第24話 石を落とした者
退避棚へ最後の靴が滑り込んだ瞬間、坑口の午後の光が折れた。
石と石がぶつかる音が、狭い坑内を押し潰す。エリナは棚の入口に片膝をつき、そのすぐ後ろで封印箱を抱えた記録係と搬出班、サーラが奥の壁際へ寄った。護衛だけはまだ外を向いたままで、舞い込んだ砂が舌の奥をざらつかせる。
旧堤防事故の原因を示す金具と泥、削られた目盛りの写しは、ここから城の監察室へ運ぶはずだった。全員が埋まれば、事故はまたカイルの父一人の判断ミスとして閉じられ、水を売った者は土の下へ逃げる。
「点呼!」
サーラの声が飛ぶ。
返事は記録係、搬出班、護衛の順に重なり、最後にエリナも答えた。
坑口があった場所は、切石と土の灰色の壁に変わっている。箱の蓋には、さっき押したばかりの封蝋が、抱えた掌の熱で少し柔らかくなって残っていた。
「上にいた奴を追います」
護衛が短剣の柄へ手をかけた。
「この石を退ければ、まだ間に合う」
「待ってください」
言った声が、思ったより硬い。
護衛は振り返らなかった。剣では岩をどけられないと分かっているのに、指だけが柄を締めている。
「待てば逃げられる」
「掘れば、逃げる方もいなくなります」
護衛の肩が動いた。
灯りを一つ借り、崩れた石へ近づける。土煙は坑内へ広がらず、岩と岩の黒い隙間へ細く吸われ、上から落ちた小石も足元では止まらず二度跳ねて右の壁際へ転がっていく。
自然に崩れただけなら、空気は塞がれた坑の内側へ押し返される。今は逆で、向こう側に大きな空洞ができ、さらに上の土を引いている。
「サーラさん、音を」
木槌の柄が床へ触れた。
ご、と低い震えが一つ。間を置いて、もう一つ。二つ目は近い。
護衛がようやく剣から手を離した。
「出口の上に、まだ浮いている石があります。そこを掘れば支えを外します」
土煙の細い筋を指した。
「そこは出口ではありません。次の落下点です」
「他の道は」
「正面は使いません」
答えた途端、背後で誰かが息を吐いた。残る道の少なさを飲み込んだ、重い音だった。
サーラは退避棚の奥へ灯りを向けた。
「古い水抜き溝がある。人が腹で這える幅か、途中で潰れてるかは見なきゃ分からない」
「峡谷上の信号索は?」
「縦穴の脇だ。紐が生きてりゃ、上には知らせられる」
記録係が封印箱を抱え直す。
「原物はこれに全て――」
「全て、はやめます」
エリナは箱の前へしゃがんだ。
証拠分送は、原物、写し、寸法記録、証言を別の担当者と経路へ分け、一度の妨害で全部を失わないための手順だ。国境で写しを別便へ回した時には、城へ着いてから分けた。今は、坑の中で始めなければならない。
金具の擦り取りは記録係の油紙へ残し、寸法図は二枚作って搬出班の一人に持たせ、坑内脇道へ先に通す。原物は箱から小さな封印袋へ移し、水抜き溝を確かめる別の一人へ預けた。サーラの証言は本人の署名を残し、同じ内容を信号索で峡谷上へ送る。
封蝋を小刀で三つに割ると、柔らかい灰色の塊が別々の結び目へ押され、どれも形は歪んだが同じ印だけを残した。
「あなたはどれを持つ」
護衛が尋ねた。
「私は寸法図の一部だけです。原物はサーラさん、擦り取りは記録係。証言は上へ送ります」
「雨読みが空手で出るのか」
「私を止めても、調査が止まらないようにします」
護衛は口を結んだ。納得した顔ではなかった。
「犯人を逃がすことには変わりません」
「ええ」
そこで譲れば、彼の怒りまで軽く扱うことになる。
「ですから、逃げた跡を残してもらいます。追うのは、その後です」
サーラが水抜き溝の格子へ木槌を差し込んだ。錆が一枚剥がれ、冷たい空気が足首を撫でる。
「通ってるよ。泥はあるが、水は膝まで来ない」
記録係が顔をしかめた。
「この服で、ですか」
「外套を置いてきたのが役に立ったね」
「それを喜べるほど乾いてはおりません」
返事が半歩ずれて、サーラの口元だけが動いた。
縦穴の信号索も見つかり、二回引いて間を置き三回引くと、外の見張りから一回の返答が来た。
生きている。
