第41話 余白の作者
「著者名は、表紙にある当主のお名前です」
朝の王立文庫、その奥にある雨務史料閲覧室で、司書は最初の一冊を白布の上へ置いた。高窓の光はまだ青く、記録官は入口寄りの机で貸出票をそろえている。エリナの左右には、百年分の雨帳を詰めた木箱が六つあった。
昨夕まで調べていた雨水瓶では、王都の外縁から雨が減り、離れた三地点だけ濃くなる偏りが見つかった。瓶より古い空をたどり、偏りが始まった年と向かった先を突き止める。そのために、夜明けの開館時刻からここへ入った。
見つけられなければ、人為的水循環操作は開始年のない仮説のままだ。水を動かした仕組みも追えず、次の渇水を止める手掛かりが遅れる。
「承知しました。まず、採取地と雨量を年代順に抜きます」
革表紙を開くと、乾いた紙の匂いが立った。著者、グレディス伯爵。次の巻も、その次も同じ名である。
ただ、雨量の単位は揃っていなかった。古い巻は桶、新しい巻は量筒、その間には「庭師用の大瓶一杯」という困った記述まである。改装の年に移された巻は配架も前後し、十五年分を並べただけで机の端が埋まった。
同じ村も、領主が替わると呼び名が変わる。昨夕まで三地点の一つとして札へ伏せていた北の高地は、四十年前の帳面では修道院領、さらに前は羊飼いの谷とあった。地名を新しい呼び方へ寄せれば早いが、別の土地を同じ場所にしてしまえば、百年前の空を作り替えることになる。
エリナは換算欄を作り、元の数を消さず横へ書いた。三地点の旧名が出るたび、昨夕の瓶番号も添える。急ぐほど、確認する欄は増えた。
午前の半ば、同じ頁の隅に小さな染みを見つけた。
雫の下に、短い線が二本。
次の月にもある。半年後の頁にも。雨量欄の訂正が入った日だけ、決まって左下へ置かれていた。
「この印は、文庫の整理記号でしょうか」
司書は丸眼鏡を上げ、顔を寄せた。
「いいえ。請求記号は頁の右上です。インク跳ねではありませんか」
そうかもしれない。起点を探しに来たのだ。古い染み一つへ時間を使えば、今日中に十年分も進まない。
紙片へ頁だけ控え、雨量の列へ戻った。
けれど、頁を送るたび、雫は同じ場所からこちらを見ていた。
◇
午後、閲覧机には雨帳より細い紙片の列が増えていた。
エリナは数値の抜き出しを止めてはいない。記録官に年代と採取地を読み上げてもらう横で、余白の印がある頁だけ別の紙片へ控えた。司書は最初こそ渋い顔をしていたが、古い巻を傷めない薄い重しを二つ貸してくれた。
「同じ当主の時代なのに、こちらは誤記を塗りつぶしています。こちらは一本線で元の数字を残している」
「清書役が違ったのでしょう」
「はい。では、著者と書いた人は同じでしょうか」
司書の眉間に皺が寄った。
同じグレディス伯爵名の二巻を並べる。一方は朝鐘を丸で囲み、もう一方は風向きを先に書く。数字の七の払いも違う。表紙の名が同じでも、観測する手は途中で替わっていた。
反対に、当主名がグレディス伯爵から息子へ替わった巻を開いた。
雫の下に二本の線。
その前後十八年、同じ筆圧で残っている。誤記は一本線、正しい数は欄外。夕立の時刻だけ半刻単位で細かく、風向きは必ず後から加える。その癖まで、当主の代替わりを越えて続いていた。
「家の印なら、当主が替わっても残るのでは?」
記録官が尋ねた。
「それなら、同じ家のすべての巻にあるはずです」
印のない三年分を開く。そこでは訂正が塗りつぶされ、時刻は朝夕の二つしかない。次に雫が戻る年から、半刻ごとの記録も戻っていた。
司書が別の紙片を差し出した。輪の下に一本の線。雫二線と形は似ているが、線の端が細く、訂正箇所より採取地名の横に多い。
「これも同じ方でしょうか」
答えかけて、二冊を離した。
似ているだけだ。こちらの書き手は数字の四を閉じて書き、誤記を二本線で消している。都合よく一人へまとめれば、名を奪った表紙と同じことを自分の手でする。
「別の符号として置きます。つながる根拠が見つかるまでは」
予定していた雨量表の線は、まだ途中だった。その隣で、別の線が百年前から続いている。
自分の第一雨帳にも、一本線で誤記を残した。トリスタン名義の論文へ写された時、その線まで彼の仕事にされた。
紙の乾いた匂いに、息が詰まる。
「余白署名、と仮に呼んでもよいでしょうか」
「署名と言い切る根拠は?」
司書の問いは厳しかった。だが、頁を閉じはしない。
「固有の符号、筆圧、訂正法、担当した期間。この四つを一組にして示します。今は本名を推定しません」
当主名の違う二冊を、雫が同じ高さに来るよう並べた。
「名前ではなく、直した人の手が残っています」
声を張る必要はなかった。
新しい索引紙を一枚取り、最初の欄を作る。公式著者名。余白符号。推定担当年。筆跡と訂正の根拠。
観測責任者名の欄には、まだ書ける名がない。
空欄のままにはせず、「雫二線」と記した。
◇
閉館前の目録机には、仮索引が七枚並んだ。
男性当主の名は消していない。その横へ、雫一線、雫二線、輪と短線という三つの符号が加わった。担当年は重なる箇所もあり、一人でなく複数の観測者が同じ季節を分けた可能性がある。
エリナは断定できる範囲を青線で囲み、筆跡が似ているだけの箇所には疑問符を残した。
「この形なら、仮目録として受けられます」
司書が七枚を順に確かめた。
「ただし、公開展示や正式な著者注記には、別の巻との照合が要ります。符号だけで人物名を付けることもできません」
「はい。名が分からない方を、別人の名で埋めたくありません」
「展示をお考えなのですか」
少し迷ってから、頷いた。
「誰が観測したか確かめられる形で。少なくとも、当主一人が何代もの空を見たことにはしないために」
記録官が貸出票の束を持ってきた。昼には温かかった糊が冷え、端が指へ張り付く。
「次の箱ですが、請求番号が飛んでいます。未整理箱へ移された物と、返却欄が空の物が混じっているそうです」
「欠けた番号だけ、先に一覧へできますか」
「番号だけなら。ただ、未整理か貸出中か、失われたのかは一冊ずつ見ないと」
司書が未整理室の鍵束を持ち上げた。小さな鉄札が触れ合い、閉館の静けさに細い音を散らす。
「今日の七枚と同じ照合を、すべてに?」
「雨量の起点も探します。その観測をした方も」
言ってから、まだ開けていない木箱を見た。壁際の未整理札は、さらに奥の扉まで続いている。
雨量だけを写すなら、一年を数枚で済ませられる。符号と筆跡を照らし、訂正した手まで拾えば、今日一日で七枚。
閉館の小鐘が鳴る。
司書が雨帳へ白布を掛ける間に、エリナは仮索引の担当者欄へ日付を入れた。自分の名を書く場所で、ペン先がわずかに紙を引っかいた。
七枚を専用箱へ収める。エリナは、次の空紙へ手を置かなかった。




