第51話 晴れを一枚だけ
水時計の浮きは、四十分の目盛りで止められていた。
洪水被害村の堤防へ朝の雨が斜めに吹きつける。ミレーユは白い退避線の内側に立ち、左にエリナ、右手の土手上には赤旗を持つサーラがいて、濡れた外套の内側では二枚綴りの条件書が肌へ冷たく張りついている。
昨日、姉妹は赦しを棚に置いたまま、祝福を一回、雲一層の低出力へ限ると決めた。本人か安全担当のどちらかが止めれば、理由を聞く前に全員が従う。今日は、その条件で継ぎ目の補修時間を作れるか試す。
失敗すれば、噴き出す水が石枠を外し、補修班は退路ごと流される。力を重ねれば、手首の魔力熱が戻る。全部晴らして雨を別の流域へ押しやれば、ここを救った水がよその村を襲う。
「雲を全部、消してくださらないのですか」
退避線の外から、年嵩の村人が声を張った。隣では、雨除け布の下に集まった子どもたちがこちらを見ている。期待に輝く目は、壇上の灯りより近かった。逃げ場がない。
「全部は消しません。堤防の継ぎ目を留める間だけ、下の一層を薄くします」
「晴れの聖女様なら、もっと――」
「聖女じゃ、土嚢の紐は結べないよ」
サーラが風板の脚を泥へ踏み込んだ。
風板は、雲の下を通る風向きを短時間だけそろえるため、角度を変えて扇状に立てる板だ。七枚の銀色の目盛りが西風へ向き、補修班の背後には高台へ続く縄が張られている。
「お嬢ちゃん。誰のために晴らすかじゃない。どこを、どれだけ、いつまでだ」
「下層だけ。四十分まで。私が始めて、私も止めます」
声に出すと、条件書の文字が少しだけ自分のものになった。
エリナは堤防の継ぎ目へしゃがんで噴き出す水へ細い測り棒を当て、泥の匂いと土嚢の濡れ方を確かめてから戻ってきた。
「水位の上昇は緩んでいます。西風がこの角度を保つなら、始められます。ただし、南の風板が二目盛り動いたら中止候補です」
「手首は?」
サーラに問われ、白い手袋を外した。三重の儀式印は薄い桃色で、熱はない。指も震えていない。
医師から預かった温度札を自分で当て、平常の線を見せる。
「基準内です。実施を選びます」
拍手は起きなかった。まだ何もしていないのだから、当然だ。
それでも少し寂しい。そんな自分にはあとで呆れることにして、白い退避線の奥へ進んだ。
◇
補修班の六人が継ぎ目へ降り、石枠の外側へ土嚢を重ねて、鉄の留め具を二本打ち込む。槌を振るう手から水さえ退けばいいのだと、打ち込まれる鉄の音が教えた。
「風、西。対象、下の一層」
エリナが水時計を返す。浮きがゆっくり沈み始めた。
「開始まで、五、四、三、二、一」
息を吸い、両手を胸の前で開く。
空の高いところには触れない。低い雲の底を、白い糸のような明るさでなぞる。以前なら光を一気に押し広げ、灰色を残さず消そうとした。今日は、雨粒が集まる厚みだけを薄くする。
層薄め。雲を散らし切らず、指定した高さの水滴の密度だけを下げる祝福操作だ。
頬を打っていた雨が、粒の細かい霧へ変わった。
土嚢の麻布を走っていた水が点々とした滴へ変わり、補修班が留め具へ槌を入れると、最初の一打は堤防の内側まで響いた。
「できた!」
子どもの声が上がり、すぐに大人の歓声が重なった。
歓声の方を見た。雲の端へ光を広げれば、もっと喜ばれる。濡れた子どもの髪も、崩れた家の屋根も、一度に明るくできる気がした。
右手の人差し指が、上の雲へ向きかける。
「南、ひと目盛りずれたよ」
サーラの声が飛んだ。
足元の風板がぬかるみに傾いている。祝福を足せば形だけは保てても、風向きのずれまで自分の光で塗りつぶしたくはなかった。
「サーラさん、南の板を一目盛り戻してください。出力は保ちます」
「聞いたね! 三番、脚を打ち直しな!」
技師が二人走って板の脚へ横杭を入れ、銀色の目盛りがそろうまでに雨脚が一度だけ太くなると、村人から不安の声が漏れた。
「やはり、全部晴らした方が早いのでは」
「早くても、よそへ雨を送ります」
答える間にも、腕が重くなる。まだ熱ではない。明るさを細い帯へ押さえ続ける重さだ。
水時計の浮きが半分を過ぎるころ、補修班の頭が上下し、一本目の留め具が入って二本目へ移るはずだった。ところが、泥を掻き出した職人が首を振った。
「石枠の裏まで洗われてる! 木楔を三本追加だ!」
予定になかった声に、歓声が止んだ。
