第22話 弟を奪った堤防
手袋の内側で、細い革紐が手首を擦っていた。
夕方の城の公開査定席には西日が差し、監察官を挟んで住民代表と被災者代表が向かい合っている。扉は左右に二つ。エリナは記録机の端、サーラは後列、書記はカイルの右手に座っていた。固定布の下では、先日の落石で痛めた肩が脈に合わせて疼く。
つい先ほど、エリナたちの新水路と住民記録は王都の正式な参照事例に認められた。その席で監察官が開いたのは、父が指揮し、弟が死んだ古い堤防事故の指揮簿だった。増水時の判断者、退避命令、門の操作、時刻を残す原簿から、一頁だけが失われている。
今ここで事実を分けて答えなければ、新しい制度まで過去を隠すための飾りに見える。
「説明していただけますか」
監察官の問いは、先ほどと同じ声量だった。
カイルは左手で手袋を外した。革紐の先に、掌ほどの木札が隠れている。水位札――現場の目盛りと観測時刻を刻み、指揮所へ運ぶための耐水木札だ。表面は黒ずみ、角が一つ欠けていた。
「分かっている事実から答えます。事故の指揮官は父でした。死者の中に、私の弟がいます。当時、私も現場にいました」
後列で衣擦れがした。
「では、なぜ公爵閣下の証言がないのです」
「分かりません。私が書かなかったのか、書いたものが失われたのか、その区別も今はつきません」
書記が顔を上げた。弟を失った少年だったと言えば、説明を少しは軽くできる。死者を盾にした空欄は、父がしてきたものと変わらない。
「今夜中に、原簿の保管台帳と綴じ直しの記録を出します。明朝、調査の範囲、原本管理者、立会人を記した申請書を提出します」
被災者代表が腕を組んだ。
「一晩あれば、また一頁なくなるかもしれない」
疑う声は当然だった。
「今から原簿は監察官の封印下へ置きます。城側は単独で触れません。鍵は王都書記と住民代表に一つずつ預ける」
「あなたご自身は調査から外れるのですか」
「利害当事者として証言します。調査の指揮はしません」
言い切ると、右肩が一度強く痛んだ。自分で行けば早い。自分が全部見れば、誰にも抜かせない。そう考える癖は、落石の夜に署名した出動規則を、もう内側から破ろうとしている。
監察官は原簿を閉じた。
「新制度の認証は撤回しません。ただし、今回も同じ原則で追います。身分ではなく、時刻、場所、原本、取扱者です」
「承知しました」
同情も免責も出なかった。そのことに、少しだけ呼吸がしやすくなる。
住民代表の一人が立ち、封印箱の鍵を受け取った。手の震えを隠そうともせず、首から下げた。書記たちは調査期限を書き込み始める。
机の水差しから、誰かが杯へ水を注いだ。カイルの前の一杯だけは、査定が終わるまでそのまま残った。
◇
夜の旧河道展望台は、城壁の北端にある。
欄干の下には、今は道になった川筋が月明かりを返していた。公開席から来たエリナは外套の襟を押さえ、カイルから二歩離れた位置に立つ。見張りは階段下。出口は一つだが、声は届かない。
「お呼びになった理由を伺っても?」
「公開席で話せなかった事実がある。明日の証言に含める前に、君へ話しておきたい」
「私だけに、ですか」
「ああ」
言葉にすると、選んだ相手の輪郭が急にはっきりした。
少年だった頃、古い堤防の上流門で水位を測った。晴れているのに、門を一段開けても水が下がらない。柱の苔が水の中で逆向きに伏せ、吐水路から戻るはずのない泡が上がっていた。
水位札へ時刻を刻み、父のいる指揮所へ持っていった。
「父は工事が遅れていると言った。退避鐘は、次の測定まで待つと」
右肩を夜気が冷やす。固定布の端が、昼より硬く感じられた。
「私は反対した。だが、命令を覆すほど強くは言わなかった」
弟は下流門の見回りに残っていた。迎えに戻ると言った時、父から長男は指揮所を離れるなと止められた。カイルは従った。
次の鐘は鳴らなかった。
「水が引いた翌朝、封鎖線の外でこれが見つかった」
掌の木札を月明かりへ出した。自分が持っていった札とは別のものだ。角の欠け方も、紐の結び方も覚えている。弟が最後に持っていた。
エリナは札へ手を伸ばさなかった。
「事故のあと、記録を見ましたか」
