第23話 沈んだ目盛り
干上がった谷の底で、水の音がした。
午前の光は旧堤防の石肌まで白く乾かし、ひびの一本一本に砂を詰めている。サーラは坑口の手前でしゃがみ、木槌の柄を地面へ当てた。背後にエリナ、その二歩後ろに監察官付きの記録係。保安班は縄の外で待たせてある。
昨日、カイルが差し出した事故指揮簿には退避命令の一頁がなく、綴じ糸にはこの谷の黄灰色の泥が残っていた。今日は現物から、事故の日にどこへ水が動いたかを拾う。その跡を逃せば、弟を奪った崩壊は父親一人の判断ミスで閉じられ、水を売る仕組みは今も土の下に残る。
柄の先から、かすかな震えが手へ返った。
「図面じゃ、この奥は閉じた壁だね」
坑口脇で記録係が設計図を開く。紙の上には、行き止まりを示す太い線が引かれていた。
「水音は、その閉じた先から聞こえます」
エリナは耳を石へ寄せず、壁際の細い湿りを見ていた。乾いた谷で、そこだけ砂が濃い。
「点検坑への入坑許可は出ていますが、閉壁の取り外しまでは申請にありません」
「だから壁を壊す前に、どこから鳴ってるか見るんだよ。申請書を増やしても、水は待っちゃくれない」
記録係の視線が、木槌からサーラの顔へ上がった。
「入るのは三人。保安班は外。あんた、その長い外套は置いてきな。釘に食われるよ」
「記録官の正装ですが」
「石は肩書を読まない」
渋い顔で外套を脱ぐ間に、支保材を木槌で叩いた。高い音、鈍い音、高い音。三本目だけ、虫歯のように中が空いている。印をつけ、新しい材を一本かませた。
坑口の外には、採取箱が三つ並んでいた。原物、擦り取り、寸法と証言。監察官が鍵を分け、城の書記と住民代表が別々に受け取る段取りだ。カイルは利害当事者として坑へ入らず、弟の水位札だけを封印袋で預けた。
あの公爵が外で待つと決めたのなら、こちらも生きて証拠を渡さなければ割に合わない。
先へ急げば早い。崩れれば、調べる人間まで古い事故の一部になる。そんな間抜けな上書きは御免だった。
腰縄を確かめ、三人で点検坑へ入った。
◇
昼前の取水室は、外より冷えていた。
灯りを低く掲げると、石壁に古い泥が帯のように残っている。設計図なら貯留槽の端だ。けれど壁の向こうでは、細い水が絶えず石を舐めていた。
「全部落とすなよ。泥も記録だ」
記録係が大きな刷毛を出しかけたので、細い豚毛へ替えさせる。指二本ぶんだけ泥を払うと、横に並ぶ刻みが現れた。上の三本は深い。下の一本は、石の肌ごと削られている。
基準目盛り。旧式の堤防が豪雨の勢いを受け流すため、貯留槽へ最低限残す水量と危険水位を刻んだ尺度だ。
「消したつもりかい。ずいぶん雑な石屋だ」
爪でなぞると、削り跡は周りより新しい。しかも端だけが泥の下へ続いていた。
エリナが封印袋から弟の水位札を出した。木札に刻まれた時刻と水位を、残った目盛りへ一つずつ合わせる。札を持つ指に力は入っていない。借りた証拠を、借りたまま扱う手だった。
「この札の水位なら、本来は最低線を下回っています。事故指揮簿では、安全域として扱われていました」
「目盛りを一本なくせば、紙の上じゃ足りてるように見える」
「下の刻みだけを削った時期も調べられますか」
「苔の戻り方で幅は絞れる。正確な日付は石屋の手入れ帳と突き合わせな」
記録係がすぐに書き留めた。昨日までなら、図面にない話を余白へ追いやったかもしれない。今日は線を引き直し、壁の実測を本文へ入れている。人も、道具と同じで使い方を覚えるらしい。
腹の奥へ、冷えた空気が沈んだ。
削られた箇所の下で、刷毛が金属に当たった。泥を狭く切って外すと、拳ほどの丸い金具が現れる。設計図にも管理簿にもない。貯留水を別の水路へ抜くため、あとから壁へ開けた無記載取水孔だった。
金具の周りへ細い炭筆で輪郭を写し、穴へ測り棒を差す。壁の向こうで上流側へ傾き、先端に淡い青白い粉が付いた。商業水路の石に出る鉱物だ。金具の内側は、貯留槽から上流へ向かう側だけ滑らかに減っている。
「普通に流したんじゃ、こっちが減る」
「はい。事故前に、貯留水を上流へ抜いています」
エリナは水位札、泥の付着線、金具の高さを順に置いた。三つを並べると、空白だった時間に水が動き始める。
事故前日の夕刻、札は最低線より下にあった。夜半の泥はさらに低い。そこへ豪雨が来て、朝の札だけが急に危険水位へ跳ねる。残っていたはずの水が先に消えたから、最初の濁流を逃がす時間がない。
「この旧堤防は、一定の水を槽へ残し、流れ込む水の勢いを横の逃がし道へ散らす造りです」
「先に売って腹を空にした。そこへ一気に食わせりゃ、門がもたない」