エリナが継ぎ目と水時計を交互に見る。
「残り十四分。二本なら退避まで間に合います」
「三本なけりゃ、また漏れる!」
職人の返事は怒鳴り声だった。サーラも説得しない。
「二本で一次固定。三本目は雨が戻ってから上側より入れる。退避縄を腰へ掛けな!」
世界は、条件書どおりには乾いてくれない。
ミレーユは下層の明るさを細く保った。焦るほど、昔の声が戻ってくる。もう少し。皆のため。できるでしょう。
手首へ当てた温度札の赤い線が平常の印から一本ぶんにじみ、儀式印の中心だけが脈より遅れて熱を返し始めた。
「症状、中心に熱。震えなし」
自分で告げた。エリナはうなずき、時刻を読む。
「残り五分。退避を始めれば基準内です」
「二本目、入った!」
槌を持つ職人が叫ぶ。もう一人が木楔を抱えたまま、こちらを見た。
「あと三分だけくれ! 三本目も――」
雨除け布の下から、また期待の目が集まる。
三分ならできる。たぶん五分でも。拍手が戻るところまで晴らすことも。
水時計の浮きが、最後の線へ触れた。
「中止します」
声は雨に消えなかった。
サーラが赤旗を倒す。補修班は三本目の楔をその場へ置き、退避縄をつかんだ。エリナは数えるのをやめ、医師役の助手がこちらへ走る。誰も理由を尋ねない。
光を閉じる。
薄くしていた雲が重なって雨粒が土嚢を叩き始め、最後の職人が白線を越えるのと、継ぎ目へ濁った水が戻るのはほとんど同時だった。
「まだ打てたのに!」
年嵩の村人が叫んだ。
ミレーユは言い返せなかった。手首の熱を測る間、槌の音が消えた堤防だけを見ていた。
一本目と二本目の留め具が、水を受けて低く震える。
石枠は、外れなかった。
◇
仮設観測所の屋根を、戻った雨が忙しなく叩いていた。
ミレーユは長椅子の端に座って冷たい麦茶を少しずつ飲み、向かいでは泥まみれの補修班が濡れた手袋を絞っていた。三本目の楔は上側から打ち直され、継ぎ目の噴出は細い筋にまで減っている。
「一次固定は成功。作業員六人、全員退避。二次作業は上側から続行できる」
サーラが数字を読み、最後に鼻を鳴らした。
「きれいな仕事じゃないが、堤防は見栄えで立つもんじゃない」
年嵩の村人は黙って補修杭を見ていた。顔にはまだ不満が残っていたが、もう全部晴らせとは言わなかった。
エリナが使用回数票を机へ置く。
「体温、脈、手指の震え、印の熱。順にお願いします」
「お姉様が書くのではないの?」
「本人の欄です」
少しだけ笑い、自分で炭筆を取った。
使用時間は四十分、出力は下層一枚、停止者は術者本人。中心部に軽い熱、震えなし、再使用なし。
最後の二文字を書いた時、外で歓声が上がり、水位棒が一目盛り下がったと伝わってきた。
顔を上げそうになり、先に温度札を医師役の助手へ渡す。数値は基準を外れていない。雨の中で飲む麦茶は薬草茶より苦くなく、妙に冷たかった。
「次も、同じようにできますわ」
口から出て、すぐ条件書へ目を落とす。
「……今日はしませんけれど」
「今日は、ですね」
エリナが淡々と記録する。その声に姉らしい甘さはない。だから、仕事の言葉として受け取れた。
机の端では四十分を使い切った水時計が止まり、透明な筒の底に浮きが沈んだままだった。
サーラが別の紙を引き寄せた。
「喜ぶのは、こいつを見てからにしな」
祝福の開始と停止を記した自記紙に、細い赤線が二本走っている。開始直後と停止直後、手首の儀式印が一度ずつ熱を返した時刻だ。
そこへ沿岸観測所から届いた海底鎖の圧力紙を重ねる。少し遅れて、同じ幅の二本線があった。
「偶然では?」
「まだ決めません」
エリナは古堤防の刻印を監視していた通信員の紙も並べた。
三枚目にも、二本。
最初の線も停止後の線も順にずれ、距離の順には見えないのに、ずれ方だけは同じだった。
水時計の目盛りを紙の端へ合わせる。
補修班へ渡した四十分が、三つの場所を一本の時刻で結んだ。
「私、何を動かしたの」
儀式印を隠さずに尋ねた。
エリナは答えを急がず、三枚の紙をずらさないよう重しを置いた。
「それを、既存の雨帳と地図で確かめます。あなたをもう一度使わずに」
外では、雨が補修した堤防を流れている。
サーラが水時計を布で包み、三枚の観測紙と同じ箱へ入れた。
箱の蓋が閉じる直前、三本の赤い線は、同じ方角へ傾いて見えた。




