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「地味な雨読みはいらない」と追い出されたので、隣国で水害を止めます ~二番手だった私を干ばつ領の公爵だけが最優先にしてくれる~  作者: さくらろ
二番手をやめた雨読み

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第29話 公爵より先に

 水差しがカイルの前で床へ落ちた。


 白い陶片の内側を、赤茶色の筋がゆっくり這っている。


 水務会議でトリスタンの取引を公的な記録へ移した翌日、王都から西街道を一日戻った夕暮れの街道宿で、エリナとカイル、護衛たちは夕食を待っていた。馬車を降りたあとも床が小さく揺れる気がする。温かなスープの湯気が、眠気を連れ戻していた。


 それでも、今は眠れない。


 昨夜、西街道へ先回りしたヴェルク直属の使者を見た。封書の中身も行き先も分からない以上、敵と決めつけることはできない。護衛が道沿いの窓や馬車を警戒するのは当然だったし、カイルの器だけが濁れば、毒を疑う方が早い。


 早い答えほど、確かめずに走れば別の人を置き去りにする。


 給仕の手から水差しを叩き落とした護衛が、剣へ手をかけていた。


「閣下、馬車へ。毒殺の疑いがあります」


 別の護衛が窓と裏口を押さえる。宿主は青ざめ、給仕は空になった盆を抱えたまま動けない。


「お待ちください」


 しゃがみ込むと、護衛の靴が陶片を隠す位置へ出た。エリナは見える場所まで下がってもらい、指を触れずに灯りを寄せる。


 濁りは水全体に広がっていない。底へ集まった橙色の粉が、割れた拍子に細い筋を引いていた。鼻を近づけると、湿った硬貨に似た匂いがする。


「カイル閣下の分だけ、いつ汲みましたか」


「たった今です。ほかのお客様の桶は昼過ぎに。そちらは澄んでおります」


 宿主が食堂の隅を示す。木桶の水は、灯りを透かして底まで見えた。


「なら、なおさら出発を」


「毒を入れられた水差しだけが遅く汲まれたとは限りません」


 護衛の低い声が返る。


「閣下の器だけが濁っている」


「いま見えている範囲では、です」


 木桶の水を透明な小瓶へ移し、栓をしないまま窓辺へ置いた。橙色の粉は、鉱石や坑道を通った水が金属分を含んで流れ出る採掘排水に似ている。流れた直後は澄んでいても、空気に触れてから色と匂いが出ることがある。


 食堂にいる全員が、隅の桶を見た。


 澄んでいる。それが安全の証明にならないと知った途端、静かな水ほど恐ろしく見えた。


「井戸を見せてください。失敗すれば、閣下を逃がしている間にも、この宿場の人が夕餉へ同じ水を使います」


 宿主の唇が震える。


「井戸を疑われたら、今夜の客がみな出ていく」


「毒殺なら一つの水差しを調べれば済みます。井戸なら、止めるのが遅いほど飲んだ人が増えます」


 カイルは外しかけた外套を着直した。


「案内を。護衛は二人だけつける。残りは誰も水へ口をつけないよう食堂に残れ」


「閣下の退避が先です」


「原因の確認と退路の確保を同時に行え。彼女の調査を止めるな」


 声は低く、短かった。


◇


 共同井戸は、宿の裏手に並ぶ家々の中央にあった。


 日が落ちかけ、井戸端では夕餉の鍋を抱えた住民が列を作っている。井戸縄を引くたび、濡れた麻の匂いに、かすかな金属臭が混じった。エリナは列を下げてもらい、縄の水面に近い部分へ灯りを向ける。


