第44話 守られる順番
旧地下水路の入口では、朝なのに土の匂いがしなかった。
王都中央広場の敷石を外した縦穴へ、白い朝光が斜めに落ちている。エリナは入口脇に膝をつき、真鍮の撤退鐘へ結んだ縄を確かめた。冷えた石に触れていたせいで、膝が少しこわばっている。
昨日、ニルたち六人が別々の地点で見つけた沈下の輪。その中心に、事故年の雨帳が運び込まれたままの旧地下水路測量室がある。今日の目的は空洞の広さを測り、欠巻の搬出先を確かめ、入った人数を全員ここへ戻すことだ。
急げば、王都の地下で進んでいる沈下に追いつけるかもしれない。手順を飛ばせば、測量班も地上の住民も証拠ごと埋まる。
「二度鳴ったら、測定の途中でも戻る。復唱してください」
エリナの声に、測量員と護衛が順に答えた。
講習生は坑内へ入れず、地上の沈下杭と合図縄を受け持つ。ニルが鐘の舌を指で押さえたまま、縄の結び目を見ている。
「最初は地上からの確認。その次で全員撤退。三度目は?」
「ありません。二度で出ます」
「分かった」
念を押す顔が、昨日まで試験を受けていた子どもより、ずっと現場の観測者らしく見えた。
坑内の退避順位も、入口の板へ書いてある。負傷者、退路を確保する者、記録を持つ者、測量員、現場指揮者。狭い調査坑で危機が起きた時、誰かの身分や勇気で順を変えないための取り決めだ。
「公爵も、この順番に入るのかい」
補助支柱の楔を袋へ詰めながら、サーラが聞いた。
「もちろんです」
カイルは手袋をはめ、入口の幅と人数をもう一度見た。
「安全命令に違反した者は?」
「職務停止です。その調査から外します。身分は問いません」
「よく分かった」
返事が妙に素直で、サーラが鼻を鳴らした。
真鍮鐘は朝の光を鈍く返していた。入坑する前に一度だけ鳴らす。乾いた小さな音が、縦穴の底へ落ちていった。
◇
旧地下水路は、王都の下を走る空の川だった。
壁にはかつての水位線が白く残り、足元の溝は干上がっている。灯りを近づけても湿気はなく、古い支柱の表面から細かな粉が落ちた。
エリナは先頭を急がなかった。十歩ごとに退路の白縄を確かめ、測量員が天井高を読む間に、サーラが補助支柱を一本ずつ入れる。カイルは列の中央で、前後の人数と出口の明かりを見ていた。
坑道にある音は、靴底と金具と、時々落ちる砂だけだ。若い測量員が「昼食のパンまで石の味になりそうです」と小声で言うと、サーラは支柱の頭を叩いた。
「味見する前に戻るよ。腹を空かせて帰るまでが測量だ」
笑いは短かった。それでも、列の歩幅が一度そろった。
講習生たちは地上にいる。あの子たちが見つけた異常を確かめ、同じ六人へ結果を返すまでが今日の仕事だった。
曲がり角の先で、古い棚札が灯りに浮かんだ。
「請求記号、事故年の列です」
記録係が埃を払わずに読み上げる。数字は欠巻の貸出票と同じだった。棚そのものは空で、奥の壁だけが不自然に新しい石で塞がれている。
見つけた。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、床の傾きを測る。測量縄の錘が壁側へ寄っていた。足元では、砂粒が音もなく溝へ流れている。
「棚札と壁を位置記録へ。触れません。次の確認で戻ります」
「もう半刻あれば、壁厚まで測れます」
測量員が言った。
「半刻はありません」
空洞の広さより先に、戻れる時間を読む。乾いた天井は雨の前触れをくれない。代わりに、支柱の木目が一本だけ白く開いていた。
その時、地上から真鍮鐘が一度鳴った。
沈下杭の確認だ。
全員が顔を上げる。サーラが指で支柱を叩き、返った音を聞いた。
「一つ前の支えが痩せた。戻るよ」
エリナが撤退を告げるより早く、破裂音が走った。
音は入口側から来た。
石が擦れ、白縄が激しく跳ねる。カイルの腕が肩をさらい、壁際へ引いた。次の瞬間、横木が落ちて、さっきまで立っていた場所へ砂と小石が降った。
「エリナを先に!」
低い声が坑内を切った。
振り返ると、カイルが傾いた横木を肩と両手で支えている。その下で測量員が片脚を押さえていた。完全に潰れてはいない。だが、横木の端が外れれば一本退路が塞がる。
真鍮鐘が二度鳴った。
今度は小さくなかった。壁の内側まで震わせる二打だった。
「負傷者を先に。護衛一名、肩を貸して」
