第26話 雨読みの席
王都水務会議の受付台で、エリナに渡された席札だけが白木のままだった。
朝の光が高窓から差し、濃紺の制服を着た会議書記の袖口を照らしている。左には監察官、二歩後ろにはカイル。長い馬車旅で、帳簿を包んだ革の角はうっすら白く擦れていた。
旧堤防から持ち出した帳簿と住民観測の写しを、王都の正式な議事録へ載せるために来た。資料だけを渡して帰れば、水を売った仕組みは調べられても、泥の中で時刻を残した人々は、また名のない提供者に戻る。
「参考人の方はこちらです」
書記が白木の札を傍聴席の束へ重ねた。
「召喚状には、資料を持参するようにとあります」
「はい。資料は会議中に読み上げられます。参考人ご本人の発言は、議長が必要と認めた時だけです」
「議事録の確認はできますか」
「出席者ではありませんので」
持参した召喚状の下には、昨日封じた商会帳簿と同じ水務会議印がある。会議が求めたのは彼女の記録だけで、言葉は傍聴席に置いていかれる。
カイルが、受付台の端へ手袋を置いた。
「私の代理席は使える。報告の名義も君にする」
声は低い。勧めるだけで、返事を迫る響きはなかった。
「代理席以外の手続は」
エリナは白木の札から目を上げた。
「ありがとうございます。けれど、代理席は使いません」
言い切ると、書記の眉がわずかに寄る。
「アルヴェーン公の代理なら、すぐに入場できますが」
「私はカイル閣下の代理ではありません。雨読みとして呼ばれました」
監察官が一冊の査定書を受付台へ置いた。予報の的中だけでなく、外れた日、赤い停止札、住民側へ残した写しまで綴られている。
その上へ、エリナはもう一つの束を重ねた。
改定連署。規則を変える必要があると、異なる地域の当事者が氏名と観測印で保証する請願だ。井戸番、貧民区の測り手、染料職人、故国から来た避難民。魚の印は、ニルのものだった。
「会議当日の規則改定は扱えません」
「召喚状が届いたのは昨日です」
「ですから、議長の裁量で今回だけ発言を――」
「今回だけでは、次の雨読みが同じ札を渡されます」
受付台に置いた白木は、軽い音を立てた。
「査定と連署が足りないなら、不足を議事録へ残してください。足りるなら、改定請願として受理してください」
書記は監察官を見た。
「査定は正式です」と監察官が答える。「受理を拒むなら、その理由も査定対象になります」
遠くで開会前の鐘が一度鳴る。
書記は連署を数え直し、白木の札を傍聴席の束から抜いた。
「請願として議長へ回します。発言は、まだ保証できません」
「承知しました」
名のない札を持って、会議場へ入った。
◇
半円形の会議場には、領名と爵位を書いた席札が階段状に並ぶ。
エリナは末席の後ろに立った。正面の議長、その左右に各領代表。監察官と住民代表は書記卓の近くへ座り、カイルは自領の席にいる。こちらを見たが、何も言わなかった。
議長は連署の束をめくり、最後に白木の札を持ち上げた。
「請願の趣旨は理解した。本日に限り、参考人へ発言を許可する。これで報告は可能だろう」
差し出された許可証には、今日の日付だけが記されていた。
受け取れば、旧堤防の帳簿をすぐ公へ出せる。拒めば、資料を抱えたまま廊下へ戻るかもしれない。
それでも、エリナは紙を議長の側へ向け直した。
「本日限りの許可は、お返しします」
椅子が一つ軋んだ。
「報告を拒むのか」
「報告するために、規則の改定をお願いします。今回の資料には、私が来る前から水位を測っていた人の名があります。次に異常を見つける方が爵位を持つとは限りません」
右手の代表が口を挟んだ。
「領地も官職もない者が、誤った発言の責任をどう負う。記録だけ提出すれば検証はできる」
「誤りを隠さず残すことで負います」
監察官の査定書を開いた。
「これは私の成功一覧ではありません。予報を外し、飲用接続を止めた記録も入っています。誰が、いつ、何を見て、どこで止めたか。本人が発言し、議事録を確かめなければ、訂正する責任だけが抜けます」
住民代表が立った。礼服の袖からのぞく手には、井戸縄の擦れが残っている。
「魚印を書いた子どもは、ここへ来られません。けれど、あの印が公爵家の測定より先に汚染を見つけました。名を削るなら、記録を持ってきた意味がありません」
「子どもを議員にしろという話ではない」
反対した代表の声は、まだ硬い。
「議員ではありません」
エリナは白木の札を胸の前へ置いた。
「専門家席です。検証可能な職能と正式査定を条件に、発言し、自分の発言がどう記録されたかを確認する席です。利害があれば、先に申告します」
議長は指で卓を二度叩いた。
書記たちが集まり、規則文を短く書き直す。今回の請願者だけという文言には、住民代表が首を振った。雨読みだけという文言には、監察官が他の技師を排除すると指摘した。
反対の声は消えない。それでも、反対理由まで記録する条件で採決へ進んだ。
やがて議長が木槌を置く。
「水務会議規則に専門家席を新設する。発言権、議事録確認権、利益相反の申告義務を伴う。資格は正式査定と複数当事者の連署により審査する」
会議書記が白木の札を受け取り、墨を含ませた。
専門家席。
その下へ、エリナ・ヴァルクール。
乾く前の文字を確かめてから、席に着いた。椅子は少し高く、足裏が床へつきにくい。隣の住民代表が、見えないように小さな足台を押してきた。
「王都の椅子は、背丈まで査定するらしいですね」
足台へ靴先を乗せた。今度は床が近い。
「次の改定請願に入れましょうか」
「そこまでは自分で直します」
短いやり取りの間にも、墨はゆっくり乾いていった。
報告を始めた。
最初の井戸では、水が出たことより、金属臭と泡を理由に使用を止めたこと。貧民区では、ニルの魚印を公爵家の欄より先に置いたこと。故国から来た人々には、最低配水を労働の対価にせず、有給の補修を別に選べるようにしたこと。
旧堤防では、削られた目盛りと無記載取水孔が見つかった。会計局の帳簿は、ヴェルク系商会への情報料と、王都水務会議の契約印へつながっている。
紙をめくっていた音が、議場のあちこちで止まった。
議長は原本の保全先を確認し、三封とも異なる管理者にあると知ると、報告を正式議題として採択した。
書記が議事録を読み返す。
井戸番の名。測り手の名。職人代表の名。避難民代表の名。
人の名前が王都の高い天井へ上がり、誰にも消されず紙へ戻ってきた。
「異議があります」
聞き覚えのある声だった。
向かいの列で、トリスタンが立っている。紺の綴じ紐をかけた論文を掲げ、こちらへ微笑んだ。
「今の治水理論は、彼女が私の婚約者だった頃に共同で研究したものです。単独の成果として扱うのは適切ではありません」
議場の視線が一斉に集まる。
昔なら、先に説明しなければと口を開いただろう。
今は、論文の開かれた頁を見た。
整った文字の中に、一箇所だけ、誤った水位を一本線で残し、欄外へ正しい値を書いた箇所がある。
自分の雨帳で、一度だけした書き損じだった。
「その論文を、証拠保全してください」
エリナは議長へ告げた。
「原本と照合できます」
トリスタンの笑みが、ほんの少し薄くなる。
議長が木槌を鳴らした。
「公開討論は明朝。双方、原本を持参すること」
白木だった席札には、もうエリナの名がある。
トリスタンは論文を閉じた。エリナは、その頁に残った一本線から目を離さなかった。




