第16話 乾土の崩落
雨の降っていない観測室で、三通の急報が泥水を落としていた。
夕刻の公爵邸には、エリナとカイル、窓際にサーラ、壁際に二人の観測員がいる。西境では日暮れ前から局地豪雨が始まり、馬を替えてきた伝令たちは外の廊下で息を整えていた。
机に広がるのは、上部斜面の亀裂、谷筋の赤黒い濁水、村井戸の濁りを知らせる三枚だ。今夜のうちに西境二村を高台へ移さなければ、一本しかない旧道が先に塞がり、乾いた斜面が家ごと人を押し流す。
未開封のミレーユの手紙は、公爵邸の受領皿に残してきた。けれど遠雷は、紙より先にアルヴェーン領へ届いていた。
「亀裂はどちら向きですか」
「南へ二本。古い畑境を横切っています」
最初の伝令が答えた。
「濁水へ変わった時刻は」
「夕鐘の少し前です。最初は澄んでいました」
二枚目へ時刻を書き、井戸の報告を重ねる。水面までの距離は変わっていない。それでも汲んだ水に赤い筋が浮く。地表の雨が、いつもの水脈とは違う割れ目へ入り始めた証拠だった。
「上の斜面を見ます。そこから村へ下ります」
「日暮れまでに、その足で二か所は無理だよ」
サーラの指が、地図の上部と村を順に叩いた。
「馬でも旧道は一本だ。あんたが上へ行けば、下は誰の鐘を待つ」
答える前に、目が二つの道筋を往復した。上部の亀裂を確かめてから村井戸を見る。先に村へ入れば、濁りを測る間に上は闇の中だ。どちらを選んでも、片方には夜が来る。
カイルが外した手袋を地図の端へ置いた。
「必要なのは、責任者と期限と、君がいなくても動ける条件だ。何を同じにすれば二班へ分けられる」
新しい札を三枚、机の中央へ引いた。
斜面警戒票。亀裂、濁水、井戸の濁りを三段階で記し、離れた現場でも同じ避難判断をするための札だ。三つの欄へ赤い線を一本ずつ引く。
「サーラさんは上部監視班を。私は村内避難班を率います。条件が一つなら準備、二つなら集合、三つなら即時退避です」
「上で三つ揃ったら、あんたへ馬を飛ばすのかい」
試す声だった。
斜面警戒票をサーラの側へ滑らせる。
「いいえ。私を待たず、鐘を鳴らしてください」
退避鐘は、一打で準備、二打で集合、三打で即時退避を村じゅうへ知らせる鐘だ。上部の鐘が鳴れば、村内班は同じ警戒票を見て動く。
「聞いたな」
カイルが観測員たちへ向き直る。
「避難命令は私の名で出す。各班の判断は、そこにいる責任者が下す。馬、灯り、荷車を二組。出発まで十五分だ」
サーラは一枚を丸めず、板へ挟んだ。紙が濡れても三本の線が消えないよう、炭の上から蝋を薄くこする。
「あたしの鐘を信じな」
「はい」
「返事が早すぎるね」
「怖いので、今のうちに言いました」
サーラが一度だけ鼻で笑った。
二組の足音が、別々の階段へ散っていく。
◇
夜の斜面村では、まだ雨粒が落ちていなかった。
村内避難班とエリナが広場へ着くと、東の空には細い月が残り、斜面の向こうだけが雲で消えている。村長は井戸端、住民は家々の戸口に集まり、乾いた土を踏む靴へ不満を込めていた。
馬を急がせたせいで、膝の内側が鞍に擦れて痛む。けれど今は、住民を旧道の上の高台へ移し、上部班の鐘が三打へ変わる前に最後の荷車を通す。
間に合わなければ、暗闇の中で退路から呑まれる。
「この土で崩れると言うのですか」
村長が提灯を下げた。
「雨の匂いさえしません。畑を見れば分かるでしょう」
分かるからこそ、急がなければならない。
井戸から一杯だけ汲んでもらい、白い布へ落とす。水は透明に見えたが、布の織り目に赤い細筋が残った。次に、谷から届いた瓶の水を並べる。こちらは底が見えないほど濁っている。
「上では雨が降っています。長く乾いた土には割れ目が多く、水が同じ筋へ集まります。谷の水がこの色へ変わり、井戸にも土が入りました」
斜面警戒票の二本目へ印を置く。
「残る条件は、上部の亀裂が広がることです。二打で全員を広場へ。三打で、荷を残して高台へ上がってください」
「家畜はどうする」
「歩かせられる分だけ連れてください。荷車へ積むのは子ども、歩けない方、薬と水です」
「明日の種籾は」
別の声が飛ぶ。
「手で持てる分を。取りに戻る時間は作れません」
村長の口元が固くなった。それでも背後で、一人の女が竈の火へ柄杓の水をかけた。白い蒸気が上がり、隣家でも戸板の音がする。