声が硬くなる。雨帳はないのに、指先が何かの角をそろえようとした。空いた手を握る。
「退路役は白縄と出口を確保。記録箱、その次です」
記録係が箱を抱えて狭い隙間へ入る。測量員たちは錘も図板も置いた。道具より人が先だと、入る前に全員で決めてある。
「私は支える。君が出ろ」
カイルは横木から目を離さなかった。手袋の縫い目に砂が詰まり、片足がわずかに滑っている。
「その順番は合意していません」
「今は私が持たせられる」
「一人で残る理由にはなりません」
エリナは補助支柱を拾い、横木の下へ斜めに差し込んだ。力任せでは届かない。床の石の出っ張りを支点にし、サーラが楔を蹴り込む。
「護衛二名、こちらへ。合図で横木を受けてください。サーラさん、楔をもう一本」
「あいよ。公爵、勝手に格好をつけるんじゃないよ」
両側から支えが入る。横木の重さが一人の肩から三本の支柱へ移った。
それでも、カイルは手を放さなかった。
「カイル閣下」
呼びかけると、青い目がこちらを見た。
「現場安全命令への違反です。職務停止。直ちに退避してください」
言葉を置いた途端、坑内の音が遠くなった気がした。
公爵の命令一つで覆せる。護衛も測量員も、それを知っている。エリナ自身も、命令が通らなければ次に何を捨てて全員を動かすか考えていた。
カイルは一度だけ、出口と残った人数を数えた。
「現場責任者に従う」
横木から手を離す。護衛が左右から支えを受け、サーラの楔が深く入った。
「先に出る。だが、君も順位どおり戻れ」
「はい」
短い返事しかできなかった。
カイルが白縄に沿って退路へ入る。濃紺の外套が曲がり角へ消えるまで見届けてから、残った測量員を出した。
壁の奥で、また石が鳴る。
空の棚札が灯りの端に残っていた。あと一歩戻れば、塞いだ壁の継ぎ目を見られる。事故年の欠巻が、その向こうにあるかもしれない。
「エリナ!」
出口側からサーラが一度、鐘を打った。確認の合図だ。
「最後尾の仕事は、最後まで残ることじゃない。出ることだよ」
足を棚から外した。
白縄を握り、出口へ向かう。背後で砂が流れ続けていたが、白縄が出口の明かりへ導くあいだ、もう振り返らなかった。
◇
地上の光は、坑内で考えていたより白かった。
エリナが縦穴を上がると、講習生たちが入坑札を地面へ並べていた。ニルが札と顔を一人ずつ見比べる。
「負傷者一人。全員います」
「もう一度」
自分の耳でも、名を追う。測量員、護衛、記録係、サーラ、カイル。最後に自分。
欠けていない。
書記の娘は退避にかかった時刻を書き、技師見習い二人は担架の脚を水平にした。避難民の記録係は、坑内班の名と受領した箱の封番号を声に出して照らしている。昨日は六枚の札を地図へ置いた手が、今日は戻った人を一人ずつ地上へつないでいた。
負傷した測量員は踵をつけられずにいたが、救護係へ悪態を返す元気はあった。
「パンは石の味でしたか」
ニルが聞く。
「食べる前に追い出されたよ」
その返事で、張り詰めていた広場へ笑いが戻った。記録箱の封も切れていない。地上の沈下杭は二本傾き、広場には規制縄が張られ始めている。
カイルが土の付いた手袋を外した。
「命令を無視した。すまない」
言い訳を探さず、短く頭を下げる。
「私だけを先に出しても、残った方を置いてはいけません」
「分かっているつもりだった」
過去形にした声が、少し苦かった。
「次に君が同じことをしたら、私も止める。公爵としてではなく、合意した一人として」
真鍮鐘の縄が、まだエリナの手に残っていた。指を開くと、細い麻の跡が掌へついている。
「その時は、私も従います」
すぐに安心できるほど、器用ではなかった。今の返事を撤回したくもなかった。
サーラが二人の間へ泥だらけの楔を置く。
「仲直りはあと。壁の向こうを見な」
崩落で、新しい石壁の端が地上からも見通せる角度に割れていた。規制縄の外から鏡付きの灯りを差し入れると、隙間の奥で金属が光る。
円い輪。その縁に、王都の弁箱や古堤防石と同じ天冠の刻印がある。
さらに下には、黒ずんだ帳簿箱が挟まっていた。封蝋は割れていない。
「誰も入れません。区域を閉鎖して、支保後に正式発掘します」
今度は反対する声がなかった。
記録係が鏡越しに箱の年号を読み上げる。
それは、カイルの弟が死んだ年だった。




