第17話 先に戻る人
「観測班は起こすな」
夜明け前の高台で、カイルは出口脇の長机へ水袋を六つ並べた。
避難所の奥では、夜通し動いた二班が毛布にくるまり、灯りも半分まで落とされている。戸口に残る護衛は二人で、旧道の先の小集落へ薬と水を届けられるのは、この人数だけだった。
前話の崩落で本村は全員退避できた。だが、橋の片側を埋めた土砂が奥の集落を孤立させ、病人の薬は朝鐘まで持たないため、ここで待てば助けを求めた者が最初に代価を払う。
その一方で領主まで戻らなければ、次の崩落で救援本部の命令が止まる。
「迂回路は山羊道の途中まで確認できています」
泥のついた伝令が、机へ細い地図を置いた。
「その先は、新しい水筋が横切っています」
「幅は」
「暗くて測れませんでした。馬は通せません」
帰りに空いた袋が暴れて薬箱を傷めないよう、水袋を荷車の低い側へ寄せ、薬箱を中央に据えてから、余った縄を底板へ回した。
書記が出動引継票を差し出す。現場責任者が不在になった時、同じ権限で撤退と人員配置を決める者まで、一枚に残す記録だ。
目的。経路。出発時刻。責任者。
代行責任者の欄で筆が止まった。
「サーラは上部班と休んでいる。エリナも、ようやく座ったところだ」
「では、起きている者から――」
「二人とも次の崩落に要る」
書記の返事を待たず、帰還予定へ朝二つ目の鐘と書いた。
「私が戻る。それまで水の配分は現行のまま。変更が必要なら、村長と財務官の連署を取れ」
片方の護衛が荷縄を握ったまま尋ねる。
「エリナ様へは」
「経路を確かめてから報告する」
確かめた経路を持ち帰れば、約束は守ったことになる。
出動票を二つ折りにし、内ポケットへ入れた。代行欄だけが、紙の白さを残していた。
◇
山腹の迂回路には、早朝の光がまだ谷底まで届いていなかった。
先頭の護衛が十二歩先の岩棚を調べ、後ろの護衛が荷車を押す。カイルは右側の縄を取り、斜面から落ちてくる小石の音を数えていた。
雨は止んでいても、道を横切る細流は赤黒く、濡れた土には新しい割れ目が二本走っていた。
「ここで戻れば、別の道は」
「南へ半日です」
朝鐘には間に合わない。
荷縄が水を吸い、手袋越しにも重くなる。孤立集落には、熱を出した子どもと、薬を切らせない老人がいると聞いた。待つという言葉は、ここでは二人の顔を選んで捨てることに思えた。
「荷を半分ずつ運びますか」
「往復の間に道が落ちる。まとめて越す」
前方の護衛が、岩棚の先へ足を置いた。
乾いた音が一つした。
雨音には混じらない、石の内側が割れる音だった。
「戻れ!」
護衛たちを曲がり角の岩陰へ退かせる。荷車の片輪が沈み、谷側へ傾いた。縄を手放せば、薬箱から先に落ちる。
根元の露出した木へ縄を回そうとした時、肩へ衝撃が来た。
視界が白くなったが、ここで膝をつけば縄が緩む。右腕を上げようとしても、そこだけ命令が届かないように動かなかった。
「閣下!」
「前へ出るな。次が落ちる」
岩陰まで八歩。荷車までは五歩。
先頭の護衛が腹ばいで予備縄を受け取り、後ろを押していた護衛が木の根へ巻く。三人で荷車を岩棚へ引き戻した。
小石が止まるまで誰も立たず、やがて谷から鳥の声が一つ上がる頃には、肩の外套が裂け、触れなくても鈍い重さが腕の付け根へ溜まっていた。
「一人は本部へ戻れ」
「お供します」
「報告も救援だ。崩れた位置と、私の負傷を伝えろ」
今度は返事を待った。
護衛が不承不承うなずき、来た道へ戻る。残った護衛と荷を分け、水袋の革を背へ押しつけながら、赤黒い細流の先へ進んだ。
◇
孤立集落では、朝の煮炊きの煙が屋根より低く漂っていた。
集落は旧道より一段高い岩地にあり、家は流されていない。だが共同井戸には底が見え、広場の長椅子には熱を出した子どもが横たわっていた。
薬箱の封を見た治療係が、初めて息を吐く。
「間に合いました。これなら昼までに熱を下げられます」