発見物と時刻、妨害と退避、分送先を短い符号へ落とした記録係の読み上げに合わせて護衛が索を引くと、長い出来事が手の動きだけで谷の上へ運ばれていく。
最後の符号を返した時、崩れた坑口の奥で石が鳴った。
護衛が一歩出る。エリナはその袖をつかまず、床の白い標識縄を足で示した。
「棚の奥へ」
「まだ距離があります」
「小石が右へ跳ねました。落ちるのは、今立っている場所です」
彼の目が、岩とエリナの間を往復する。
先に縄を越えたのはサーラだ。
「死んで正しかったと言っても、誰も聞いちゃくれないよ」
護衛は奥歯を噛み、標識縄の内側へ下がった。
次の瞬間、坑口側の床が跳ねる。
音が身体の内側まで入り込んで灯りの炎を潰し、大きな切石がつい先ほど護衛のいた場所へ落ちた。さらに二つ、三つ。砂は退避棚の端まで押し寄せ、エリナの膝へ重く当たる。
誰も声を上げない。暗がりでサーラの点呼が始まり、返事が揃うまで、エリナは落石の数を数え続けた。
やがて灯りが戻る。
正面の道は、今度こそ天井まで石で埋まっていた。
「水抜き溝へ。原物から先に、ではありません。先頭は道を確かめる護衛、次が記録係、搬出班、サーラさん。私は最後に行きます」
「最後はあたしだ」
「寸法図の一部が私にあります」
「それは理由にならないね」
短い言い合いの末、最後尾はサーラになった。エリナはその一つ前を這う。
冷たい泥が肘まで染み、途中では石灰の塊で溝が狭くなって記録係の腰袋が引っかかった。護衛は前から引かず本人に留め具を外させ、擦り取りの包みだけを先へ渡してから空になった袋を横へ向ける。
身体が抜けた。
「外で服の弁償を申請します」
記録係の声に、今度は搬出班の誰かが笑った。土の味がする場所で、その一息だけが妙に普通だった。
◇
別出口へ出た時、峡谷の底には夕方の影が溜まっていた。
エリナは膝をついたまま人数を数えた。護衛、記録係、搬出班、サーラまで全員いる。水抜き溝の冷えが腕に残り、乾いた外気がかえって熱く感じられた。
上の見張りから伝令が斜面を下りてくる。
「信号を受けました。水抜き溝の包み一つ、縦穴からの証言、脇道へ回した写し二通。城の受領時刻も返っています」
記録係は泥だらけの袖をかばい、時刻だけを控える。
落石は人を埋められず、証拠も一つに戻せなかった。
護衛は斜面の先を見た。
「荷車です。まだ新しい」
乾いた土に二本の轍が伸びている。追えば、夕闇の前に姿くらいは見えるかもしれない。
「三人、私と――」
「先に杭をください」
エリナは轍の手前で止まった。
「また待てと?」
「人馬が通れば、この一台は消えます」
護衛の不満は消えていない。それでも今度は、近くの測量杭を二本抜いて渡した。
轍保全杭は、車輪跡の四隅、進行方向、見つけた時刻を固定し、後から同じ場所を比べられるようにする標識だ。サーラが外側を囲い、記録係が影の向きと時刻を書く。エリナは車輪の幅を測った。
右の跡だけ、一定の間隔で角ばった欠けがある。
「継ぎ鉄だね」
サーラが泥を指先で払う。
「輪を一周取り替える金がなくて、減った所だけ足したんだ。片側だけ」
封印袋へ使い切れず、布に残しておいた灰色の蝋を取り出す。夕方の冷気で、もう硬くなり始めていた。掌で温め、欠けの形へ薄く押し当てる。
護衛は轍の先を見たまま言った。
「型を取る間に、遠ざかります」
「型は残ります」
「人は名を変える」
「車輪は急には直せません」
答えると、彼は測量杭の頭を泥へ押し込んだ。
「終わったら、追跡班を出します」
「お願いします。轍を踏まない経路で」
不承不承の返事が返る。言い残した怒りは、そのままでよかった。
伝令がもう一枚、泥除けの筒から紙を出した。信号を受けた城の書記が、公用荷車台帳から片輪補修の車両だけを抜き出した控えだった。
車幅を読む。合う。
右輪の継ぎ鉄。位置も、欠けの間隔も同じだった。
紙の最下段に、車両の管理部署が記されている。
荷車第三号。右輪、継ぎ鉄一枚。
管理部署――会計局。




