第36話 王都の乾く噴水
王都儀礼広場では、朝の鐘が鳴る前から十二口の噴水が白い弧を描いていた。
エリナは旅外套の袖に残る砂を払い、噴水の向こうに立つ王都水務院の吏員へ主任証を見せた。古堤防で見つけた冠形の刻印。それに似た記号が王都の配管にもあるという招聘状を受け、確かめに来たのだ。
領内の観測は、就任時に定めた代行者と三地区の責任者へ預けてきた。主任が王都へ出ても、アルヴェーン領の判断は止まらない。
馬車の揺れが、まだふくらはぎに残っている。
今日、刻印までたどり着けなければ、広域の水利契約を追う糸が切れる。けれど、その前に見過ごせないものがあった。
広場へ上る坂の下に、空の桶が並んでいる。
噴水の排水溝には朝日を弾く苔が生え、その脇から下町へ延びる石樋は、粉を吹いたように白く乾いていた。
「刻印の照合は弁室で行います。計測は儀礼区内だけでお願いします」
案内役の吏員が、坂へ向けた視線を遮るように立った。
「この石樋も、儀礼用の配管から分かれていますか」
「古い分岐はありますが、下町の断水は乾季には珍しくありません」
坂下にいた女が桶を持ち上げた。木桶は乾くと軽い。片腕で上げた底から、かすかな砂が落ちる。
「珍しくないなら、時刻は決まらないでしょう。うちの栓は、噴水の鐘が鳴るたび空になるよ」
吏員が顔をしかめた。
「住民の感覚を、王都の設備記録と同列には――」
「何日の、どの鐘ですか」
女へ尋ねると、朝と正午と夕方の鐘を、桶の縁の傷で示した。水が来た日は深い傷、途中で止まった日は浅い傷。飾り気はないが、日ごとの違いは残っている。
「正午鐘の前後を、同じ計器で測らせてください」
「主任雨読み殿の招聘目的は、刻印の確認です」
「刻印のある管が、どこから水を受け、どこへ渡すかも確認します」
声が硬くなりかけた。雨帳の角を探す代わりに、外套の留め具へ手を置く。
カイルは一歩後ろで、広場の出口と桶を持つ人数を見ていた。
「私は王都の水を命じる立場ではない」
吏員がほっとした顔をする。
「だから、計測を拒むなら、水務院の責任者名と理由を記録に残してほしい。許可するなら、彼女の調査を待つ」
ほっとした顔が消えた。
吏員は正午までの同行札を出した。女が桶を抱え直し、坂を下り始める。
エリナも、その乾いた音を追った。
◇
正午前の下町は、石壁が日の熱を抱えていた。
共同栓の脇へ据えた真鍮の圧力計も熱く、布を挟まなければ触れない。エリナは女に開栓時刻を読んでもらい、水務院吏員には噴水の開閉札を持ってもらった。
乾いた栓へ、子どもが耳を当てている。
「まだ来てない」
「鐘の前の音も覚えておいてください」
「水って、来る前に音がするの?」
「狭い管なら、空気が先に押されます。咳みたいな音です」
子どもは栓から離れなくなった。
女の記録では、朝の噴き上げが終わると桶の底まで水が戻り、正午鐘でまた細くなる。別の家の洗濯札にも、同じ時刻の中断があった。
「王都全体が乾いています」
吏員は開閉札を胸元へ寄せた。
「ここだけ不足しているわけではありません」
鐘楼で、打ち手が綱を引く。
一打目。
広場の方角から、遠い水音がふくらんだ。
二打目で圧力針が震え、三打目で目盛りを一つ落ちる。子どもが顔を上げた。
「咳をした」
栓の奥で、短く空気が鳴った。出てきたのは、水ではなく錆色の一滴だった。
エリナは噴水の開閉札と、女の桶傷を圧力表の左右へ置いた。
「水がないのではありません。こちらへ先に通しています」
十二口をすべて開く時刻だけ、生活系統の針が下がる。六口を残せば式典の形は保てる。戻る圧力は、下町二地区の朝夕の最低量に届く。
吏員は針を見たまま答えなかった。