水袋の口を開けると、住民たちが器を持って集まった。カイルは病人と乳児の数を先に聞き、配る量を治療係へ決めてもらう。
軽くなった袋が、石畳の上でぺたんと折れた。
村長は礼を言わなかった。裂けた外套と動かない右腕を見て、眉間の皺を深くする。
「公爵様がここで倒れたら、次の村には誰が命令するんです」
「護衛を一人、本部へ戻した」
「伝える人じゃない。決める人です」
答えが出なかった。
内ポケットから出動引継票を取り出す。汗と雨で折り目が柔らかくなっている。目的も時刻も責任者も読めた。
代行欄だけが白い。
治療係が薬草を煮始め、苦い匂いが広場へ流れた。子どもが顔をしかめる。母親は笑いながら、鼻をつまんで飲ませていた。
薬は届いた。
乾いた沢の向こうから笛が二度鳴った。本部へ戻した護衛と、交代の救援班がこちらへ降りてくる。
井戸の深さと残量、病人の数、帰りに使える道まで引き継ぐと、村長は引継票の空白へ目を置いたまま口を開いた。
「次は、戻る人も先に決めてください」
「そうする」
カイルは折れた出動票を内ポケットへ戻し、追いついた救援班の後について集落を出た。
◇
朝の救援本部には、濡れた靴と乾きかけた泥の匂いが残っていた。
戻ったカイルを待っていたのは、エリナとサーラ、それから出動票を渡した書記だった。治療係が肩へ薬草布を巻いている間も、三人は長机の向こうから動かない。
サーラは腕を組み、エリナは雨帳の角を指先で揃えていた。
「孤立集落へ薬と水は届いた。病人は――」
「報告は受けました」
敬語が硬い。
怒っている時の声だと知っていたが、自分へ向けられるのは初めてだった。
「観測班を起こさなかった判断も理解しています。皆、次の崩落に備える必要がありました」
「なら」
「ですが、相談なしの自己犠牲も命令と同じです」
治療係の手が、結び目の前で止まった。
「私は命じていない」
「閣下が『行く』と決めた後で、誰が別の案を出せますか」
反射的な答えが喉まで来た。領主が危険を引き受ければ部下を休ませられ、命令した者が最後に責任を負う。それが自分の役目だと考えてきたのに、出動票の白い欄が机の上にある。
「あなたが戻らなければ、私は次の避難を誰と決めればよかったのですか」
エリナの指が止まった。
「あなたが戻る計画までが救援です」
最後の一語だけが少し掠れ、責める声の奥から別の感情をのぞかせた。
彼女を危険から遠ざければ守ったことになると思い込み、心配する側に立たせたことがなかった。
「すまない」
「謝罪だけでは、次も止められません」
サーラが空の椅子を足で押し出した。
「やっと現場の話になったね。書きな、公爵」
出動引継票を開く。
代行責任者。定時連絡。撤退条件。
最初の欄へ、サーラと書いた。
「勝手に決めるんじゃないよ」
「代行を頼めるだろうか」
「今はね。次からは出る前に聞きな」
定時連絡は半刻ごと。連絡が二度途切れた場合は、代行責任者が全体指揮を引き継ぐ。右腕が使えない、退路が一つになる、新しい水筋が二本以上現れる。そのどれかで撤退する。
書記が横から小さく咳をした。
「全出動へ適用、と入れてください」
「領主本人を含む、とも」
エリナが続ける。
その一行を書き、署名した。
「次に私が同じことをしたら、君が止めてくれ」
「職務として止めます」
そこで言葉が切れた。
「……それだけではありません」
包帯の結び目が締まり、薬草の苦い匂いが上がった。肩は痛むのに、その短い続きだけは聞き逃さなかった。
戸口から別の伝令が駆け込む。
「故国の堤防倉庫から、速報です」
差し出された紙は端まで濡れ、泥水が床へ一滴落ちた。
書記が署名済みの出動引継票の横へ広げる。
水位上昇。
記録、不明。
カイルが顔を上げると、エリナはもう紙を取らず、伝令へ最初の質問を向けていた。
「この速報を出した時刻は分かりますか」
濡れた文字の端から、もう一滴が二枚の紙の間へ落ちた。




