第25話 水を売る商会
「公爵閣下。会計局へ兵を入れてください」
朝鐘が城門の石を震わせた。
カイルは門の記録所に立ち、差し出された捜索命令書を受け取らなかった。東窓から細い光が入り、机を挟んで護衛が二人、門番長、監察官付きの書記。壁際ではサーラが泥の乾いた靴で腕を組んでいる。夜明け前に峡谷から戻ったばかりで、ふくらはぎが階段のたびに張った。
旧堤防の調査員へ石を落とした荷車は、会計局が管理する第三号らしい。今すぐ踏み込めば、誰か一人は捕らえられるだろうが、帳簿まで燃やされれば、水を売る仕組みはそこで口を閉ざす。
「兵は門を閉じるために使う。会計局へ走らせるな」
「逃がします」
「誰を捕らえる」
護衛の返事が止まった。
机には、夕方の轍から取った灰色の蝋型がある。右輪の一箇所だけ、角張った鉄の形が食い込んでいた。
門出入札は、公用荷車の通過時刻と積荷、御者、管理部署を城門で残す札だ。門番長が束をほどき、昨日の札を時刻順に並べる。第三号は昼鐘の前に出て、夕鐘の半刻前に戻っている。積荷は「古帳簿二箱」。帰りは空荷。
「御者は?」
「会計局付きの者です。貸出札も確認しました」
出された貸出札の日付へ、書記が眉を寄せた。
「これ、出門の後に書かれています」
サーラが蝋型を修理台帳の図へ重ねる。
「右輪の継ぎ鉄は一枚。欠けの間も同じだね」
修理費の欄には、帰城した直後の時刻と、石で曲がった鉄を打ち直した代金があった。門札、貸出札、修理台帳。三枚は別々の棚に置かれ、それぞれなら言い訳ができる。
重ねると、荷車だけが一日の道筋を持った。
門番長が、帰り札の余白を爪で押さえた。そこには「確認済み」とだけあり、積荷を確かめた者の印がない。
「会計局の次席が後から来ました。急ぎの公用だ、空欄は自分が埋めると」
「埋めたか」
「いいえ。門を預かる印まで貸す気はありませんでした」
強い言い方の後、門番長は唾を飲んだ。会計局が相手なら、門番長の拒否だけで済まないことも分かっているのだろう。
カイルは証言欄を本人の側へ向けた。
「今の言葉を、あなたの名で残せるか」
「残します。門札を、荷車と一緒に嘘つきにしたくはありません」
通しで夜番をした老門番へ、厨房から温かい粥が運ばれてきた。湯気の向こうで、彼は震える手を隠さず自分の印を押した。
「原本を動かすな。ここで写しを三部。門番長、昨日の勤務者は交代させず、食事を持ってこさせろ。監察官にも立ち会いを頼む」
若い護衛が唇を噛んだ。
「その間に会計官が帳簿を――」
「帳簿の処分口は二つ。炉と裏の荷門だ。先に両方を見張れ」
出口の数を確かめると、護衛はようやく命令書を引いた。
カイルは、エリナたちが命を賭けて残した灰色の蝋型を封印布へ戻し、炉と裏門へ向かう護衛を見送った。
◇
昼の会計局は、外より乾いていた。
窓を閉めた記録室には紙粉の匂いがこもり、旧堤防の取水量、正式調査の日程、商会からの入金を記した三冊が長机へ並んでいる。書き手が違うせいで、時刻の表し方まで揃っていなかった。
会計官は椅子へ深く座り、両手を机の上へ出していた。
「荷車は貸しました。古帳簿を運ぶと聞いております。私が石を落とした証拠にはなりません」
「今は、あなたが何を命じたかを聞いていない」
「では、何を」
「消せない順番を作っている」
旧堤防から抜かれた一日の水量。その数字を写した日。調査日程と搬出経路が閲覧された時刻。荷車が出た時刻。
最後に、商会入金の帳簿を開いた。
紺のインクだけが新しい。
「優先取水情報料」
読み上げると、会計官の顎がわずかに上がった。
「水を売ったのではありません。どこに、いつ、どれだけ余るかを知らせただけです。穀物でも塩でも、先に知る者が値を決める」