「見た。父の退避保留は『観測継続』とだけ書かれていた。私の警告も、弟の持ち場もなかった」
「欠けた頁が、その時からなかったかは」
「覚えていない。帳面を開いていたのに、見たい言葉だけ探していた」
いくら門を数えても、あの一つへ戻る道はない。
「それで、ご自分が全員を守ればよいと?」
声は静かだった。慰めへ逃がしてはくれない。
「一人で行けば、他の者を死なせずに済むと思っていた」
「先日の孤立集落への出動では、あなたが戻らなければ代わりに判断する方がいませんでした」
「ああ。父と同じ独断者になりたくなくて、別の形で同じ空欄を作った」
水位札の紐を指へ巻く。古い革はもう伸びない。
「君に話せば、私を調査から遠ざけるかもしれないと思った。あるいは、気を遣って同行するかもしれないと」
「私の判断まで先に決めていたのですね」
「そうだ」
エリナは欄干へ背を預けず、こちらを見ていた。
「では、今決めてください。誰と、どの記録を共有しますか」
答えは、ずっと指の中にあった。
「この札を監察官へ証拠として出す。サーラに現物の状態を見てもらう。保管台帳は王都書記と住民代表の立会いで開く」
「私は?」
「観測記録の照合を頼みたい。ただし、来ない選択もある。私の過去を聞いたからといって、君の職務にはならない」
「照合する記録があり、私の専門が必要なら参加します。あなたを慰めるために原本を読むことはできません」
その返事が、ありがたかった。
手袋を完全に外し、水位札を差し出す。
「預かってくれ。明日まで」
そこで初めて、エリナの指が木札の紐を受け取った。掌を包むことも、痛みを軽くする言葉を探すこともしない。欠けた角を月へ向け、刻まれた時刻を読む。
「受領時刻も残します」
「君らしいな」
「証拠を預かっていますので」
乾いた答えのあと、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
階段下で、見張りが夜半の灯へ油を足していた。明朝の記録庫へ持ち込む書類を、二人で一つずつ挙げていった。
◇
翌朝の堤防記録庫には、監察官、エリナ、サーラ、王都書記、住民代表、それに城の保管係が集まった。
封印箱の二つの鍵が別々に回る。窓は東に一つ。カイルは扉の外側に護衛を置き、自分の席を原簿から最も遠い端にした。
保管係が帳面を見比べ、困ったように眉を寄せた。
「欠けた箇所は、事故後の整理で空白頁を除いたとあります。前任者の処理印もございます」
「空白だったと確かめた者は」
「記載がありません」
調査は早くも、用意された説明へぶつかった。
エリナが頁へ触れず、残った受領印を指した。印の半分が前頁の端にあり、もう半分が欠けた側へ続いている。空白頁なら、綴じたあとに受領印をまたがせる理由がない。
王都書記は保管台帳の冊数欄を読み上げた。
「事故当年の受領時は二十四葉。翌年の整理後は二十三葉。除去記録はありますが、廃棄立会人も焼却時刻もない」
「あとから抜いたのは確かということか」
「少なくとも、受領後です」
サーラが綴じ糸へ鼻を寄せた。
「この砂、記録庫の床の色じゃないね」
糸の毛羽に、黄灰色の粒と黒い薄片が噛んでいる。保管係は清掃用の砂だと主張したが、サーラは首を振った。
「古い堤防の点検坑だ。あそこの壁土には、制水板の黒錆が混じる」
カイルは水位札を机の中央へ置くよう、エリナに頼んだ。弟の札に残る乾いた泥も、同じ黄灰色をしていた。
偶然と呼ぶには、調べられる場所ができた。
「正式調査を申請します」
用意した書面を監察官へ差し出した。原簿は王都監察の封印下に置く。写しは住民代表と王都書記が一部ずつ持つ。現地の指揮はサーラ。観測記録の照合はエリナ。自分は証言者として同行し、原物の採取と保管を命じない。
署名欄の横には、利害関係の申告欄も設けた。
「エリナ。参加しますか」
「はい。記録照合の範囲で参加します」
「サーラ」
「現場を見てから、紙の言い分を聞くよ」
監察官が受理印を押す。住民代表はその時刻を読み上げ、王都書記が二つの写しへ同じ数字を書いた。
サーラはもう扉へ向かっていた。袖をまくり、振り返る。
「紙より底を見に行くよ」




