第35話 主任雨読み
技師会館の空席に、「主任雨読み」と墨書きされた木札が置かれていた。
朝の光はまだ高窓の下までしか届かず、長机の右側に城下と貧民区と難民村の代表、左側に技師会と三つの観測班が座っている。エリナは入口に近い席で、昨日から残る首筋のこわばりを手のひらで押さえた。共同調査会で警告無視が公式原因となり、故国の帰還要求が失効してから、まだ一夜しか経っていない。
今日は、自分へ示された主任職の条件を確かめ、受けるかどうかを決める。
ここで肩書だけを受け取れば、次の災害でも判断は公爵の臨時承認に頼る。自分が休んだ日や領を離れた日に、育てた観測体制ごと止まってしまう。
木札の前には、二つ折りの任命状があった。給金。職務範囲。記録の公開。異議申立て。細い文字が続き、代行責任者の欄だけが空いている。
空欄を見ると、先に埋めたくなる。
指を伸ばす前に、サーラが紙の上へ木尺を置いた。
「読む前に直すんじゃないよ。今日はあたしたちが説明する側だ」
「はい」
「返事も最後。公爵、そこで口を挟んだら外へ出すからね」
上座の椅子は空いていた。カイルは壁際の窓枠へ片肩を預け、乾いた声で答える。
「会館から追い出される領主は、前例に残した方がいいだろうか」
「悪い見本としてね」
小さな笑いが起きた。エリナも息を吐いてから、任命状を開いた。
最初に立ったのは技師会の書記だった。
「主任雨読みは、領内の観測基準と分担を統括する職です。全ての空を一人で読む職ではありません。地域責任者を任命し、公開記録を同じ形式で残し、休務中は代行へ権限を渡します」
昨日の認定書より新しい紙なのに、こちらの方が怖かった。
認定書は、過去に何が起きたかを決める。任命状は、この先の自分が何を背負うかを決める。
書記は三つの投票箱を順に開いた。白い木片には地区の観測印が刻まれ、名前はない。井戸の波紋。魚。斜面の亀裂。
賛成理由も、反対理由も読み上げられた。
記録を隠さない。住民の水位札を正式資料にした。分からない時に分からないと書いた。公爵の命令より遅い。話が細かい。休むよう言われても、ぎりぎりまで働こうとする。
「最後のは、推薦理由じゃないね」
サーラが言うと、難民村の代表が腕を組んだ。
「だから条件が要るんです。主任になった途端、前より働かれたら困る」
笑いは起きなかった。
任せたいという言葉の中に、使いたいという意味が混じることを、皆が知っている。
エリナは任命状の休務欄を指で追った。連続休息。本人による停止。給金の維持。第八話で臨時契約へ書いた条件が、そのまま主任職にも入っている。
「代行者は、就任後に私が選ぶのでしょうか」
「候補を主任が出し、技師会と地区代表が職務範囲を確認する案です」
「就任前に決めたいです」
敬語が一段、よそ行きに戻った。
「私が不在になってから選ぶのでは遅れます。代行者が異議を出した時、主任判断を優先するとも読めます」
技師会の年長者が眉を寄せた。
「緊急時に二つの判断が出れば、避難が遅れる。最後は主任が決めるべきでしょう」
すぐに答えず、卓上の三つの観測印を見た。
三方向の嵐では、中央からの伝令が一つ途切れた。それでも魚印も亀裂印も、渡しておいた基準で避難を始めている。自分の返事を待っていたなら、低い橋はとっくに水の下だった。
「避難開始線と停止条件は、事前に公開します」
木片を一つずつ元の箱へ戻した。
「現地が線を越えた時は、主任の返答を待ちません。二つの判断が出た場合は、危険の小さい方へ動き、後で記録を照合します。異議を出した人の名も残してください」
年長者は納得したとは言わなかった。
「命令系統が複雑になる」
「はい。訓練で確かめます」
「訓練で使えなければ?」
「変えます。私の案も、結果と一緒に公開します」
しばらく木尺だけが卓に残った。
やがて書記が代行欄の下へ、新しい文を足した。緊急時の現地判断。事前基準。異議記録。定期訓練。
サーラが木尺を外す。
「これなら、主任が間違っても水は流れる」
「言い方があるでしょう」
「当たる人を飾る席が欲しいなら、技師会館にもっときれいな木札があるよ」
今度はエリナも笑った。
空席の札には鑿のささくれが残り、墨も一画だけ濃い。急いで作ったのだろう。
カイルはまだ壁際にいる。
「カイル閣下からのご説明はありませんか」
「任命理由は、投票した者が説明した」
「領主としてのご判断は」
「皆が決めた条件を施行できるか、私が責任を持つ。君が受けるかは君が決める」
迷いを見透かしたように、視線が任命状の裏へ向いた。
「辞退した場合も、現在の契約は期限まで続く。投票を断った罰はない」
紙を返すと、辞退欄にも記録印の場所があった。
断る道まで、先に書いてある。
そのことが、受け取るより少しだけ難しかった。
◇
昼の水路広場には、雨上がりの匂いが残っていた。
中央の水位棒へ三色の布が結ばれ、城下、貧民区、難民村の観測班がそれぞれの記録板を持って立っている。見物人の後ろでは、焼き林檎の屋台がもう火を入れていた。甘い匂いの中に、少し焦げた酸味が混じる。
壇上の長机に、朝修正した任命状が置かれた。
書記が条項を一つずつ読み上げる。給金。拒否権。連続休息。予報と結果の公開。地域責任者と代行。異議申立て。後継者を有給で育てる責任。
