第30話 何も読まない休日
臨時執務室の扉は一つ、窓は二つ、椅子は四脚あった。朝の光が差す窓辺に伝令、地図台の前にサーラ、卓上の雨帳へ手を置いたエリナ。カイルは最後に、自分の席から三人の顔を見た。
昨夜、この街道宿の井戸はすべて飲用停止になった。封印貯水と隣村からの給水で重症者は出ず、停止済みの旧坑道から流れた採掘排水の調査は、サーラの上流班へ渡してある。
今日は現場へ口を出さず、決めた時刻の報告だけを受ける。守れなければ、責任者を分けた意味はない。エリナの価値も、また「いつでも働けること」へ戻ってしまう。
「坑道の封は無傷。夜明け前の採水でも、黒い石粉は出た。次は正午に送る」
サーラが泥の乾いた袖を払う。伝令は三本の試料瓶を並べ、採水地点と時刻を読み上げた。
定刻報告は、現場が決めた時刻に要点だけを送り、上役が背後へ張りつかずに済む連絡手順だ。報告の欄にはサーラの責任者印があり、欠けもない。
「正午の採水には、私も同行します」
やはり、エリナが言った。昨日から握っていた雨帳の角が、指の下できちんと揃っている。
「来なくていい。あたしの班だ」
「水の変色が遅れて出るなら、現地で空気へ触れた時刻を――」
「記録係がいる。二人もね。あんたが選んだ」
サーラの返事は短かった。エリナの視線が、試料瓶から地図へ移る。西街道、旧坑道、宿場の三点を結べば、馬で半日もかからない。
休め、と命じるのは簡単だった。
けれど命令で雨帳を閉じさせれば、父がかつてカイルの警告を退けた時と、使う言葉が違うだけになる。守るつもりで、相手の選択を奪う。そういう真似をしないための契約だったはずだ。
「正午まで、どこへ行きたい」
エリナが顔を上げる。
「調査先でしたら」
「仕事のない日の行き先を聞いている」
答えがすぐには返らなかった。
カイルは庭、部屋、市場と三つ並べかけて、やめた。候補までこちらで埋めれば、選ばせるふりになる。
窓の外で、荷車の鈴が鳴った。朝市へ向かう野菜籠の上に、色糸を束ねた棒が揺れている。
「……市場を、歩いてみたいです」
「では、そうしよう」
「正午の報告には戻ります」
「それは私も受ける。二人で待っても、報告時刻は変わらないが」
サーラが鼻で笑った。
「公爵、休ませる顔で予定を増やすんじゃないよ」
「市場まで歩く予定が一つだ」
「数えてる時点で怪しいね」
伝令が吹き出し、エリナの口元もわずかにほどけた。
雨帳は卓上に残った。扉の外には赤い休務札が掛けられる。担当外の日を示し、相談を代行責任者へ回すための札だ。
カイルは最後に部屋を出た。雨帳へ戻りかけたエリナの目が、自分の足元へ向き直るのを待ってから。
◇
昼前の宿場市場には、乾いた香草と焼いた果物の匂いが満ちていた。
通りは荷車二台がすれ違える幅で、東に井戸広場、西に宿、南の坂を上れば見晴らし台へ出る。人の流れは多いが、昨日水を飲んだ者の列はもう救護所から消えていた。
エリナは雨帳を持たず、外套の留め具に休務札を下げている。それでも露店の前で人の靴底を見た。白い砂、赤い泥、黒い石粉。視線が黒へ止まり、すぐ離れる。
「気づいたことまで忘れる必要はない」
「ですが、口にすれば報告になります」
「報告にするか、ただ気づいただけにするかは、君が決めればいい」
「難しいですね」
「初日から上手なら、休息にも主任を置かねばならない」
エリナが小さく笑った。天気の話を禁じるつもりはなかった。空を見れば彼女は空を読む。そこから仕事へ走るかどうかを、彼女の手元へ返したかった。
「雨読み様、北の雲を少し――」
籠を抱えた商人が近づいたが、休務札に気づいて言葉を止めた。