 繊維の谷へ、橙色が入り込んでいた。


 水を汲み、白い皿三枚へ分ける。一枚はそのまま、二枚目は木匙で空気を混ぜ、三枚目は布で覆った。混ぜた皿だけに、薄い筋が先に浮く。


「採掘排水です。少なくとも、そう疑って扱う必要があります」


 聞き慣れない言葉へ住民の顔が固まる。


「鉱石や坑道を通り、金属分を含んだ汚染水です。見た目が澄んでいる間も、飲用に使えません」


 宿主が井戸の縁へ身を乗り出した。


「ですが、昼の水を飲んだ者は何ともない。井戸を閉めたら、宿だけじゃなく、この通りの店が全部――」


 表通りから、夕食の鐘が鳴った。


 鍋を抱えた女が、連れていた子どもの手を強く引く。別の男は、すでに満たした桶を家へ持ち帰ろうとしていた。


 迷っていれば、鐘一つぶんで水は鍋へ入り、薄められ、誰が何時に飲んだか分からなくなる。


 エリナは鞄から赤い木札を取り出した。飲用停止札。検査が終わるまで、井戸水を飲み物にも調理にも売り物にも使わないと知らせる公的な封鎖標識だ。


「カイル閣下より先に、井戸を止めます」


 護衛が振り向く。


「狙われたのが一人なら、その一人を守れます。でも、これは町全体がもう飲んでいます」


 札の紐を井戸柱へ回す。結び目を締める前に、カイルへ見た根拠を一つずつ伝えた。


 後から汲んだ水差し。橙色の沈殿。金属臭。井戸縄の汚れ。空気へ触れた皿の変化。


 彼は手袋を外し、縄の色を自分でも確かめた。


「私の護送命令を撤回する。この井戸と同じ水筋にある井戸をすべて止めろ。宿の封をした貯水槽は町へ開放。隣村へ給水車を出す。費用と停止命令の責任は私が負う」


「宿泊客の分がなくなります」


「客も町の人数に入れる。宿だけに残すな」


 宿主は井戸と自分の店を交互に見た。反論は消えなかったが、やがて水桶を地面へ置く。


「……札を掛けるなら、裏通りの小井戸にも必要です。あそこは鐘が聞こえにくい」


「場所を教えてください」


「私が行きます。うちの客が使う道ですから」


 宿主はエリナの手から二枚目の札を受け取った。


 水源の上流側へ並ぶ井戸でも縄の低い位置から同じ色が見つかり、まだ澄んだ桶は捨てず、汲んだ時刻と家の名を書いて封をする。昼の水を飲んだ者は救護所へ、夕方の水を口にした者は先に診てもらう。子どもと病人には、宿の封印貯水を回した。


 飲用停止の知らせを聞いて、裏通りから赤子を抱いた女が駆けてきた。


「この子の粥に、さっき汲んだ水を使いました」


 エリナは桶の色を尋ねる代わりに、汲んだ時刻と井戸を聞いた。まだ沈殿がないと答えた女へ、見た目だけで待たず救護所へ行くよう伝える。宿主が自分の上着を脱ぎ、赤子ごと包んで道を示した。


「裏井戸は私が止めました。次は、食堂の桶を封じます」


 営業を守りたい気持ちは消えていない。それでも宿主は、客の食事を始める前に自分で鍋の火を落とした。


 カイルは護衛を三組に分け、一組を井戸の封鎖へ、一組を水を飲んだ家の聞き取りへ、残りを給水車の護衛へ回した。公爵の馬車に残ったのは、御者と最小限の護衛だけだった。


「閣下、万一ここが狙いなら」


「町を水のないまま残して私だけ動けば、相手の望みが何であれ被害は確定する。出発は給水の見通しが立ってからだ」


 エリナへ同意を求める視線が来る。頷くと、命令書には出発延期と町全体への給水が同じ行に書かれた。


 暗くなった街道から、空の樽を積んだ荷車が隣村へ向けて走り出した。


◇


 夜半、宿場の集会所は臨時の救護所になっていた。


 壁際には飲んだ時刻を書いた札が並ぶ。中央の長机には封をした水の小瓶が置かれ、医師が腹痛や吐き気の有無を確かめるそばで、記録係は井戸ごとに名前を分けていた。夕方の水を口にした子どもが一人、舌に硬貨の味がしたと訴えたが、重い症状は出ていない。


 被害を止められた。その安堵は、まだ座る場所を見つけられず、足の裏に残っていた。


 カイルは救護所の入口で、到着した給水車の本数と、次の便までの時間を聞いている。公爵用だった水差しの破片は証拠袋へ移され、赤茶色の筋を内側に残したまま、机の端にあった。


 全井戸を止めた後、エリナは上流調査の責任者をサーラと記録し、護衛と水路係を一緒に送り出し、その班が戻る前に地図へ井戸の位置と濁りが出た時刻を書き込んだ。線は、西街道沿いの古い坑道へ伸びている。


「馬を一頭――」


「その先は言うんじゃないよ」


 戸口からサーラの声が飛んだ。袖を肘までまくり、長靴には乾ききらない灰色の泥が付いている。


「上流班の責任者はあたしだ。あんたが決めた」


「まだ原因の入口しか」


「だから調べる。あたしらがね」


 机へ三本の試料瓶が置かれた。上流へ行くほど色は薄いが、振ると同じ金属臭が立つ。一番上流の瓶には、橙色の粒と黒い石粉が沈んでいた。


 サーラは旧坑道までの採水地点、見張りの交代、次の報告時刻を読み上げる。エリナは書き足したくなる箇所を二つ見つけ、一つだけ質問した。


「排水口の封は」


「外れてない。壊した跡もなし。なのに、停止済みの坑道から新しい水が出てる」


 カイルが入口から戻り、三本の瓶を見る。


「故障か、意図的な排水かは」


「まだ分からない。分からないまま、そこの先生を連れていく気もない」


 サーラは地図の端へ、責任者として自分の印を押した。


 任せるために決めた印だ。ここで現場へ追えば、代行班はエリナが来るまでの仮の手足へ戻ってしまう。


 時刻欄の横へ、自分の署名を添える。


「次の報告は一刻後。私はここで受け取ります」


「上等」


 サーラは公爵用だった水差しの破片ではなく、調査用の試料瓶を布で包んだ。護衛と若い記録係を連れ、また夜の上流へ向かう。


 扉が閉じた後、カイルが温かい椀を机へ置いた。


「一刻ある」


「はい」


「食べる時間には足りるか」


 胡椒の匂いは、ほとんどしなかった。


 匙を取る。地図は開いたまま、けれど馬を求める声はもう出さなかった。


 机の端で、停止済みの坑道から届いた瓶だけが、ゆっくり橙色へ変わっていった。

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