「その計算が正しくても、あなたに噴水を変える権限はありません」
「はい。ですから、責任者へ持っていきます」
女が桶を置いた。
「私たちも行くよ。目盛りだけ取られて、また愚痴に戻されちゃ困る」
予定していた人数が一人増えた。
書類を揃える段取りより、ずっと心強かった。
◇
午後の調整室では、十二枚の白い札が壁の水路図に並んでいた。
王都水務院の責任者は、住民の桶目盛りを一度見ただけで机へ置いた。
「噴水は王都の威信です。遠来の使節は、あの広場を最初に見る」
「十二口を止める提案ではありません。六口を残します」
「半分では、渇水を公に認めることになる」
「下町では、もう毎日認めていますよ」
女の声に、責任者の眉が上がった。
エリナは口を挟まず、圧力計の写しを壁図へ留めた。朝の回復、正午の低下、噴水札の開閉。その三つだけを、見える順に置く。
「明日、雨が降れば不要な騒ぎです」
「では明日、雨が降っても検証を続けます。雨量と配水を混ぜれば、次の乾季に同じ断水が戻ります」
責任者はカイルを見た。
「アルヴェーン公は、他領の主任の提案に責任を持たれますか」
「提案の身元は保証する。王都設備を動かす決定は、水務院の名で残していただきたい」
「失敗した場合も?」
「決定者と検証条件が残っていれば、直せる」
逃げ道を塞ぐ声は低い。けれど、エリナの代わりに命令はしなかった。
責任者は十二枚の札へ向き直った。六枚を伏せ、一枚ずつ番号を読み上げる。
渇水時に式典設備の水量を一時制限し、生活用水へ優先配分する。それが儀礼用水調整命令だった。今回は日没までの試行とし、下町二地区の復水、噴水側の圧力、使用量を同時に残す。
「戻らなければ、六口を開け直します」
「戻らなかった記録も公開してください」
「王都では、失敗まで見世物にする習慣はありません」
「習慣にしてくださいとは申しません。今回の命令の条件です」
責任者は納得したとは言わなかった。
乾いた封蝋を押し、命令書を吏員へ渡す。
「弁室へ」
女は桶の傷を写した紙を抱えたまま、先に扉を出た。
◇
夕方の噴水弁室は、油と濡れた石の匂いがした。
命令札の番号に従い、吏員が六本の把手を閉じていく。頭上の水音が一つずつ細くなった。
最後の把手が止まっても、下町側の圧力針はすぐには動かない。
水務院の責任者が腕を組む。女は空桶の縁をなぞっている。カイルは入口の人数を数え終え、壁際へ下がった。
管の中を、鈍い響きが走った。
針が半目盛り上がる。
もう半目盛り。
坂下から駆けてきた子どもが、濡れた木の計量板を両手で掲げた。
「出た! 桶の二本目まで!」
女が板を受け取り、刻まれた水線を親指で確かめる。
「次の家へ回しておいで。並んだ順を飛ばさないでね」
子どもはすぐに戻っていった。
頭上では六本の噴水が残り、前より広い間をあけて水を上げている。水音は少し不揃いだった。それでも、広場が空になることはなかった。
エリナはようやく、弁箱の確認へ移った。
閉じた把手の根元を布で拭くと、油膜の下から円と三つの突起が現れた。中央の突起だけが、わずかに右へ傾いている。
防水筒から三枚の薄紙を出す。
古堤防の補修石。押収した水利契約。王都の弁箱。
重ねた線は、同じ場所で重なった。
「施工記録を見せてください」
責任者の返事は早かった。
「王都の基幹記録庫は、登録家門の当主と水務院上席官に限ります」
「主任雨読みとしての調査でも?」
「他領所属です。それに、女性へ基幹図面を開いた前例はありません」
満ち始めた管の振動が、靴底へ伝わってくる。
エリナは三枚の薄紙を別々の封筒へ戻した。
「拒否の理由を、文書でお願いします」
責任者が記録庫の鍵を回す。
鉄扉の閂が、重い音を立てて落ちた。




