第42話 雨読み学校
「その札の角、ずいぶん行儀がいいね」
夜明け前の王立文庫で、サーラは目録机の端を爪で弾いた。
高窓はまだ青く、司書が未整理室から運んだ木箱が壁沿いに積まれている。エリナの前には、昨夜受理された七枚の仮索引と、新しく切った索引札が並んでいた。どれも角がぴたりとそろっている。
余白に残った雫や輪の符号を、公式著者名と担当年、百年分の雨量へ結び直す。消された女性雨読みの仕事を、確かめられる形で戻すための索引だ。
七枚で一日。未整理箱は、奥の扉まで続いていた。
急いで誤読すれば、名誉を戻すための索引が、別の誰かの仕事を奪う。けれど、このまま自分だけで続ければ、雨の偏りが始まった年を探すだけで数年かかる。
「手を増やせば、同じ訂正線を別人のものにするかもしれません」
「だから、あんたが全部やる?」
硬くなった声に、サーラの皮肉が消えた。
「同じじゃないか。表紙に一人の当主名を置いて、下で何人働いても見えなくするのと」
返しかけた言葉が、机の上で止まった。
索引札の隣には、昨夜運ばれた豆煮がある。薄い脂が白く固まり、匙は手をつけないまま盆に伏せられていた。
「教える時間が必要です。確認も増えます」
「増やしな。早さのために名前を間違える学校なら、戸口から閉めときな」
サーラは札を一枚抜いた。余白符号、公式名義、雨量。三つの欄を見て元へ戻し、固まった豆煮の盆をエリナの前へ押した。
札の裏には、照合者の欄もあった。自分の名だけが、七枚すべてに並んでいる。
「正しさまで抱えて倒れたら、誰がその続きを教えるんだい」
エリナは冷えた匙を持ち上げた。豆煮は驚くほど塩辛い。
それでも、二口目は一口目より食べ物らしい味がした。
◇
昼の王都水務会館では、会議用の長机が二つ、空き室へ運び込まれていた。
片側に王立文庫の司書とカイル、もう片側に応募者たちが座っている。下町の書記、二人の水路技師見習い、避難民の記録係。それに、アルヴェーン領から来たニル。合わせて六人だった。
机の中央には雨帳の複写と、古い量筒、欠けた大瓶が置かれている。原本は文庫から出さない。複写を読んだ者、別の資料と照らす者、最後に数え直す者を分ける。
「臨時雨読み講習所、と記録します」
エリナは黒板へ名を書いた。
「ここでは、王立文庫の索引を作りながら、観測と史料の読み方を学びます。雨帳に触れたことがなくても構いません」
雲の形を言い当てる試験ではない。いつ、どこで、何を使って測ったか。元の数字を残して直せるか。土地ごとに違う呼び名や器を、似ているというだけで一つにしないか。
黒板の最初の三行へ、エリナはその順で書いた。
カイルは六つの木杯へ水を注ぎ、机の端へ置いた。説明が始まる前から、技師見習いの一人が乾いた唇を気にしていたのだ。
「飲む時間は講習時間から引きません」
その一言に、応募者たちの背中が少しだけ椅子へ戻った。
年長の司書が契約案を持ち上げた。
「善意の写字人なら、もっと集められます。公の名誉を戻す仕事です。希望者に手伝っていただいては」
膝の上で帽子を握ったのは、避難民の記録係だ。朝は配給所で働き、空いた時間だけ字を覚えてきたと申込書にあった。
「無給、という意味でしょうか」
「学ぶ機会が報酬になります」
昔、自分もそう言われた。家の役に立てる。婚約者の名で世へ出る。学べるのだから給金は要らない。
契約案には「善意の協力者」とある。
エリナはその語へ一本線を引いた。元の文字が読めるように残し、横へ「有給講習生」と書く。
「学ぶ時間も仕事です。作業単価とは別に講習時間の給金を出してください」
「誤読で目録を損ねた時は?」
「原本管理は司書。教材は複写。最終記録は三者照合です。手順を守った誤りを、講習生だけの借金にはしません」
