第37話 閲覧を拒む扉
王都水務院の基幹記録庫前には、朝になっても昨夜の冷たさが残っていた。
「文書にしても、決定は変わりません」
記録官は、差し出された拒否理由書を机の端へ戻した。背後の鉄扉は閉じたままだ。扉脇の青銅札には十三の家門名が刻まれ、どれも当主の男名で終わっている。
昨日、エリナは主任雨読みとしてこの王都へ来た。十二口の噴水を六口に絞り、下町二地区へ生活水を戻したあと、弁箱から古堤防と同じ冠形印を見つけた。その施工経路を追うには、ここに収められた設計記録が要る。
記録を読めなければ、図面にない管は探せない。今夜また下町の水がどこかへ抜かれても、止める場所すら分からないままだ。
「決定を変えるためだけに求めているのではありません」
声が固くなる前に、拒否理由書の空欄へ目を戻す。
「適用した規則と、拒否した方のお名前を残してください」
「王都基幹図面は、登録家門の当主と水務院上席官に限られます。他領の主任職は対象外です」
「昨夜は、女性へ開いた前例がないとも伺いました」
記録官の筆が止まった。
「それも理由に含めますか」
問い返すと、紙の上に二文字が足された。
性別。
見慣れた文字だ。家の評定でも、婚約者の隣でも、言い方を変えて何度も置かれてきた。防水筒の革紐を、一段短く持ち直す。
カイルが青銅札を見上げた。
「私の閲覧名義を使えば、今朝のうちに入れる」
「使いません」
短く答えると、彼はすぐ頷いた。扉を見張る衛兵の数を確かめ、廊下の先へ視線を移す。
「監察官は昨日の調整命令を受け取っている。下町からも、断水記録を持つ代表を呼べる」
「お願いします。私は公開申請の条文を確かめます」
記録官が眉を寄せた。
「同じ結果になりますよ」
「でしたら、同じ理由を三者の前で残せます」
カイルが出ていく。鉄扉の取っ手へ朝日が差しても、触れた指には冷たかった。
◇
正午の公開申請窓口は、昼食を持った請願人で混み合っていた。
下町代表の女は、昨日の桶傷を写した紙と、布に包んだ黒パンを抱えてきた。香草の匂いが封蝋と古紙の匂いに混じる。
「申請ってのは、腹を空かせるね」
「お呼びしてすみません」
「謝るなら、こっちを半分食べて。昨日、水が戻って粉を練れたんだ」
ちぎられたパンは固く、噛むと香草の粒が弾けた。王都へ着いてから口にしたものの中で、いちばん下町の水に近い味がした。
監察官が昨日の圧力表を窓口へ置く。女は桶の水線と開栓時刻を、その隣へ並べた。エリナは壁に掲げられた「基幹設計記録公開規則」を一項ずつ追った。
生命維持に関わる水路や堤防、貯水設備の設計記録を、監察官と専門家と影響住民の共同申請で閲覧できる王都の規則だ。
「この規則です」
記録官は首を振った。
「基幹図面は王都機密です。生活設備の公開とは別です」
「昨日の調整命令では、この基幹弁の開閉で共同栓の圧力が変わりました」
監察官が命令番号を読み上げる。女は桶傷の一つを指で叩いた。
「正午鐘で水が止まり、六口を閉めたら戻った。私の家だけじゃない。二地区分だよ」
「住民の記録は設備分類を決めません」
「決めるのは、水務院です」
エリナは公開規則と調整命令を重ねた。
「その決定過程を、ここへ書いてください。基幹弁が生活水へ影響しても生命維持設備ではないと分類する理由を」
記録官は紙を見た。後ろに並ぶ請願人が少し静かになる。
「前例がありません」
「前例を求めているのではありません。現行規則の適用を求めています」
三本の署名線へ、監察官が最初に名を書いた。
次にエリナが、所属欄へアルヴェーン領主任雨読みと記す。最後の一本へ、女は自分で刻んだ桶傷の写しを寄せ、線と字を見比べる。筆先はゆっくり進んだ。それでも、途中では止まらない。
記録官は別の用紙を引き寄せた。
「公爵名による特例申請欄が空白です」
「空白のままで結構です」
「今後、同じ条件で申請する者にも適用されます」
「そのための申請です」
返事の代わりに、筆先が拒否理由書へ戻った。
性別の二文字へ二本の線が引かれる。余白に、専門資格および影響住民の記録を審査し、性別と家門所属を閲覧拒否の理由にしない、と書き足された。
記録官は納得した顔をしなかった。
「私は、機密の危険が消えたとは考えていません」
「消えなくて構いません。閲覧者と複写範囲を記録してください」
朱い受理印が、三者の署名をまたいで押された。
乾くまで触れないよう、女が紙の端を両手で持つ。記録官は鉄扉脇から一枚の青銅札を外し、裏返した。表にあるのは家門名、裏は何も刻まれていない。
そこへ申請番号と三つの立場を書いた細紙が差し込まれた。
札は、三者で開けた扉の証明になった。
「パン、残しておく?」
女が小声で聞いた。
「半分だけお願いします。記録を読み終えるまでに、夕方になりそうです」
「なら全部置いてくよ。難しい紙は腹が減るからね」
鉄扉の鍵が回った。
◇
午後の基幹設計記録庫は、虫除け草の乾いた匂いがした。
高窓の光は棚の上段まで届かない。記録官がランプを寄せ、複写できるのは索引と該当図の必要箇所だけだと告げる。監察官が机の反対側へ座り、閲覧時刻を書き始めた。
エリナは冠形印の施工記号から、弁室の改修年を絞った。
索引には図番が三つ並んでいる。二百十八、二百十九、二百二十。
二百十八は、儀礼広場から下町へ分かれる主管。二百二十は、噴水側の排水管。間の二百十九には「夜間迂回弁」と題名がある。
けれど、綴じられた図面は二百十八の次が二百二十だった。
「整理の際に、番号だけ残ったのでしょう」
記録官が言う。
「でしたら、綴じ糸も同じ古さになるはずです」
指へ引っかかる麻糸は、左右の頁より白い。結び目だけが奥へ押し込まれ、紙端には刃で薄く削った粉が残っている。
題名を消したのなら、索引にも削り跡があるはずだ。
ランプを横へずらす。正面からは読めない薄いくぼみが、紙の繊維に影を作った。
夜間。
その二字だけが、書き直した墨の下に残っている。
エリナは複写許可の範囲を確かめ、二百十八と二百二十の接続位置、欠けた二百十九の題名、綴じ糸の結び方を別々の紙へ写した。誰が抜いたかは、これだけでは分からない。管が本当にあるかも、紙の空白だけでは決められない。
記録官が腕を組む。
「古い記録庫です。欠けた一枚で、改竄と呼ばれては困ります」
「呼びません。欠けた一枚として記録します」
残しておいたパンを一口かじる。香草の匂いが、虫除け草ばかりの部屋に少しだけ戻ってきた。
図面を閉じる前に、索引の背へ小さな数字があるのを見つけた。配管工が現物確認に使う起点番号だった。二百十九の起点は、昨日入った弁室のさらに下を示している。
防水筒へ三枚の写しを収める。
「伝令を一人、アルヴェーン領へお願いします」
カイルが記録庫の外で待つ衛兵へ向き直った。
「宛先は?」
「サーラさんです」
紙から消された管を、今度は地下で探す。
「王都の靴底を、見てもらいます」