記録係が、事故指揮簿の写しへ目を落とした。
「公爵閣下の父君が退避を退けたことは、原因ではないのですか」
「原因の一つさ。だけど、余裕が売られてたのを知らずに同じ水位を見たなら、判断の土台から細工されてる。責任を消す話じゃない。何を見せられて決めたかを分けるんだ」
エリナが水位札の時刻を読み上げる。記録係が復唱し、サーラは泥の線を測った。
「豪雨だけでは、あの壊れ方になりません」
「雨が来る前に、守りの水を売ったんだ」
水音が急に大きくなったわけでもないのに、取水室が狭く感じられた。
◇
午後、鉱物の擦り取りを小瓶へ封じる頃には、灯油の匂いが濃くなっていた。
サーラは金具の留め方をもう一度見た。角を落とした四角い座金。狭い路地で蓋を開けても手を切らないよう、外側だけ丸めてある。
見覚えがあった。
貧民区へ夜の一桶を回すため、自分が使っていた許可外の分水口にも、同じ座金が付いていた。あちらはこの太い管の末端だ。城下へ寄る水を盗み返したつもりで、もっと上から売られてきた仕組みの尻尾を握っていた。
「サーラさん?」
エリナが急かさずに呼んだ。
指の腹へ、座金のざらつきが残っている。善意と言えば聞こえはいい。子どもを干上がらせないためだった。それでも、帳簿にない管を水の都合で使い、誰にも全体を見せなかった点は同じだ。
記録係の紙には発見箇所と寸法、鉱物、札との照合が並んでいた。綺麗すぎる紙だった。
「一行、空けな」
「何を追記しますか」
「この管の末端を、あたしも使った。貧民区の違法分水だ。いつから、何のために、誰が触ったか。あたしの名で入れる」
「今回の事故原因とは、分けて扱うこともできます」
「分けたら、また紙だけ綺麗になる。水は同じ管を通ったんだよ」
自分の名を口にして、記録係へ綴りを言う。ペン先が少し迷い、それから時刻の横へサーラ・ミークと書いた。
昔、最初に分水蓋を開けた夜のことを思い出す。共同井戸の底で、桶が石へ当たる乾いた音だけがした。許可を待てば、病児の朝まで水はもたない。だから開けた。翌朝も、その次も、報告欄は空けたままだった。
人を守った理由は消さない。空欄を作った手も消せない。
「使用量は分かりますか」
「夜鐘から朝鐘まで。最初の三日は桶十二。その後は水位を見て八から十。古い当番札を出すよ」
「上流の取水と同じ目的だったとは書きません」
「当たり前だ。商売と病人の水を一緒にされたら、あたしが訂正する」
エリナは庇う言葉を置かなかった。代わりに、上流の商業取水と下流の緊急分水を同じものにせず、目的と量、公開の有無を別欄へ分けた。
「これなら、つながりと違いの両方が残ります」
「そうしな。あたしの言い分まで混ぜるんじゃないよ」
「ご自分で署名してください」
「容赦ないねえ」
「サーラさんに教わりました」
ほんの少し笑う声が、石の冷たさを薄めた。
金具は原位置に封印を残す。鉱物片は記録係、寸法図はエリナ、泥と水位札の照合写しはサーラが持つ。三つを一箱へ放り込む方が運ぶには楽だ。奪う側にも楽になる。
小瓶の封蝋が固まるまで、乾パンを三つに割った。記録係は粉を紙へ落とさないよう、口を開けたまま困っている。
「外で食べます」
「外まで腹が待つなら、そうしな」
エリナは自分の分を半分だけ食べ、残りを布へ包んだ。観測の時には食事を忘れるくせがある。けれど今日は、サーラが言う前に水筒も一口飲んだ。
坑外の搬出班へ順番を伝え、最初の封印箱を縄へ結んだ。
◇
午後の光が坑口へ細く差し込んでいた。
箱を半分まで上げたところで、上から石の擦れる音がした。小石が一つ、二つ。自然崩れならばらばらに跳ねるはずの音が、同じ間を置いて続く。
サーラは縄をつかんだまま、出口の影を見た。
谷の縁に積まれた切石の一つが、まっすぐ外へせり出している。今朝、支保材を運び込んだ時にはなかった動きだ。その上の乾いた土には、車輪の溝が一本、新しく刻まれていた。
「箱を下ろせ。全員、退避棚へ戻るよ」
護衛が外を見上げる。
「誰かいるんですか」
「いるね。しかも、あたしたちが出る順番を知ってる」
記録係が封印箱を抱えようとした。サーラはその腕を払って、縄ごと床へ寝かせる。
「箱より先に足を動かしな。証拠は分けた。あんたは一人しかいない」
エリナが水位札の袋を胸元へ入れ、退避棚への標識縄を取った。今朝、急がず一本ずつ結んだ目印だ。
上で二つ目の切石が鳴る。
最後尾へ回り、三人分の踵を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
切石の下から、鉄の楔が抜ける音がした。