「事故の日も?」
「昔からある契約です。私一人が止めれば、別の誰かが続けたでしょう」
会計官の声は揺れず、損を避けるための計算を今も続けていた。
帳簿の端に、調査日程を写した若い書記の印がある。本人は扉近くで、家族の住む通りを何度も口にした。会計官は、そのたび目を向けなかった。
「写せと命じられました。商会へ渡すとは、知りませんでした」
「落石の命令は見たか」
「見ていません。ただ、搬出順を送った翌朝、上位契約者から短い返書が来ました。道を閉じればよい、と」
書記はそれきり口を閉じ、膝の上で指を組んだ。
「家族は妹と母です。二人とも、会計局の裏通りで暮らしています」
「今夜は城の保護宿舎へ移れる。今の家へ見張りを置くこともできる。仕事を離れたいなら、その手続も別に出す」
「私だけ、ここに残るのは」
「選べる。今、答えなくてもいい」
若い書記の目が、机の三冊へ落ちた。
「母たちを移してください。私は、読み上げる順番を最後まで確かめます」
証言と安全を別々の命令書へ分け、二枚とも署名した。
室内の空気が止まる。
評議員が、声を落とした。
「閣下。城内の不祥事です。まず非公開で身柄を押さえ、外へ出す範囲を整えては」
右手の手袋を外した。署名台の金具が、指先に冷たかった。
父も、弟が死んだ後に記録の出し方を選んだ。家を守るつもりで、抜けた一頁を残した。
同じやり方は、もう使えない。
「証言者と家族を保護する。会計官も私兵へ渡さず、監察官の管理下へ置け」
「公爵家の名が――」
「公爵家の名も記録へ入れる」
公開予備審理は、本裁判の前に証拠と容疑、証言者保護を公の記録へ固定する手続だ。その命令書へ、自分の印を押した。
朱い封蝋が紙へ広がる。
印が固まるまで、誰も次の言葉を置かなかった。
◇
夕方の公開審理場には、住民席まで人が入っていた。
カイルは中央卓の後ろから、左右の扉、監察官の位置、疲れて肩を落とす若い書記を順に見た。エリナとサーラは住民代表の隣にいる。証言を命じてはいない。経過を聞くかどうかも、二人が選んだ。
記録係が時系列を読む。
削られた目盛り。無記載取水孔。会計局の荷車。門出入札。片輪の修理費。調査日程の写し。優先取水情報料。
一つ読み上げるたび、会計官の「貸しただけ」が細くなった。
「情報提供は認めます」
それでも声は崩れない。
「落石は上位契約者の判断です。数字を渡す仕事と、人を殺す命令を同じにされては困ります」
「同じとは記録しない」
カイルは三冊の間へ、指一本ぶんずつ隙間を作った。
「だから、どこからどこまでがあなたの選択か、消せない形で残す」
住民席から罵声が上がりかけ、監察官が鐘を一度鳴らした。
原本は三封に分けた。監察院、城の公開保管庫、住民代表の封印庫。灰色の封蝋を押す手は、もう一人分ではない。
最後の商会契約を開く。
ヴェルク系商会。王都で水利の仲介と優先契約を扱う一団だ。旧堤防の取水情報だけでなく、他領の貯留量にも同じ形式の値札が付いている。
最上段の契約先へ、見覚えのない印が押されていた。
波を三本重ね、その上に秤を置いた紋章。
「王都水務会議の契約印です」
監察官が言った時、審理終了の鐘と馬の蹄が重なった。
扉から入った伝令が、細長い筒を差し出す。
「エリナ・ヴァルクール殿へ。王都水務会議から召喚状です」
カイルは受け取らず、エリナへ視線を向けた。
彼女が自分で封を確かめ、紙を開く。召喚状の下にも、帳簿と同じ水務会議印があった。
「何と」
尋ねると、エリナは最初の二行を指で押さえた。
「旧堤防の水利契約について、資料を持参するように、と」
「発言席は?」
紙をめくる音だけがした。
身分、参考人。
発言席の欄は、空白だった。