最後の項目で、貧民区の代表が手を挙げた。共同井戸で何度も見た女だった。
「理由も読んでください」
書記が投票理由の束を開く。
「鉄砲水を当てた。井戸を見つけた。三方向の嵐から全地区を逃がした」
「そこだけじゃありません」
女は水位棒を指した。
「外した日に止めたから任せるんです。こっちの記録を、公爵家の数字より先に見たから。自分がいなくても逃げられるようにしたから」
広場の後ろで、ニルが魚印の板を胸へ抱え直した。
予報を褒められるたび、次も当てなければならないと思った。役に立つと言われれば、休む日を減らすのが先だった。
彼らが選んだ理由には、止めた日と、任せた日が入っている。
任命状の余白へ、朝決めた代行者と訓練日の書き込みが見えた。紙は何度も開かれ、少し波打っている。完成した命令を渡されたのではなく、自分も折り目を増やした紙だった。
カイルが任命状を持ち上げる。
「アルヴェーン領は、技師会の推薦と三地区の投票に基づき、主任雨読み職を設ける。職務条件は、今読み上げた通りとする」
そのまま渡さず、長机へ戻した。
「候補者は、辞退、再修正、受諾のいずれかを選べる」
広場が静かになった。
署名欄は空白だった。家名も、元の肩書も印刷されていない。
筆を取り、先に別紙を引き寄せた。功績記録の作成者欄へ、名を一つずつ確かめて残す。サーラとニル。各地区の観測班、鐘守、職人、避難路を開いた住民。
最後に任命状へ戻った。
「雨読みのエリナとして、お受けします」
エリナ、と書いた。
筆先が紙を擦る音は、思っていたより小さい。
領主承認欄へ、カイルが署名する。技師会と三地区の代表が続き、封蝋が一つずつ増えた。誰か一人の印では、紙を閉じられない並びだった。
水位棒の近くから拍手が起きた。華やかな鐘はない。井戸番の濡れた手、泥の残る職人の手、細い魚印を持つ子どもの手が、それぞれ違う音を立てる。
何と言えばよいか分からず、任命状の角を揃えかけた。
もう折り目はそろわない。
そのまま防水筒へ入れると、貧民区の女が笑った。
「主任、明日の水位札は誰が見ます?」
「北井戸はニルさん、南の共同栓は朝番の方です。私は午後まで休務にします」
答えたあと、自分でも意外だった。
拍手より先に、休む予定が口から出る。
壇を降りると、カイルが人波を避けて隣へ来た。
「就任初日の命令が休務か」
「条項が実際に使えるか、確認します」
「主任の判断なら従おう」
口元だけで笑っている。
広場の端に、焼き林檎の屋台が見えた。酸味の強い方は、まだ残っているだろうか。
帰りに買おう、と思った。
戻る先を考えた時、故国の門は浮かばなかった。雨帳を置いた部屋と、赤い休務札を掛ける扉が先に浮かんだ。
エリナは、焼き林檎の屋台へ足を向けた。
◇
夕方、式の布を外す前に、古堤防から伝令が来た。
修復現場の足場は西日を受け、濡れた縄だけが黒く光っている。エリナが到着すると、サーラは割れた補修石の前へしゃがみ込み、鑿の柄で土を払っていた。カイルは少し離れた場所で、作業員の人数と退路を確かめている。
「祝うなら広場で済ませてきたよ」
サーラは顔を上げない。
「こっちは石の中身だ」
補修のため外した石は、表面こそ古い傷で白く曇っていたが、割れた内側だけ湿った灰色をしていた。そこへ、円から三つの突起が伸びた印が深く刻まれている。
冠に似た形。
押収契約の隅にあった薄い施工印を思い出した。
防水筒から任命状を出す代わりに、雨帳へ挟んだ薄紙を取り出す。昨日、契約紙から写した形だ。石の上へ重ねると、円の幅も、中央の突起がわずかに傾くところも合った。
「同じ印です」
「職人組合の印なら、表に刻む」
サーラが石の割れ目を示す。
「これは組んだ後には見えない場所だ。誰かに見せるための飾りじゃない」
エリナはすぐに命令者の名を書かなかった。
同じ印がある。古堤防の取水設備と、ヴェルク系商会へ水利情報を渡す契約に。分かるのは、そこまでだ。
馬の足音が足場の外で止まった。王都水務院の封を付けた使者が、細長い筒を差し出す。
「主任雨読み、エリナ殿へ。王都の儀礼用水配管に、照合を求める記号があります」
呼ばれた肩書が、一瞬遅れて自分へ届いた。
招聘状には、配管記号の簡単な写しが添えられている。円の上の三突起。中央だけが、同じ向きへ傾いていた。
カイルが隣から紙をのぞく。
「就任初日から出張になるな」
「明日の午後までは休務です」
「では、出立日はその後に決めよう」
止めるとも、急げとも言わない。
エリナは石の刻印、契約紙の写し、王都の配管記号を別々の薄紙へ写した。重ねて持ち帰れば、サーラと代行者も同じ形を確かめられる。
「主任として王都へ行きます」
新しい防水筒には、任命状だけを入れなかった。代行者の職務表と、ここへ戻る日程を書くための空紙も一緒に収める。
割れた石の奥で、三つの突起を持つ冠形の印が、西日の最後の光を残していた。
第1章をお読みいただき、ありがとうございます。
エリナは、自分の名と条件を持つ「主任雨読み」になりました。第2章では、王都の水利と奪われた功績を巡る争いが始まります。
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