カイルが契約案を受け取り、予算欄へ金額と支払日を記した。
「責任者は?」
「私です。ただし、私の読みも三者照合へ入れます」
「君だけを例外にしない、でよいな」
「はい」
全員の名が、最初の担当者欄へ並んだ。
ニルは自分の名の横へ、慣れた魚印を小さく添えた。書記の娘は一度で古い単位を換算したが、「庭師用の大瓶」で首をかしげる。技師見習いは欠けた器の内側へ砂を詰め、今の量筒で量り直した。
「分からない箇所は、空けてよいです」
エリナが言うと、帽子を握っていた記録係が顔を上げた。
「空欄にしたら、働いていないことになりませんか」
「分からないと記した人が、次の照合者へ問いを渡せます。何も書かずに隠す空欄とは違います」
黒板へ、読解者、照合者、再検算者と三つの役目を書く。
講習生たちは自分の札を、隣の者へ回した。
◇
夕方、臨時雨読み講習所の机は、年代ごとの索引札で埋まっていた。
速度だけなら、書記の娘が一番だった。けれど、古い単位を新しい単位へ直した欄で、技師見習いが小さく手を挙げる。
「この年だけ、容器の修理記録が先です。容量が違うかもしれません」
司書が修理台帳を開く。底を張り替えた後の大瓶は、以前より一杯分が少なかった。
書記の娘は唇を結んだが、自分で訂正線を引いた。
「見つけてくださって、ありがとうございます」
「こっちも地名を一つ飛ばしてた」
技師見習いが自分の札を返す。
謝罪も勝敗も、そこで長引かない。二人は元の数字を残したまま、換算をやり直した。
エリナの担当札も、避難民の記録係から戻ってきた。余白符号の位置を一頁取り違えている。指摘欄には頁番号が二つだけで、責める言葉はなかった。
「私の誤りです。直します」
口にすると、肩に入っていた力が少し抜けた。
札を年代順に置いていく。抜けがあれば、請求簿で未整理、貸出中、修理中のどれかを確かめる。一枚ずつなら頼りない紙片が、机の上で長い列になった。
その途中で、ニルが立ち上がった。
「ここ、魚なら一匹抜けてます」
司書が目を細める。
「魚?」
「番号です。前と後は続いてるのに、この年だけ、同じ束がいません」
読み上げてもらうと、事故のあった年だけ請求記号が一群まとめて飛んでいた。六人はそれぞれの年代札を見直す。前の年にはある。次の年にもある。欠けた束だけ、貸出票が別の紐で綴じられていた。
搬出先、旧地下水路測量室。
返却欄は白い。
「紛失でしょうか」
「まだ分かりません」
エリナは紙へ触れずに答えた。
「未返却、移管、記録漏れ。確かめるまでは分けて置きます」
発見者欄を全員へ回す。番号の穴を見つけたニルに続き、残りの五人が前後の札を確かめた。全員が順に署名し、その時間も有給担当記録へ入った。
「私たちの名も、目録に残るんですか」
避難民の記録係が、乾きかけた字を見つめている。
「今日、どの札を読み、誰と照らしたか。そのまま残します」
後から誤りが見つかった時、直す人が仕事の道筋をたどれるようにするためだ。
記録係は帽子を握らず、今度は自分の署名の下へ時刻を書き足した。
窓から差す夕日が、机の端の番号札を透かしている。
「欠巻の搬出先を調べます。ただし、皆さんはまだ王都での現場資格を持っていません」
期待と不安が、六つの椅子で別々の形を取った。
「明朝、身分と名前を伏せた観測試験を行います。見るのは正解だけではありません。条件、根拠、誤差、分からない点を残してください」
番号札を一人ずつ手渡す。
最後に受け取ったニルが、表の数字と裏の空白を見比べた。
「音も、書いていいですか」
「聞いた条件と時刻を書けるなら」
ニルは番号札を、魚印の水位札と同じ手つきでしまった。




