第28話 元通りの値段
会議書記の羽根ペンが時刻の欄を離れ、次の行へ下りた。
閉会の鐘から、まだ半刻も経っていない水務会議場の控室にはエリナとトリスタン、開いた扉の外には書記がいる。長く声を抑えていた喉は乾き、冷めた茶の匂いだけが妙に近かった。
著者欄を止めたばかりの論文を原本庫の調査へ渡すため、まだ控室に残っていた。ここで婚約を近道にすれば、雨帳から写された自分の名は、また誰かの許しで載せたり消したりできるものになる。
「婚約を元へ戻せば、私から名義を訂正してもいい」
トリスタンは、書記の筆音が聞こえていないように続けた。
「調査には何月もかかる。その間、君の理論は使えない。困るのは井戸を待つ民だろう。私が申し出れば、明日にでも利用停止を解ける」
明日。
その一語だけが閉庁の鐘より近く感じられ、原本庫に彼の提出物が何冊あるかも、まだ分かっていなかった。一本でも早く著者名が正されれば、政策に引用できる記録は増える。
「父上も、戻るなら許すと言っている。家も地位も返る。君の仕事も、今度は正式に侯爵家のものとして守れる」
トリスタンが椅子を引いた。昔、評定の前にそうしたように、座る場所まで整えて待っている。
エリナは椅子を見た。次に、書記の帳面を見た。
「いまのご発言を、最初から読んでください」
書記が顔を上げる。
「逐語記録として、ですか」
逐語記録は、話者と時刻を付け、発言を要約せず残す公的な記録だ。
「はい。私の返答も同じように」
トリスタンの眉が寄った。
「家族の話まで議事録にする必要はない」
「著者名の訂正を条件にされています。原本調査に関わる話です」
「君が戻るなら、無用な争いは終わる。そう言っている」
羽根ペンが止まる。
書記は表情を変えず、今の一文も読み返す。トリスタンから訂正は出ない。
エリナは雨帳の角を揃えかけ、手を離した。今日はもう、紙を整えて気持ちまで収める必要はない。
「私の名前は、あなたから返していただく物ではありません。原本と制作順に従って訂正してください。婚約はしません」
「意地を張って、何を得る」
「訂正された記録です」
「それで家を失ったままでもか」
「家へ戻る話と、誰が書いたかは別です」
書記の筆が動くと、さらさらという音は、論文の紙を光へ透かした時より小さいのに、控室ではよく響いた。
トリスタンは椅子の背へ手を置いたまま、こちらを見ていた。
「君一人の名で論文が戻っても、王都で誰が使う。私が水務院へ通し、侯爵家が保証するから価値が出るんだ」
提出版の紺の綴じ紐が目に入ると、昨日までなら、広く使われることと名前を失うことの間で、先に民の役に立つ方を選ぼうとしただろう。
「使う方は、内容と原本を確かめてください。私との婚約を確かめる必要はありません」
「現実を知らない。席を一つ得た程度で、家の後ろ盾に代われると思うのか」
トリスタンの声は荒くならず、むしろ人へ教える時の、よく整った調子へ戻っていた。
だからこそ、古い評定の空気まで一緒に戻ってくる。先に譲っておけば、次の警告だけは聞いてもらえる。そうやって残した空欄を、いくつも知っていた。
「その席は、戻らずに仕事を続けるために得ました」
書記が新しい紙を一枚足した。閉庁時刻を告げる鐘が廊下で鳴ったが、筆は止まらなかった。
トリスタンは鼻から短く息を吐く。
「アルヴェーン公に吹き込まれたのか」
「カイル閣下は、この話を知りません」
「なら、いま決める必要はない。君は昔から、急ぐと狭いところしか見えなくなる」
昔から。
その言葉に続くはずだった謝罪が、口の中で形を失った。説明が足りないのかもしれない。もう一度、婚約と名義を分けて言えば分かるのかもしれない。
