」
事故年の装置は、過去だけに埋まっていなかった。
「明朝、沿岸へ向かう。井戸の使用は生活分を優先し、揚水量を時刻別に残すよう先触れを」
エリナが部品番号を写し、サーラが海辺の水務図の端を押さえた。
乾いた紙から、白い粉が卓上へ落ちた。




