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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
名を取り戻す水務監

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第43話 最初の六人

 番号札には、名前を書く欄がなかった。


 朝の臨時雨読み講習所で、ニルは四角い木札を自分の魚印の水位札へ重ねた。窓から差す光はまだ白く、六脚の椅子は反り方も脚の長さもばらばらだ。正面の机ではエリナが、裏返した札を一枚ずつ配っている。


 昨日、事故のあった年の雨帳が一束だけ、旧地下水路測量室へ運ばれたままと分かった。そこを調べるには王都での現場資格が要る。今日の匿名観測試験に受かれば、講習生も測量に加われる。


 落ちれば、欠けた雨帳を追えない。それより嫌なのは、地下で妙な音を聞いても、貧民区の子どもの勘として捨てられることだった。


「番号を見せ合わないでください」


 エリナの声は、雨量を読み上げる時と同じ静かさだった。


「匿名観測試験では、氏名と出身を伏せます。採点するのは、観測値、使った道具、根拠、誤差、それから分からない点です」


 向かいの書記の娘は、もう鉛筆の先を整えている。二人の技師見習いは測り縄の結び目を確かめ、避難民の記録係は番号を一度で覚えたらしく、札を伏せたままにした。


 ニルは文字を書くのが一番遅い。


 魚印なら、濡れた指でもすぐ描けた。けれど今日は使えない。自分の名も、住んでいた井戸端も、誰に水位棒を教わったかも、札の裏へ置いていく。


「正解が分からなかったら?」


 誰かが尋ねた。


「分からないと記してください。空けて隠した記録より、次の人が確かめられます」


 ニルは番号札の紐を手首へ巻いた。


 六人はそれぞれ、別の井戸と測量杭へ向かった。


◇


 正午の鐘が鳴るころ、下町の古井戸には薄い日陰が半分だけ残っていた。


 ニルの持ち場は、旧地下水路測量室から西へ三筋離れた広場だ。井戸番が巻き上げ桶を外し、王都の採点官が石縁のそばで時刻を書いている。ここで水位と地面の響きを測り、条件を残す。それが今の仕事だった。


 失敗すれば、この下で進んでいるかもしれない異常が、ただの測り違いに戻る。


 測り縄を下ろす。昨日、技師見習いと確かめた結び目は、水面のところで朝より指一本ぶん沈んだ。


「器具の伸びは?」


「乾いた時と濡らした時を、先に測りました。違いは爪の厚さより小さいです」


 言いながら記す。遅い。採点官の紙では、もう二行目まで埋まっていた。


 次に、同じ大きさの小石を落とす。ぽちゃん、と水が鳴り、その余韻が消えてから、こつ、と乾いた音が返った。


 井戸の底より浅い。石の壁の向こうだ。


 貧民区の共同井戸では、誰かが桶を落とせば、夕餉の支度をしている家まで音が伝わった。水が少ない日は高く、濁りが増えた日は鈍い。ニルは字を覚えるより先に、明日の桶が底へ届くかを音で数えていた。


 王都の井戸は石積みが厚く、縄も上等だ。それでも、水のある場所と、何もない場所では返る音が違う。


 もう一つ落とす。水音。少し遅れて、こつ。


「表の荷車でしょう」


 採点官が通りを見た。粉袋を積んだ二台が石畳を鳴らしている。


 そうかもしれない。王都では貧民区より車輪が多く、聞き慣れない町で、聞き慣れたつもりになる方が危ない。


 ニルは札へ「荷車、通過中」と書いた。文字が枠からはみ出した。


「次の測定へ移ります」


「もう一回だけ。車が曲がるまで待ってください」


 採点官は眉を寄せたが、井戸番が桶の縄を手にしたまま動かなかった。


 車輪の音が角を曲がる。市場の呼び声も、昼鐘の余韻も薄くなった。


 番号札の紐へ小さな輪を作り、同じ高さで小石を止める。指を開いた。


 ぽちゃん。


 こつ。


 乾き返りだ。地下の空洞面から、井戸の水音より少し遅れて戻る。空洞の広さも深さも、ここだけでは分からない。


 札の「判定」欄へ鉛筆を置いた。


 空洞あり、と書けば早い。首席らしい答えにも見える。


 「分からない」と書いた。その下へ、石の大きさ、落とした高さ、荷車がいた時刻と去った時刻、二度とも返った音を詰め込む。最後の字は、紐の穴へ少しかかった。


 採点官が札をのぞき込む。


「答えを出さないのか」


「一個の井戸じゃ、大きな穴か、小さな工事跡か分かりません」


 井戸番が、縁の古い縄溝を指でなぞった。


「ここは先月まで、一度しか鳴らなかったよ」


 ニルはその言葉を証言欄へ足し、井戸番に時刻を読んでもらった。


 番号札は朝より汚れていた。魚印はない。それでも、聞いた音を消さずに持ち帰れる。


◇


 夕方の講習所では、六枚の番号札が地図机に伏せられていた。


 エリナと司書、王都の採点官が点を付ける間、講習生は壁際の椅子に座り、窓の向こうでは帰りの荷車が長い影を引いていた。


「この異常値は、採点から外すべきです」


 採点官が一枚を指で押さえた。ニルの札だった。


「判定が『分からない』です。水位も、他の標準井戸と合わない」


「条件は残っています」


 エリナは札を裏返さないまま、石の大きさと高さ、二回の時刻、井戸番の証言を読んだ。


「誤差を隠さず、別の原因も試しています。この試験で最も再確認しやすい記録です」


 書記の娘が膝の上で鉛筆を握り直し、技師見習いの一人は悔しそうに自分の測り縄を見ている。誰の札がどれか、まだ分からない。


 エリナが首席の番号を読み上げた。


 ニルの手首には、同じ番号の紐跡が残っている。


 すぐには立てなかった。水音を聞き違えない耳より、王都の椅子から落ちない座り方の方が難しい。


 エリナは首席札だけを表へ返した。


「記録者、ニル。根拠と、分からない範囲を残した報告を首席とします」


 自分の名が、魚印のない札から聞こえた。


 技師見習いが先に机を叩く。書記の娘も続き、避難民の記録係は「字、全部読めました」と笑った。


「枠から出たけどな」


 やっと言い返すと、笑い声が一つ増えたところで、終わりかけた採点を司書が止める。


「待ってください。乾いた反響は、ほかにもあります」


 別の番号札が開かれるたび、測量杭の沈みや井戸縁の傾き、朝より下がった水位に乾いた二つ目の音まで地図机へ増えていった。


 六人の記録時刻は、正午の鐘の前後に集まっていた。


 書記の娘の札には鐘楼の時刻が細かな字で並び、技師見習いの札には測り縄の伸び幅が図で添えられている。避難民の記録係は、井戸番が「先週から桶を戻す手が軽い」と話した言葉をそのまま残していた。ニル一人では書けなかった形で、同じ地面が六枚に現れている。


 エリナが地図へ六枚を置く。薄青い糸で地点を結ぶと、王都の中心を囲む輪になった。ニルの井戸から中心へ近い札ほど、乾き返りの間が短い。


 輪の内側に、旧地下水路測量室がある。


「全員、条件をもう一度読み上げてください」


 首席札も、ほかの五枚と同じ向きへ戻された。


 六人で読めば、測り違いではなかった。地面の下に広い空洞があり、その天井が同じ時刻に沈んでいる。


 窓の外で、石の擦れる音がした。


 広場の敷石が一枚、隣より指一本ぶん低くなっていた。

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