遠くで鐘が二度鳴った。
話し声が止まる。
「集合です」
観測員が人数札を開いた。住民が家ごとに名を告げ、白い石を一つずつ籠へ移していく。泣き出した幼子を抱く父親。靴を左右逆に履いた少年。豆の煮鍋を布で包み、そのまま持ってきた老女。
村長はまだ井戸端に立っていた。
「上を見てからでも遅くない。あんたなら分かるのだろう」
分かるはずだ、と自分の中からも声がした。
坂を上れば、亀裂をこの目で測れる。赤黒い水の温度も粒も、自分の指なら拾えるはずだ。そうすれば、自分の命令として迷わず三打を鳴らせる。
雨帳の留め具へ触れた。
高い斜面から、三度目の鐘が届く。
一打。
二打。
三打。
留め具から手を外し、人数札を取った。
「上部班が三条件を確認しました。退避します」
「でも、あなたは見ていない」
「サーラさんが見ました。同じ警戒票で見ています」
村長へ籠を渡す。
「残りを数えてください」
声を張ると、観測員が旧道の入口で灯りを振った。荷車が一台ずつ動き出す。車輪が乾いた轍を削り、家畜の鈴と子どもの泣き声が狭い道へ重なった。
途中で、薬袋を忘れたという声が上がった。家は広場のすぐ脇だ。観測員一人へ戻る時間を告げ、村長には列を止めないよう頼む。袋を抱えた観測員が追いつく間にも、白い石は籠から人数札へ移っていった。
最後は、歩けない老人と種籾三袋を載せた荷車だった。
高台への曲がり角で車輪が石へ噛んだ。押しに戻ろうとすると、村長と二人の若者が先に肩を入れる。
「あんたは数えろ!」
荷車が石を越えた。
最後の白い石を人数札へ置く。
その瞬間、谷の奥で木が折れた。
雨音より低い響きが地面を伝い、斜面の暗がりが一枚ずつ崩れる。赤黒い水が土を巻き込み、畑の境を越え、村の外れへ押し寄せた。空き家の柵が倒れ、濁流は家並みの手前で向きを変える。
誰も声を出せなかった。
提灯を掲げると、泥が戸口の高さへ横線を残していた。
◇
深夜の高台避難所では、濡れた靴が壁際へ並んでいた。
エリナは入口の長机で人数札を押さえ、カイルは水と毛布の配分を見ている。戻ったサーラは向かいの椅子へ座り、三本目まで赤く濡れた斜面警戒票を板ごと置いた。
本村の住民は全員いる。怪我人もいない。今は二班を休ませ、夜明け後の経路を決める必要がある。無理に再出動させれば、次の崩落で避難所を守る者まで失う。
「上で見た順をお願いします」
サーラが亀裂の開きと水の色、鐘を鳴らした時刻を短く告げる。エリナは同じ斜面へ見に戻らず、報告を自分の札へ写した。
薄い豆スープが回ってきた。避難してきた老女が、鍋ごと持ち出したものだ。水で増やしすぎて豆は数えるほどしかない。それでも、子どもが器の底を匙で追う音に、張りつめていた部屋が少しだけほどけた。
伝令が戸口へ駆け込んだ。
「旧道が落ちました。奥の小集落へ通じる橋も、片側が埋まっています」
「住民は」
「家は高い場所にあります。ただ、薬と水が朝まで持ちません」
立ち上がりかけた膝を、机の下へ戻す。サーラの袖から覗く手は震え、観測員の一人は壁にもたれたまま目を閉じていた。
「交代班が来るまで、二班とも休息です」
「物資だけは先に出す必要がある」
カイルが旧道の報告を取った。
「護衛を絞れば動ける」
「新しい崩落の位置が分かりません。夜明け前に経路を確認してください」
「薬が切れる時刻も夜明け前だ」
「だからこそ、戻る計画のない出動は認められません」
一瞬、言葉が途切れた。
カイルは報告書を折らず、机へ戻した。
「分かった。まず水を配る」
そう言って、避難所の奥へ向かった。
エリナは残りの人数札を綴じ、サーラへ休息場所を示した。泥のついた警戒票は二枚とも同じ時刻を残している。自分が上部へ行かなくても、鐘は鳴り、村は動いた。
その事実を雨帳へ書き終えた時、別の伝令が青ざめた顔で入ってきた。
「エリナ様。公爵閣下が、護衛二名と物資を持って出ました」
「どちらへ」
「旧道の迂回路です。上部班は起こすな、と」
差し出された出動票には、薬、水、出発時刻がカイルの字で並んでいた。
責任者欄は埋まっている。
その下の、彼が戻れない時に救援本部を預かる者の欄だけが空白だった。