エリナは一度だけ北を見てから、井戸広場を指す。
「本日の相談は、サーラさんの窓口へお願いします。私は休みです」
「こりゃ失礼を。休みなら、うちの焼き林檎を食べてください。相談より安い」
隣の露店から声が飛んだ。
薄く切った林檎が鉄板の上で焦げ、蜂蜜の甘い香りを立てている。二つの皿があり、一方には蜜が多く、もう一方には赤い酸実の汁が塗られていた。
「どちらにする」
エリナは甘い方を見た。次に、酸実の赤い筋へ目を移す。
「酸っぱい方が好きです。役には立ちませんけれど」
「では、それを覚えておける私には役に立つ」
露店主がにやりとし、紙袋へ両方を入れようとした。カイルは口を出さず、エリナを見る。
彼女は酸実の皿から、端がいちばん濃く焼けた一切れを自分で選んだ。
かじった直後、眉が少しだけ寄る。
「酸っぱすぎたか」
「いいえ。これくらいが好きです」
次の一切れも、同じ皿から取った。
市場の相談に一つも答えていない。水も救っていない。それでも、その好みを知れたことが、正午までに受け取るどの報告より嬉しかった。口にすれば彼女を困らせそうで、カイルは自分の分の林檎を食べた。確かに、かなり酸っぱい。
色糸の店では、エリナが深い青の糸巻きを手に取った。
「何に使う」
「まだ、決めていません」
「決めずに買ってもいい品らしい」
「糸は普通、用途を決めてから長さを測ります」
「今日は測らず一本にしよう」
彼女は迷った末、自分の財布から代金を出し、雨帳にも報告書にも使わない糸巻きを焼き林檎の紙袋と並べて籠へ収めた。
正午の定刻報告は、市場の伝令所で受けた。封鎖維持、採水継続、救護の追加なし。サーラの印がある。
エリナは読み終えると、紙をカイルへ渡した。追記も、出発の申し出もなかった。
「次は夕鐘です」
「ああ。それまで、どこへ行きたい」
今度の答えは早かった。
「見晴らし台へ。市場で買ったものを、静かなところで食べたいです」
◇
夕方の見晴らし台には、カイルとエリナのほか、詰所の観測伝令が一人いた。
市場の屋根が坂の下へ連なり、その向こうで三つの流域が色を変えている。北には低い灰色、西には青黒い筋、南には白く盛り上がる雲。風向きが違うのに、どれも宿場へ指を伸ばすように育っていた。
エリナが立ち上がる。
カイルも出口と伝令の位置を確かめた。馬は坂下に二頭。最初の命令を出せば、彼女はどこか一つへ向かうだろう。
けれど、エリナの手は雨帳を探さなかった。籠から三枚の携帯札を出す。観測班へ短い照会を送り、同じ形式で返答を受けるための小札だ。
「北、西、南の班へ。同時にお願いします。水位の上昇、退路が一つになる時刻、現地責任者の判断を」
伝令が三方向の走者を呼ぶ。
「君はどこへ行く」
問いは出動命令ではなかった。それでも、坂下の馬から目を離せない。
エリナは三つの雲を見たあと、隣の石席へ座り直した。
「ここで、返事を待ちます」
焼き林檎の紙袋が二人の間に置かれる。最後の一切れを彼女が半分に割った。片方を差し出され、受け取る。
雲は厚くなった。酸味は昼より少し穏やかで、紙袋には深い青の糸巻きが残っている。
やがて坂を上る足音が、北から来た。
「北班、返答です」
続けて西。少し遅れて南の走者も現れる。
三枚の札には、それぞれ違う水位と違う退路時刻が書かれていた。
最後の欄だけが、同じだった。
避難判断、必要。
エリナは札を重ねなかった。三枚を並べ、観測伝令へ顔を上げる。
「各班へ、受領と待機を。次の判断は、三人の責任者と一緒に出します」
走り出さずに告げた声を、カイルは隣で聞いた。