けれど彼は、分けた二つを聞いた上で、同じ椅子へ重ね直した。
「決めました。婚約はしません」
トリスタンの指が、椅子の背を二度叩く。
「私の申し出を断れば、調査が長引く。君が望んだ席だって、王都の都合一つでなくなる」
「そのご意見も残してください」
扉の向こうに、書記に呼ばれて議場から戻ったらしい監察官の濃灰色の上着が見えた。
エリナは帳面の読み返しを最後まで聞き、自分の発言に抜けがないことを確かめた。トリスタンにも確認が求められる。
「婚約の提案まで監察へ出すつもりか」
「接触記録として提出します」
接触記録は、審理の当事者が非公式に会った日時、場所、同席者を監察官へ申告する保全手続だ。
「あなたが訂正を申し出るかどうかは、原本調査の中で扱ってください。私から差し出すものはありません」
監察官が書記から帳面を受け取る。トリスタンは署名欄を見たが、筆を取らなかった。
「拒否も記録します」
監察官が言う。
「好きにすればいい」
彼は引いた椅子を戻さず、控室を出ていった。床を打つ靴音が、公開廊下のざわめきへ混じった。
◇
夜の王都宿舎前では、帰領用の馬車へ荷が積まれていた。
軒灯の下にエリナ、馬車のそばにカイル、入口には接触記録の控えを封じる監察官がいる。御者は翌朝の道順を確かめ、護衛たちは王都から西へ延びる街道の宿札を束ねていた。
名義調査の手続を壊さず、ここを発つ。それが今夜の仕事だった。取引を密室へ戻せば、封じるべき言葉が口約束へ戻り、原本庫の調査まで揺らぐ。
監察官は封蝋を温めたまま、控えの置き先を三つ示した。すぐ審理資料へ加えるか、原本調査の担当者だけに開くか、内容を伏せて接触の事実だけ先に登録するか。
「担当者だけに開いてください。審理で必要になれば、その時に全文を」
「承知しました。公開の範囲は、その前にもう一度確認します」
自分で断った言葉が、今度は自分の選んだ範囲で保管される。
封蝋が鈍い赤から暗く冷えるまで待っていると、馬車の積荷を見ていたカイルが近づいた。
「話せるか」
問いの形が少し硬く、彼はすぐに言い直した。
「話したいか、と聞くべきだった」
エリナは封じられた控えを見た。
「終わりました」
「そうか」
何を言われたのかは聞かず、代わりに馬車の荷紐を引き、緩んだ結び目を一つ締め直す。
鞄には雨帳と原本返却票、替えの服が二着あり、故国を出た時より荷物は増えたのに、誰かの許しを書いた紙は一枚もない。
「夕食はまだだろう。温かい汁物と、すぐ眠れる部屋なら、どちらを先にする」
「汁物を。できれば、胡椒の少ないものがいいです」
「王都へ提出する請願より難しい条件ではない」
乾いた声に、ほんの少しだけ笑った。
監察官が封じた控えを差し出す。
「原本調査への干渉資料として受理しました。今後の私的接触は、こちらへ時刻だけでも知らせてください」
「承知しました」
受領印を確かめて鞄へ収め、内側の留め革を掛ける。
宿舎の門近くで、見覚えのある紺の外套が動いた。
トリスタンだった。
向かいに立つ男の襟には、ヴェルク宰相の直属使者が付ける銀の水冠章があり、王都水務会議と商会の連絡を運ぶ役人だと、監察官が低く教えた。
トリスタンは辺りを見回し、細い封書を渡した。使者は中身を開かず、袖へ入れる。
「接触時刻を」
エリナは言った。
監察官が控えの余白へ書き足す。
確かめられるのは、二人が会い、封書が渡ったことまでだ。中身を知ったようには扱えない。
使者は宿舎へ入らず、門外に待たせた小型馬車へ乗った。荷台には、水務会議出席者の宿を手配する駅務所の札束が積まれている。
御者が鞭を鳴らす。
小型馬車は、エリナたちが明朝たどる西の街道へ先に消えた。




